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冤罪刑事、反逆の七十二時間

第3話 第3話

第3話

第3話

宿を変えて二日目の夜だった。

神崎蓮は山谷から北へ三キロ、南千住の外れにある廃業したクリーニング店の裏手に潜んでいた。シャッターの錆びた隙間から中に入れることを、日雇い現場への移動中に見つけた。電気は来ていない。水道も止まっている。だが壁と天井がある。逃亡者にとって、それだけで上等な物件だ。

夜の十一時。コンビニの廃棄弁当で腹を満たし、ラジオスキャナーで警察無線を拾う。自分の名前が呼ばれる頻度はさらに減っていた。捜査のリソースは別の事件に回されている。だが油断はしない。減ったのは通常の捜査網であって、源さんが警告した第三勢力は別の論理で動いている。

品川ナンバーの黒いセダン。あれから一度も見ていない。消えたのではなく、見えなくなっただけだ。

スキャナーの電池が切れた。予備はない。明日、百均で買う。神崎はスキャナーをビニール袋に戻し、クリーニング店を出た。自販機で水を買うために、二ブロック先まで歩く。それだけの外出。

路地を曲がったところで、声が聞こえた。

女の悲鳴。短く、途切れた。口を塞がれている。

路地の奥。街灯が一本だけ、黄色い光を落としている。光の輪の中に三つの影。女が一人。男が二人。女の腕を掴み、壁に押しつけている。バッグが地面に転がっている。ひったくりか。

神崎の足が止まった。

関わるな。顔を見られるな。通報もできない。携帯は持っていない。逃亡者には警察を呼ぶ権利すらない。ここを通り過ぎれば、何も起きなかったことになる。それが正しい判断だ。

女が蹴った。男の一人がよろめく。もう一人が女の髪を掴み、引き倒した。アスファルトに膝をつく音。低い呻き。

足が動いていた。

判断より先に、体が反応した。十五年の刑事経験が骨に刻んだ反射。現場で市民が危険に晒されているとき、考えるより先に動く。それは訓練の成果ではなく、もはや本能だった。冤罪で全てを失っても、この衝動だけは剥がれなかった。

距離を詰める。五メートル。靴音を殺す。裸足に近い薄底の作業靴が、皮肉にも無音の接近を可能にしていた。

背後から、髪を掴んでいる男の手首を取った。手首の関節を外側に捻り、同時に肘を極める。逮捕術の基本——関節技による制圧。刑事時代、年に二回の術科訓練で繰り返し叩き込まれた型だ。男が苦痛に声を上げ、女の髪を放した。

もう一人が反応した。右のポケットに手を突っ込む。ナイフか。

待たない。神崎は最初の男を突き飛ばし、二人目との距離を潰した。相手の右手がポケットから出る前に、胸倉を掴んで引き寄せ、額を鼻面に叩き込む。頭突き。汚い技だが確実に効く。軟骨が潰れる感触が額に伝わった。男が鼻を押さえて蹲る。

最初の男が体勢を立て直し、殴りかかってきた。大振りの右フック。素人の一撃。神崎は半歩下がって躱し、相手の腕が伸びきった瞬間に踏み込んだ。襟首を掴み、足を引っかけ、体重を乗せて地面に叩きつける。後頭部がアスファルトに当たる鈍い音。男の目が白くなった。

二人目がまだ動いている。鼻血を垂らしながら立ち上がり、ポケットからバタフライナイフを抜いた。刃渡り十センチ。振り回す軌道が荒い。恐怖で手元が定まっていない。

「やめとけ」

神崎の声は低かった。刑事時代、凶器を持った容疑者に幾度も対峙した。声のトーン、視線の角度、体の構え。全てが「こちらの方が強い」と伝えるように設計されている。制圧は物理的な力だけではない。相手の戦意を折ることが先だ。

男の目が揺れた。ナイフを持つ手が震えている。三秒。男はナイフを落とし、倒れている仲間を引きずるように走り去った。足音が路地の闇に吸い込まれ、消えた。

静寂が戻る。神崎の呼吸が荒い。拳の皮が剥けている。左肩の打撲が再び疼いた。アドレナリンが引くと同時に、自分が何をしたか理解が追いついてくる。顔を見られた。声を出した。暗がりとはいえ、目撃者が増えた。最悪の判断だった。

だが、後悔はなかった。

地面に膝をついたままの女に手を差し伸べた。

「怪我は」

女が顔を上げた。三十前後。黒い髪をうなじで束ねている。白いブラウスの肘が破れ、擦り傷から血が滲んでいた。だが目が違った。恐怖に震える被害者の目ではなく、神崎の顔を——正確には、顔の造形を分析するような目で見ている。

「……大丈夫です。ありがとうございます」

声は落ち着いていた。襲われた直後の人間の声ではない。バッグを拾い上げ、中身を確認している。財布や携帯ではなく、茶封筒の存在を真っ先に確かめた。神崎はその動きを見逃さなかった。

「警察に——」

言いかけて、止めた。自分が言える台詞ではない。

「いえ、大丈夫です。警察には連絡しません」

女の口調が変わった。敬語の中に、意思が混じる。神崎を見る目が、街灯の光を受けて鋭さを増した。

「あなた——神崎蓮さん、ですよね」

空気が凍った。

神崎の全身が警戒に切り替わる。右足を半歩引き、逃走経路を確認する。背後に路地の出口。左にブロック塀。右は行き止まり。正面の女が叫べば、三十秒で人が集まる。

「人違いだ」

「三ヶ月前の捜査一課、連続殺人事件。証拠鑑定の依頼書に、あなたの名前がありました。担当刑事として」

鑑定依頼書。それは捜査内部の人間か、鑑定を受けた人間しか知り得ない情報だ。

「桐谷美咲です。元・都立法医学研究所の研究員。あなたの事件の——DNA鑑定を担当した部署にいました」

神崎の思考が加速する。DNA鑑定。模造紙に赤いペンで何度も丸をつけた、あの結節点。鑑定書の日付が証拠品搬入より十二時間早かった矛盾。その鑑定を行った部署の人間が、目の前にいる。

「鑑定結果に疑義を呈したことで、研究所を追われました。三ヶ月前に」

三ヶ月前。神崎が逮捕されたのと同じ時期だ。

「あなたを探していました。偶然ではありません。山谷周辺で逃亡者らしき人物の情報を辿って、このエリアに——」

「探していたのは、あんたか」

スーツの二人組。第三勢力。あれが桐谷だとは考えにくいが、同時期に複数の人間が神崎を捜索している事実が、事態の深刻さを物語っている。

「スーツの二人組のことなら、私ではありません。あの人たちは——おそらく、私も追っている側の人間です」

桐谷がバッグから茶封筒を取り出した。分厚い。A4サイズの書類が詰まっている。

「あなたに渡したいものがあります」

街灯の黄色い光の下で、封筒の表面が見えた。手書きの文字。『鑑定記録——非公式複製』。

「この場所では危険です。どこか——」

「待て」

神崎は封筒には手を触れなかった。罠の可能性を排除できない。元刑事の判断が、衝動を押しとどめる。

「なぜ俺に渡す。鑑定に疑義があるなら、監察に持ち込めばいい。弁護士でもいい。なぜ逃亡犯を探す」

桐谷の表情が強張った。街灯の影が頬の輪郭を削る。

「監察には持ち込みました。三日後に呼び出されて、辞表を書かされました。弁護士は三人当たりました。全員、受任を断られた。あなたの事件に触れること自体が——何かのブラックリストに載っているみたいに」

沈黙が落ちた。路地の奥で野良猫が鳴いた。遠くのサイレンが、夜の底を這うように通り過ぎた。

神崎は桐谷の目を見た。嘘を見抜く訓練を十五年間積んだ目で。瞳孔の開き方、瞬きの頻度、顎の角度。微細な表情筋の動き。恐怖はある。だが、それは神崎に対する恐怖ではない。もっと大きな何かに追い詰められている人間の——焦りだ。

封筒を受け取った。

「場所を変える。ついて来い」

クリーニング店には戻れない。桐谷の後をつけている人間がいないとは限らない。尾行確認のために、二度角を曲がり、一度来た道を戻った。桐谷は何も言わずについてきた。息は乱れているが、足取りは確かだった。

高架下の資材置き場。錆びたトタンの壁に囲まれた行き止まり。ここなら視線が通らない。

神崎は封筒を開いた。

中身は十数枚の分析データ。数値の羅列。グラフ。そして、赤いマーカーで何カ所も印がつけられている。

「あなたの事件のDNA鑑定——型が二重に上書きされています」

桐谷の指がグラフの一点を示した。

「通常、DNA型は一意です。でもこのデータには、元の型の痕跡が下層に残っている。誰かが元のデータを別のデータで上書きした。しかもそれは、鑑識の内部システムからでなければ不可能な操作です」

神崎の手から力が抜けそうになった。三ヶ月間、暗闇の中で手探りしていた輪郭が、初めて実体を持った。証拠は捏造されていた。そしてそれは、警察の内部からしか実行できなかった。

模造紙に赤ペンで引いた線。鑑定書の日付と搬入記録の矛盾。その答えが、今、手の中にある。

だが次の瞬間、桐谷が声を低くした。

「問題があります。未処理の原本——上書き前のオリジナルデータを含む証拠品が、中央保管施設にまだ残っています。ただし」

桐谷の声が震えた。初めて見せる動揺だった。

「三日後に廃棄処分が決まっています。処分されれば、二重上書きを証明する物的証拠は永久に消えます」

三日。七十二時間。

神崎は封筒を握り直した。指の関節が白く浮き上がる。

高架の上を貨物列車が通過した。轟音が会話を飲み込み、鉄橋の振動がトタン壁を震わせた。二人の影が揺れる。列車が過ぎ去り、静寂が戻ったとき、神崎の目は決まっていた。

三ヶ月間、逃げた。隠れた。耐えた。

だがもう、逃げるだけの時間は終わりだ。

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