Novelis
← 目次

透明な観測者の航行日誌

第1話 第1話

第1話

第1話

観測船テセウス号の第七居住区画は、常に十七・二度に保たれている。壁面パネルの継ぎ目から忍び込む冷気が、薄いシップスーツの繊維を透過して肌に触れる。宇佐見ナギはその微かな冷気の中で端末を開き、今日もまた誰にも読まれない航行日誌の入力を始めた。

航行二三四日目。地球との通信遅延は片道六分十二秒。乗組員十二名、健康状態に異常なし——ナギの指が慣れた速度でキーを叩く。タッチパネルの表面は体温を奪うほど冷たく、指先の感覚がわずかに鈍る。それでも入力速度は落ちない。二三四日も繰り返せば、指が勝手に動く。観測船テセウス号における記録係の任務は明確だった。乗組員のあらゆる発言、行動、身体データの変動を記録し、中枢AIに同期する。人間の目による定性観測。それがこの船で彼女に与えられた唯一の役割であり、存在理由のすべてだった。

第三食堂の空気循環音が低く唸る。合成コーヒーの匂いが循環ダクトを通じて漂ってくる。本物のコーヒーを最後に飲んだのがいつだったか、もう思い出せない。この匂いには穀物を焦がしたような苦みが混じっていて、地球のカフェで嗅いだあの香りとは似て非なるものだった。〇七三〇、朝食時間帯。ナギは端末を抱えたまま食堂の隅に座り、十二人の朝を観測する。隅の席は照明がやや暗く、壁の冷たさが背中に伝わる。だがここからなら食堂全体を見渡せる。配膳レーン、各テーブルの配置、通路の動線。誰がどこに座り、誰の隣を避けるか。すべてが視界に収まる。

副長の遠野が配膳レーンの前で立ち止まった。エンジニアの黒田が二つ先のトレイを取ろうとしている。遠野の視線が黒田の手元に向かい、一瞬だけ止まる。〇・八秒。ナギはその時間を正確に記録していた。先月は一・二秒だった。その前は一・五秒。数値は確実に縮小している。遠野はすぐに目を逸らし、何も言わずにトレイを受け取って離れていく。その背中がわずかに強張っているのを、ナギは見逃さなかった。

ナギは入力する。

〈遠野副長、黒田技師との接触時に視線固定〇・八秒。前週比で短縮傾向。意識的な抑制の可能性〉

この船の人間関係は、ナギの端末の中に地図として存在していた。誰が誰に好意を持ち、誰が誰を避け、誰と誰の間に緊張が走っているか。二三四日分の観測データが積み重なった、感情の等高線図。ナギはその地図を誰よりも正確に把握していた。

ただし、地図の上に自分の座標はない。

「宇佐見さん、今日も隅っこですね」

通信士の相馬が通りがかりに声をかけた。社交辞令の笑み。口角の上がり方が左右対称で、目元に皺が寄らない。訓練された笑顔だった。ナギは小さく頷く。

「観測に最適なポジションなので」

「なるほど」相馬はそれ以上踏み込まず、自分の席に戻った。三歩目で笑みが消えるのが見えた。相馬にとってナギへの声かけは、通信士としての社交プロトコルの一環にすぎない。義務を果たした安堵が、背中の力の抜け方に表れていた。

それでいい。ナギは視線を端末に落とす。観測者は対象と距離を保つ。関わりすぎれば観測が歪む。記録係として最初に叩き込まれた原則だった。原則に従うのは容易だった。誰もナギに近づこうとしないのだから。

遠野の不器用さには法則があった。黒田が作業に没頭しているとき、遠野は必ず巡回ルートを変えてエンジニアリング区画を通る。しかし黒田が顔を上げると、遠野は即座に業務上の用件を口にする。本当の目的を隠すように。

一四三〇、エンジニアリング区画。ナギは通路の端で端末を操作しながら、その光景を記録していた。通路の床から伝わる推進機関の振動が、靴底を通じて足裏に届く。壁面を這うケーブルの束が規則正しく並び、作業用照明の白い光がすべてを均質に照らしている。

「黒田、第三推進ノズルの校正データを明日までに出してくれ」

遠野の声は平坦で、命令口調に一分の隙もない。だがその声量がわずかに低い。普段の指示より〇・三デシベルほど。近くにいるから大声を出す必要がないだけだと、遠野自身は思っているだろう。ナギにはそれが、無意識に距離を縮めようとする声だと聞こえた。

「了解です。ただ、昨日の補正値ですが——」

黒田がデータを示しながら説明する。遠野は腕を組み、表情を変えずに聞いている。だが視線の高さが違う。データではなく、黒田の顔を見ている。黒田が数値を指さすたびに、遠野の視線は一瞬遅れてデータに戻る。その一瞬のずれを、黒田は気づいていない。

ナギは記録する。ここに感情がある。遠野自身が認めていないかもしれない感情が。

船尾の観測デッキに向かう途中、医療区画の前を通りかかった。ドアの隙間から声が漏れている。船医の李だった。消毒液の鋭い匂いが、ドアの隙間から廊下に滲み出している。

「……ごめんね」

誰に向けた言葉かはわからない。通信端末は使われていない。李は一人だった。壁に貼られた小さな星図——地球周辺宙域のもの——を見つめながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。声が震えていた。低く、押し殺すように。この船で誰かに聞かれることを恐れるような声だった。

「ごめんね」

ナギは足音を殺してその場を離れた。心臓が通常より速く打っているのを自覚しながら、端末に入力する。

〈李船医、一六一二、医療区画にて独語。地球方面星図に対し謝罪の言葉。航行一九八日目以降、同様の行動を計七回確認。故郷に対する未解決の感情——後悔と推定〉

李がこの航行に志願した理由は、公式記録では「深宇宙医療データの収集」とされている。だが二三四日間観測を続けたナギには、李がときおり見せる表情の意味がわかっていた。食堂で誰かが家族の話をするとき、李の笑顔だけが〇・三秒遅れる。その遅れの中に、地球に置いてきた何かの影が差す。李は何かから逃げてきた。故郷に残してきた何かに対する後悔を、この船の外壁よりも厚い笑顔の下に隠している。

二一〇〇、個室。ナギは一日の記録を整理し、中枢AIへの同期処理を実行した。画面にログが流れていく。十二人分の行動記録、会話ログ、バイタルデータの変動。膨大な情報が圧縮され、テセウス号の記憶として格納されていく。同期の進捗バーが満ちていくのを、ナギはいつも最後まで見届ける。自分の一日の仕事が消化されていく光景を確認しなければ、眠れなかった。

同期完了。ナギは端末を膝の上に置いたまま、天井を見上げた。個室の天井は灰色の金属パネルが等間隔に並んでいるだけで、窓はない。この船のどこにいても空は見えない。観測デッキの防護ガラス越しに見える宇宙は、空とは呼べなかった。ただ暗いだけの空間。光が届く前に終わる距離。

この船には十二人がいる。十二人の感情があり、関係があり、秘密がある。ナギはそのすべてを知っている。遠野が黒田に向ける視線の意味も。李が星図に向かって謝る理由も。相馬が深夜に通信室で地球の方角を確認する癖も。航法士の真壁が左手の薬指を無意識に触る仕草も。

だが、誰もナギのことは知らない。ナギが何を考え、何を感じ、何を抱えているか。聞かれたことがない。

観測者とは透明な存在のことだ。

ナギは過去の航行日誌を遡った。自分が書いた記録を読み返す。一日目から二三四日目まで、欠落のない記録。十二人の感情の変遷が、ナギの言葉で刻まれている。だが記録の中に、ナギ自身の感情は一行もない。規定にそんな項目はないからだ。

——私だけが、この地図に載っていない。

端末を閉じようとして、ナギの指が止まった。

明日の日付欄——航行二三五日目。まだ何も記録していないはずのページに、文字があった。

薄い。端末のフォントではない。手書き入力の痕跡。筆跡解析を走らせる。ナギ自身のものではなかった。乗組員十二名の筆跡データベースとも一致しない。

四文字。

〈まだ気づかないで〉

ナギは画面を凝視した。指先が冷えていく。空調は十七・二度のまま変わらない。だが体感温度が二度は下がった気がした。背筋に走る感覚は恐怖ではなかった。もっと深い場所——記録係としての本能が鳴らす警報だった。説明できないデータ。分類不能な事象。ナギの二三四日間の観測記録のどこにも、この四文字の前兆は存在しない。

誰が書いた。いつ書いた。ナギの端末はバイオメトリクス認証で保護されている。ナギ以外がアクセスした記録はない。だが筆跡はナギのものではない。

消去しようとして、やめた。代わりにスクリーンショットを暗号化して個人ストレージに保存する。記録係の習性だった。説明できないものほど、記録しなければならない。

ナギは端末を閉じ、照明を落とした。暗闇の中で、あの四文字が網膜に残像として焼きついている。

〈まだ気づかないで〉

何に。

航行二三四日目が終わる。テセウス号は変わらず深宇宙を進んでいる。十二人の乗組員は眠りにつき、記録係の宇佐見ナギだけが暗い個室で目を開けている。枕の下で、端末が微かに熱を持っている気がした。気のせいだろう。気のせいであってほしかった。

まだ、何にも気づいていないはずだった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ