第2話
第2話
運河の水が腰まで浸かった夜から、三日が経っていた。
神崎蓮は山谷の簡易宿泊所——通称ドヤの二階、四畳半の部屋で目を覚ました。天井の染みを数える。十三。昨日と同じだ。薄い煎餅布団から体を起こすと、左肩の打撲が鈍く痛んだ。排水管を這った夜の置き土産だ。肩を回すと、乾いた軋みが骨の奥で響いた。窓の外から、朝の喧騒が聞こえる。酔っ払いの怒声、自転車のブレーキ音、どこかのテレビから流れる朝のニュース。ここでは誰も他人の素性を聞かない。金を払えば泊まれる。名前は要るが、本名は要らない。
「田中一郎」。神崎がこの街で使う名前だ。日本で最も多い姓と、最も平凡な名。記憶に引っかからない名前を選んだ。日雇いの仕事斡旋所で毎朝番号札を引き、建設現場か倉庫作業に振り分けられる。日当八千円。宿代が二千五百円。残りで食い繋ぐ。顔を覆うタオルと作業用ヘルメットが、この街では自然な変装になった。
神崎は布団を壁際に寄せ、その下に隠した模造紙を広げた。
壁一面。いや、壁では目立つ。畳の上に広げた二枚の模造紙に、事件の矛盾点が蜘蛛の巣のように書き連ねてある。百均の油性ペン、赤と黒の二色。黒が事実、赤が疑問点。赤が圧倒的に多い。
DNA検出——被害者の爪。だが神崎は被害者に会ったことすらない。指紋——現場のドアノブ。しかし神崎のシフト記録では、犯行推定時刻に別の張り込み現場にいた。私物——被害者宅のクローゼットから発見された神崎のネクタイピン。妻の瑠衣からの誕生日プレゼントだった。いつ消えたのか、気づきもしなかった。
情報源は二つしかない。ゴミ捨て場から拾った新聞と、中古のラジオスキャナーで傍受した警察無線。新聞は三日遅れが常だが、事件の続報は追える。無線からは捜査の温度感が分かる。自分の名前が呼ばれる頻度が、ここ一週間で減った。包囲網が別の地区に移っている。少しだけ、息ができる。
神崎は赤ペンで新たな線を引いた。DNA鑑定を担当した部署と、証拠品の保管記録の間に。鑑定書の日付が、証拠品の搬入記録より十二時間早い。鑑定結果が出たのは、証拠品が届く前だ。あり得ない。だが、この矛盾は裁判で一度も指摘されなかった。弁護士は何をしていた。いや——弁護士も、グルだったのか。
赤い線が一本増える。蜘蛛の巣が、少しだけ形を変えた。
模造紙を布団の下に戻し、作業着に着替える。六時四十五分。斡旋所の受付は七時からだ。階段を降りると、共用の洗面所で顔を洗う。蛇口から出る水は錆の匂いがした。鏡の中の男は、三ヶ月前の神崎蓮とは別人だった。日焼けした肌、無精髭、窪んだ目。頬骨が浮き出て、影が濃い。刑事時代の写真と並べても、同一人物とは分からないだろう。逃亡生活が最良の変装を施した。
一階のロビーを通り抜ける。壁際のベンチに、顔見知りの男が座っていた。「源さん」と呼ばれている六十代のホームレスだ。ドヤ街の古株で、この界隈の情報は何でも耳に入る。アルミ缶集めで生計を立てているが、かつては何か別の仕事をしていた気配がある。目の奥に、ただの路上生活者とは違う鋭さがある。神崎が気づいたのは初日だった。刑事の目は、人間の「層」を見抜く。
源さんが片手を上げた。
「田中さんよ。ちょっといいかい」
声が低い。周囲を気にしている。神崎は足を止め、隣に腰を下ろした。源さんの缶コーヒーの匂い。安い煙草の残り香。
「昨日な、この辺をうろついてた連中がいた。二人組。スーツ」
「警察か」
「違う。警察はもっと下手くそだ。あいつらは慣れてる。人を探す手つきが、な」
神崎の背筋が冷えた。警察でないなら、誰だ。
「顔は」
「四十前後。体格がいい。一人はサングラス、もう一人は短髪で耳にイヤホン。通信機だろうな。組織的だ」
イヤホン。通信機。連携行動。民間の調査会社か。あるいは——
「で、聞こえたんだよ。短髪のほうが電話してた。『南千住エリアは空振り、山谷を当たる』って。お前のこと探してるんだろう」
神崎は答えなかった。答える必要がなかった。
「俺は何も聞かねえよ、田中さん。ただ——あいつら、また来る。今日か明日か。気をつけな」
源さんは缶コーヒーを飲み干し、何事もなかったように立ち上がった。背を向けたまま、もう一言だけ付け足す。
「あと、あいつら拳銃持ってた。ジャケットの膨らみで分かる。警察じゃねえのに拳銃を持ってるってのは——ろくなもんじゃねえ」
足音が遠ざかる。神崎は動けなかった。
拳銃。非警察。組織的な捜索。
三つの要素が脳内で組み合わさる。民間の興信所なら拳銃は持たない。暴力団の捜索にしては手際が良すぎる。残る可能性は——公的機関の外郭、あるいは警察内部の非公式チーム。帳簿に載らない人間たち。
神崎の冤罪は、単なる証拠捏造ではない。もっと大きな何かの一部だ。その仮説が、確信に近づいた。
部屋に戻った。斡旋所に行っている場合ではない。模造紙を引っ張り出し、新しいメモを書き加える。黒ペンで「第三勢力——非警察・武装・組織的」。赤ペンで三本の線を引く。DNA捏造チームへ、証拠品搬入ルートへ、そして弁護士へ。どこかで繋がっている。線と線の間に、まだ見えない結節点がある。
ラジオスキャナーのスイッチを入れた。周波数を合わせる。ノイズの中から、警察無線の断片が浮かぶ。
『——山谷地区、不審者情報。スーツ姿の二人組、住民から通報——』
警察も気づいている。スーツの二人組は、この街では目立つ。だが通報を受けて動くのは所轄の交番だ。巡回して、見つからなければ終わり。連中はそれも織り込み済みだろう。
神崎は窓から通りを見下ろした。朝の人の流れ。日雇いの労働者たち、缶を集める老人、自転車で新聞を配る少年。この街の住人は、互いに干渉しない。それが暗黙のルールだ。だが同時に、異物には敏感でもある。スーツの二人組はすでに目立っている。住民のネットワークが、意図せず神崎の防壁になっている。
だが、それも時間の問題だ。
神崎は模造紙を畳み、薄いビニール袋に入れて作業着の内側に仕込んだ。部屋に置いておけない。今夜、宿を変える。ここにはもう戻れない。
窓の外で、黒いセダンがゆっくりと通りを流していた。後部座席の窓が、薄く開いている。
神崎は窓から身を引いた。心臓が打つ。速い。だが、震えはなかった。こめかみに汗が一筋流れ、顎の先から落ちた。
追っ手が一つなら逃げればいい。だが二つ目の追っ手は、事件の構造そのものだ。警察の追跡を逃れながら、正体不明の第三勢力の目的を探る。逃亡者の方程式が、一段階複雑になった。
作業着のポケットに手を入れ、折りたたみナイフの感触を確かめる。百均の刃物一本。拳銃を持った組織を相手に、これだけ。
それでも、神崎は動くことを選んだ。
荷物をまとめる。模造紙、ラジオスキャナー、着替え一式、百均ナイフ。逃亡者の全財産がビニール袋一つに収まる。部屋を出る前に、一度だけ振り返った。四畳半の空間。三日間だけの根城。畳に残る自分の体の跡が、すぐに消えるだろうと思った。この街での最初の拠点が、もう過去になる。
階段を降りながら、源さんの言葉が頭の中で反復する。
——警察じゃねえのに拳銃を持ってる。
誰が神崎を探している。何のために。殺すためか。捕らえるためか。あるいは——口を封じるためか。
答えを持っているのは、模造紙の赤い線の先にいる誰かだ。
通りに出た。人の流れに紛れる。作業着とヘルメットが、神崎を「田中一郎」に変える。視線を落とし、歩調を周囲に合わせる。目立たないこと。溶け込むこと。それが今の神崎に許された唯一の戦術だ。
三十メートル先の交差点を、黒いセダンが左折していった。ナンバープレートを読み取る。品川。レンタカーではない。自家用。記憶に刻む。
足を速めた。次の隠れ家を探す。そして、第三勢力の正体を突き止める。
追われる獣が二匹目の狩人を見つけたとき——獣は、もう獣ではいられなくなる。