第1話
第1話
足音が三つ、背後で止まった。
神崎蓮は呼吸を殺し、錆びたコンテナの影に背中を押しつけた。鉄錆の冷たさが薄いシャツ越しに背骨を伝う。四月の夜風が工業地帯を舐める。潮と油の混じった空気が鼻腔を刺す。どこかで金属がきしむ音がして、心臓が跳ねた。風だ。ただの風。三ヶ月前まで警視庁捜査一課の刑事だった男の今の姿は、泥にまみれた逃亡者そのものだった。伸び放題の髪が額に張りつき、頬骨が浮き出た顔には、かつての精悍さの欠片もない。
足音が再び動き出す。二人は右へ、一人が左へ。挟み込む気だ。教科書通りの包囲パターン。かつて自分が何十回と指示した、あの陣形だ。
神崎は地面に片膝をつき、コンテナの下の隙間から左側を覗いた。砂利が膝の皮膚に食い込む。懐中電灯の光が地面を這う。黄色い円錐形の光が左右にゆっくりと振られている。距離およそ二十メートル。制服警官。拳銃のホルスターに手をかけている。若い。おそらく二十代半ば。緊張で肩が上がっている。あの構えでは咄嗟に撃てない——そんな分析が、元刑事の脳に自動的に浮かぶ。追われる側になっても、観察する癖だけは消えなかった。
右側の二人の足音が遠ざかった。フェンス沿いを回り込んでいる。合流まで四十秒。その前に抜ける。
身を低くしたまま、コンテナの列に沿って走った。裸足のコンクリートが足裏を削る。三日前に靴底が剥がれてから、この痛みには慣れた。慣れなければ死ぬ。それだけの話だ。足の裏はとうに血豆と胼胝で覆われ、痛覚が鈍くなっている。だが時折、ガラス片や錆びた金属片が新しい傷を作った。その度に歯を食いしばり、走り続ける。止まることは死と同義だった。
無線の音が風に乗って届いた。
『——神崎蓮、武装の可能性あり。発見次第、確保せよ。繰り返す——』
武装。笑わせる。持っているのは百均の折りたたみナイフ一本だ。殺人犯の烙印を押された男に、誰が武器を売る。コンビニに入ることさえできない。防犯カメラに映れば、十分以内にパトカーが来る。この三ヶ月、神崎の世界は半径五百メートルの暗がりに縮んだ。公園の水道で喉を潤し、廃棄された弁当で腹を満たし、橋の下で眠る。日本の首都のど真ん中で、透明人間として息をしている。
コンテナの切れ目で立ち止まる。前方に開けた空間。資材置き場の跡地だ。月明かりの下を横切れば、一瞬で見つかる。迂回するか。だが時間がない。
左から懐中電灯の光が近づいてくる。
走った。
全力で資材置き場を横断する。五十メートル。剥き出しの空間。月が雲に隠れてくれることを祈る余裕もなかった。足裏がアスファルトの亀裂を踏む。砕けた石が肉に食い込む。痛みを無視する。三十メートル。自分の呼吸音が耳の奥で反響する。二十。背後で怒声が上がった。
「いたぞ! 西側、資材置き場!」
残り十メートル。フェンスの手前に排水溝の開口部が見えた。格子蓋が半分外れている。体が覚えていた。三日前の下見で確認した脱出ルート。捜査一課で叩き込まれた逃走経路の事前確保——皮肉なことに、追われる側になって最も役に立っている技術だった。容疑者の逃走パターンを予測する訓練を、何百時間と積んだ。どこに逃げるか。どこに隠れるか。人間が追い詰められたとき、どう動くか。その知識の全てが今、神崎自身を生かしている。
排水溝に頭から滑り込んだ。肩が縁に引っかかる。コンクリートの角が鎖骨を抉り、声にならない呻きが漏れた。痩せた体でなければ通れなかった。三ヶ月で十二キロ落ちた体が、初めて味方をした。
コンクリートの管の中で息を整える。管内の空気は外とは別の世界だった。澱んだ水の臭い、腐った落ち葉の甘い腐臭、そしてどこからか漂う動物の死骸のような匂い。胃が引きつったが、吐くものは何もない。最後にまともな食事をしたのはいつだったか。頭上を足音が通過していく。二人、三人、四人。増えている。
暗闘の中で、神崎は自分の手を見た。見えるはずもない。だが、あの夜の感触が蘇る。
——手錠の冷たさ。
三ヶ月前。捜査一課のデスクで、神崎は連続殺人事件の被疑者として逮捕された。午後三時十七分。窓から差し込む春の陽光の中で、手錠の金属が鈍く光った。デスクの上には飲みかけのコーヒーがあった。湯気がまだ立っていた。あの一杯を、結局最後まで飲むことはなかった。周囲の同僚たちが一斉に目を逸らした光景を、神崎は今も鮮明に覚えている。十五年間共に働いた仲間が、一秒で他人に変わる瞬間。決め手は被害者の爪から検出されたDNA。現場に残された指紋。そして被害者の自宅から発見された神崎の私物。
完璧な証拠だった。完璧すぎた。
取調室で向かい合った同僚の目を、神崎は忘れない。信頼が消え、疑念に変わり、やがて嫌悪に凍りつく過程を、真正面から見せられた。蛍光灯の無機質な光の下で、取調室の壁は灰色で、机の上には書類が几帳面に並んでいた。何度も座った椅子だった。ただし、これまではいつも反対側に。
「弁解は?」
「俺はやっていない」
「証拠は全部お前を指してる」
「だから言ってる。俺はやっていない」
同僚は書類に目を落とした。それ以上、神崎の目を見なかった。ペンを握る指先が微かに震えていたことに、神崎は気づいていた。怒りか、動揺か、あるいはかつての仲間を追い詰めることへの罪悪感か。どれであっても、結果は同じだった。
元相棒の堂島涼介が取調室に入ってきたのは、その翌日だった。堂島は椅子に座り、長い間何も言わなかった。組んだ手の甲に浮き出た血管を、神崎はじっと見ていた。七年間、背中を預け合った男の手だ。張り込みの車内で缶コーヒーを分け合い、犯人の確保で共に泥まみれになり、殉職した先輩の葬儀で並んで頭を下げた。その全ての記憶が、取調室の沈黙の中で音を立てて崩れていくのが聞こえた。やがて堂島は立ち上がり、一言だけ残して去った。
「——残念だ」
その二文字が、拳よりも深く刺さった。堂島の声には怒りがなかった。あったのは、静かな失望だけだった。怒ってくれた方がまだ救いがあった。怒りには、まだ信じたい気持ちの残滓がある。だが失望は、全てが終わった後に来る感情だ。
妻の瑠衣が面会に来たのは一度きりだった。アクリル板越しに、泣きも怒りもしない顔で言った。目の下に薄い隈があった。眠れていないのだろう。だが、その声は完璧に平坦だった。
「離婚届、置いていくから」
神崎が口を開く前に、瑠衣は立ち上がっていた。指先がアクリル板に一瞬触れた——無意識の仕草だったのか、最後の別れだったのか。背中が扉の向こうに消える。追いかけることもできない手錠の重さだけが、手首に残った。あの背中を見送りながら、神崎は理解した。瑠衣は泣かなかったのではない。もう泣き終わった後だったのだ。
護送中に逃げた。計画したわけではない。護送車の事故という偶然が、鎖の隙間を作った。横転した車内で、護送官が意識を失い、手錠の鍵が床に転がった。指先が震えた。鍵穴に鍵を差し込むまでに三度失敗した。だが四度目で開いた。走った。ただ走った。無実を証明する手段を、この手で掴むために。
排水溝の上空を、轟音が切り裂いた。
ヘリだ。サーチライトの白い柱が、格子蓋の隙間から管の中を舐める。神崎は体を丸め、壁に張りついた。背中にコンクリートの冷たさ。膝を抱え、額を膝に押しつける。光が顔の三十センチ先を通過する。白い光が網膜を焼き、一瞬、視界が真っ白になった。心臓が喉元まで跳ね上がる。こめかみの血管が脈打つのが分かる。
動くな。息をするな。
光が移動した。ヘリのローター音が東へ遠ざかる。重低音が腹の底を震わせ、やがて夜の空気に溶けていった。
神崎はゆっくりと息を吐いた。吐いた息が震えていることに気づき、拳を握った。爪が掌に食い込む。震えが止まる。この三ヶ月で身についた技術だ。恐怖を握り潰す。そうしなければ、次の一歩が出ない。
排水溝の奥へ這い進む。管は五百メートル先で運河に出る。運河を渡れば、追手の包囲網の外だ。今夜は逃げ切れる。膝と肘でコンクリートの管の内壁を擦りながら、一メートル、また一メートルと進む。管の中を流れる水が手首まで浸す。冷たい。だが、冷たさが傷口の痛みを鈍らせた。
だが、逃げるだけでは何も変わらない。
三ヶ月間、神崎は逃げながら考え続けてきた。事件の矛盾点。証拠の不自然さ。あの完璧すぎる証拠群を作り上げるには、捜査機関の内部にアクセスできる人間が必要だ。鑑識のシステム、証拠保管のプロトコル、捜査情報のタイムライン——全てを知る人間。DNAをすり替えるには鑑識の保管庫に入れなければならない。指紋を仕込むには現場に先着する必要がある。私物を被害者宅に置くには、事前に神崎の自宅から持ち出さなければならない。それぞれ単独では不可能ではないが、全てを矛盾なく実行するには、捜査の全体像を把握している人間——それも、相当に近い人間でなければ。
答えはまだ出ない。だが、輪郭は見え始めている。
コンクリートの管を這いながら、神崎は唇の中で呟いた。
「必ず見つけ出す」
誰に向けた言葉かは分からない。自分自身か。それとも、まだ顔の見えない真犯人か。声は管の中で小さく反響し、すぐに消えた。
排水管の出口から夜風が流れ込んでくる。潮の匂いが濃くなった。運河が近い。風が顔を撫で、三ヶ月ぶりに——いや、逃亡を始めてから初めて、神崎は前方に開けた空間の気配を感じた。閉塞ではなく、解放の予感。
頭上で無線の声が最後にもう一度響いた。
『——対象は逃走。包囲網を拡大。各員、警戒を継続せよ——』
逃走。その通りだ。だが、いつまでも逃げる側ではいない。
神崎は排水管の闇の中を、前へ進んだ。追われる獣の目ではなく、獲物を定めた狩人の目で。