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〈裂け目〉の航跡、0.003秒の空白

第1話 第1話

第1話

第1話

銀河辺境の廃棄ドックは、死んだ船が最後に見る風景だ。

カイ・レンツォは防塵マスクを外し、錆びた係留アームの向こうに浮かぶ船体を見上げた。〈グレイハウンド〉。ダイダロス級貨物船、船齢三十二年。外殻のコーティングは剥落し、船体番号のホログラムは半分が消えかけている。かつては辺境航路の主力だったが、今は解体炉に送られるのを待つだけの鉄の棺だ。

廃棄ドックの空気は、潤滑油と焼けた金属の匂いが混じっている。重力制御が最低出力で回っているせいで、足元がわずかに不安定だった。一歩踏み出すたびに体が微妙に浮き上がり、着地のタイミングが半拍ずれる。慣れない人間なら気分が悪くなるだろうが、カイにとっては辺境の港で何百回も経験してきた感覚だった。係留アームが軋むたびに、低い振動が靴底を通じて脛まで伝わる。

カイは携帯端末に表示された回航命令書を一瞥した。「第七廃棄ドックより第三解体施設への回航。所要四十八時間。乗組員一名」。一名。三万トン級の貨物船を、たった一人で動かせという命令。正規のクルーなら断る仕事だ。だが、三等機関士で、しかも操舵資格を剥奪された人間に、選ぶ権利はない。

エアロックの手動レバーを引く。油圧が死んでいるので、体重をかけて押し込む必要があった。レバーは錆びついた軋みとともに動き、カイの掌にざらついた金属の感触を残した。グローブ越しでも伝わる冷たさが、この船がどれだけ長いあいだ放置されていたかを物語っている。内部ハッチが開いた瞬間、船内の空気が押し出されてきた。循環系のフィルターが劣化しきった匂い。埃と、かすかな焦げ。それでもカイの口元には、自分でも気づかないほど小さな弧が浮かんでいた。

廃船には、人がいない。期待する視線も、失望する視線もない。それが心地いい。

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メインブリッジに足を踏み入れると、天井パネルの三分の一が脱落し、配線が蔦のように垂れ下がっていた。非常灯すら点いておらず、カイの携帯端末の画面光だけが足元をぼんやりと照らしている。操舵コンソールは待機電力すら落とされており、カイがメインバスに手動で通電すると、計器類がまばらに点灯した。ブリッジに薄い青白い光が広がり、埃の粒子がゆっくりと舞い上がるのが見えた。

「——シビル、起きろ」

数秒の沈黙のあと、ブリッジの天井スピーカーから、途切れがちな合成音声が返った。

「……起動シーケンス。ナビゲーション補助AI〈シビル〉、限定モードで稼働します。船体診断——エラー。センサーアレイの六十三パーセントが応答しません」

「知ってる」

カイは操舵席ではなく、その隣の機関モニター席に座った。操舵席に座る資格は、二年前に失った。リグリア軌道での接触事故。自分の判断ミスで貨物コンテナ三基を軌道上に散乱させた。死者は出なかったが、操舵資格は即座に剥奪された。あの日の審問室の蛍光灯の白さと、査問官が端末に剥奪コードを入力する乾いたタップ音を、カイは今でも正確に覚えている。査問官は一度もカイの目を見なかった。画面だけを見つめ、事務的にキャリアを閉じた。以来、回されるのは廃船回航か、港湾での雑務ばかりだ。

「回航命令を確認しました」シビルが言った。「第三解体施設まで、推定航行時間四十七時間十二分。推進系統の出力は定格の三十一パーセントですが、航行には支障ありません」

「三十一パーセントか。上等だ」

「レンツォ三等機関士。操舵補助の要請がありますか」

「いらない」カイは機関モニターに目を走らせながら答えた。「自動航行で巡航軌道に乗せる。俺がやるのはリアクターの監視だけだ」

操舵は自動航行に任せるしかない。手動操舵の権限は、システム上ロックされている。AIが操舵し、人間がリアクターを見る。廃船に人間を一人乗せるのは、万が一の手動シャットダウン要員というだけの話だ。

シビルが自動航行シーケンスを開始すると、船体がわずかに振動し、係留アームが外れる重い音がブリッジに響いた。〈グレイハウンド〉が、最後の航路に就く。

カイはリアクター出力が安定域に入ったことを確認し、背もたれに体を預けた。四十七時間。やることは、ほぼない。

巡航に移行してから六時間が経った。リアクターは安定している。船体各部の温度、気圧、振動値——すべて正常範囲。異常があればシビルが報告する。カイは機関モニター席で膝を抱え、天井の配線を眺めていた。

退屈だった。

端末を操作し、船内ストレージにアクセスする。娯楽データは消去済み。マニュアル類と、過去の航行記録だけが残っていた。

「VR航行ログがあるな」

〈グレイハウンド〉の航行記録は、標準的なVRフォーマットで保存されていた。ブリッジの補助コンソールに簡易VRヘッドセットが備え付けられている。古い型だが、ログの再生くらいはできるだろう。

暇つぶしにはちょうどいい。他人が操舵した記録を追体験するのは、操舵資格を失ったカイにとって、飛べない鳥が空を見上げるようなものだったが、それでも何もしないよりはましだ。

ヘッドセットを装着し、直近の航行ログを選択する。視界が暗転し、仮想ブリッジが展開された。

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VR空間の中で、カイは操舵席に座っていた。

仮想とはいえ、操舵席の視界は懐かしかった。正面にメインスクリーン、左右に航行計器のホログラム。星図が広がり、航路がオレンジのラインで示されている。巡航速度〇・一二光速。辺境航路の標準的な貨物輸送。何の変哲もない記録だ。

再生速度を四倍にして、カイは航行の流れを追った。出港、加速、巡航、減速、入港。繰り返されるルーティン。操舵担当の判断は堅実で、特筆すべき点はない。

三本目の航行ログに切り替えたとき、カイの指が止まった。

視界の端で、計器のホログラムがちらついた。一瞬のことだ。再生ノイズかと思ったが、違う。ちらつきではなく、断裂だった。時間軸が——飛んでいる。

カイは再生を巻き戻し、速度を等倍に落とした。問題の区間を注視する。

巡航フェーズの中盤。航路はまっすぐで、計器の値も安定している。だが、タイムコードを見ると、〇・〇〇三秒——正確に〇・〇〇三秒だけ、時間軸が不連続にジャンプしていた。

再生ログの破損なら、ジャンプ幅はランダムになる。〇・〇〇三秒という精密な値は、偶然のノイズではありえない。何かが、意図的にこの〇・〇〇三秒を切り取っている。

VRを解除し、ヘッドセットを外す。仮想空間から現実に引き戻された瞬間、薄暗いブリッジの空気が肌に冷たく触れた。目の奥にVRの残像がちらつく。ヘッドセットを膝の上に置き、数回まばたきをして、現実の薄暗い照明に目を慣らした。

カイは機関モニター席に戻り、航行ログの生データにアクセスした。VR再生レイヤーではなく、その下のバイナリレベル。タイムコードのヘッダ情報を直接読む。

結果は同じだった。〇・〇〇三秒の空白。バイナリレベルで時間軸が不連続。

「シビル」

「はい」

「この航行ログ、三番目のファイル。タイムコードに〇・〇〇三秒の欠損がある。破損か?」

短い処理音のあと、シビルが応答した。

「該当ファイルのタイムコードを検証しました。連続性は正常です。欠損は検出されません」

カイの指が、コンソールの縁で止まった。

目の前のバイナリデータには、明確に不連続点が存在している。それをシビルは「正常」と言った。

AIの診断エラーか。あるいは——センサーの六十三パーセントが死んでいる船だ。AI自体の判断系統がまともに動いている保証はない。

だが、カイの頭の片隅で、別の可能性がノイズのように走った。

シビルが「見えていない」のではなく、「見えないようにされている」可能性。

カイは端末を閉じず、航行ログの生データを個人端末にコピーした。コピー完了のインジケーターが点灯するまでの数秒間、カイは自分の心拍がわずかに速くなっていることに気づいた。指先が冷たい。廃船のブリッジの空調が不安定なせいだと、自分に言い聞かせた。退屈な回航任務。退屈な廃船。そのはずだった。

〇・〇〇三秒。たった〇・〇〇三秒の空白が、カイ・レンツォの最後の回航を——最後ではないものに変えようとしていた。

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