第2話
第2話
翠蘭が口にした名前が、店の空気を凍らせた。
侍女頭、孫麗華。二年前の追放劇で典薬寮の査問会に呼ばれ、「澄花が調合室に一人で残っていた時刻」を証言した女だ。あの証言がなければ、少なくとも私が砒素を混入する機会があったという論拠は成り立たなかった。孫麗華は嘘をついたのか、あるいは誰かに言わされたのか——二年間、考えなかった日はない。
「三人目の容態を詳しく聞きたい。発症はいつだ」
「四日前です。朝餉のあと、急に嘔吐して——」
「待ってくれ。順番に整理する」
私は帳場の引き出しから白紙を取り出し、蝋燭の傍に広げた。調合の覚書に使っている安物の楮紙だが、書き付けるには十分だ。墨を磨る時間が惜しいので木炭の棒を掴んだ。指先に炭の粉がざらついた。
「一人目から話してほしい。名前、年齢、後宮での役職、発症前の行動、症状の順序。省略しないでくれ。些細に見えることが重要になる」
翠蘭は一度深く息を吸い、語り始めた。
一人目。周芳儀、三十二歳。後宮の膳所を取り仕切る典膳女官。九日前の朝、湯浴み後に嘔吐。四肢の痺れが始まり、翌日には指先の皮膚が黒ずんだ。三日目に意識を失い、五日目に死亡。
二人目。鄭尚宮、四十五歳。後宮の人事を統括する尚宮。六日前、やはり湯浴み後に発症。症状の順序は周芳儀とほぼ同じだが、進行が早かった。嘔吐から半日で四肢が動かなくなり、二日で死亡。
私は木炭を走らせながら、二つの症例を並べた。発症の起点が共に湯浴み後であることは、先ほどの紙片の分析と一致する。経皮吸収型の毒物。だが二人の進行速度に差がある。鄭尚宮は周芳儀より投与量が多かったか、あるいは——。
「鄭尚宮の体格は」
「小柄な方でした。食も細く——」
体重差だ。同じ毒量なら小柄な人間に早く回る。犯人は個体差を考慮せず一律の量を使っている可能性がある。裏を返せば、極めて精密に調合する技量はあるが、臨床経験が浅い。患者ごとの体格・体質に応じた匙加減が身についていない。宮廷の薬師であれば、まずそこを考慮するはずだ。つまり犯人は薬理には通じているが、実際に人を診た経験が乏しい。書物の知識で毒を組み立てた者だ。
私は木炭を置き、紙面を指でなぞった。二人分の症例が並んでいる。薬師としての私が冷静に分析を進める一方で、別の部分が微かに震えていた。この症状を、私は知っている。知りすぎている。
「二人の皮膚の変色。黒ずみと言ったが、どういう黒さだ。墨のような真黒か、それとも青みを帯びた——」
「紫がかった黒です。最初は爪の下から始まって、手の甲、腕へと広がっていきました。周芳儀の場合は足にも」
紫黒色の末端壊死。神経毒ではない。これは血管系に作用する毒の特徴だ。経皮吸収で血流に乗り、末梢血管を収縮させ、組織への血流を断つ。壊死は末端から始まり中心へ向かう。
私の手が止まった。この症状パターンに合致する生薬を、私は一つだけ知っている。
月蝕草。
その名を心の中で呼んだだけで、喉の奥に苦い味が広がった気がした。師の調合室で初めてこの生薬に触れた日のことを、指が覚えている。乳鉢の中で砕いたときの、青臭い刺激臭。「これは命を預かる草だ」と師が言った声の重さ。薄暗い調合室に差し込む西日の中で、師の皺だらけの手が乳棒を握り、一定の速度で円を描いていた。速すぎれば成分が熱で変質し、遅すぎれば繊維が均一に砕けない。その手の動きを、私は何日もかけて真似た。
極めて稀少な高山植物で、正式な薬学書にはほとんど記載がない。適量を用いれば末梢の血行障害に劇的な効果を示すが、過量投与は逆に血管を破壊的に収縮させる。毒と薬の境界が髪一筋ほどしかない、扱いの難しい生薬だ。師の玄朔は月蝕草の調剤法を私に教えた数少ない薬師の一人だった。
「三人目——孫麗華の症状は」
「嘔吐と痺れは同じです。ただ皮膚の変色はまだ始まったばかりで、爪の下がわずかに暗くなっている程度です。ですが日ごとに顔色が——」
「発症から四日。変色が爪にとどまっているなら、投与量は前の二人より少ないか、あるいは途中で曝露が止まっている」
紙片の処方記号を改めて見た。三つの図形はそれぞれ被害者に対応している。環の大きさが微妙に異なるのは毒量の差か。そして四つ目の未完成の図形。
「翠蘭。一つ確認する。この紙片は三件それぞれの現場に一枚ずつ置かれていたと言ったな」
「いいえ、この一枚だけです。一人目の枕元にだけ置かれていました」
「——一枚に三人分の記号が最初から書かれていた、ということか」
「はい」
犯行前に三件分の設計図を一枚にまとめていた。つまりこれは即興ではなく、最初から計画された連続毒殺だ。四つ目の図形が描きかけであるのは、まだ実行していないからではない。実行の時期がまだ確定していないからだ。
だが私の思考はそこにはなかった。別の場所で引っかかっている。
月蝕草を扱えるということは、ただ生薬を手に入れただけでは済まない。月蝕草の抽出には特殊な工程が要る。通常の煎じ方では有効成分が壊れ、ただの苦い汁になる。低温で長時間かけて抽出し、酢酸で安定化させ、油脂に溶かして初めて経皮吸収が可能になる。この工程を知っている人間は——私と、師と、あとは宮廷の薬物庫の記録を深く読み込んだ者くらいだ。
そしてこの記号は師から私だけに伝えられた書式だ。
師は八年前に宮廷を退いた。今はどこにいるのかも分からない。弟子は何人かいたが、この記法を教わったのは私だけのはずだ。少なくとも師はそう言っていた。
だとすれば、二つの可能性がある。師が嘘をつき、この記法を別の誰かにも教えていた。あるいは——私が宮廷にいた頃の記録や走り書きから、誰かがこの記法を復元した。
どちらにせよ、この暗号は私に向けて書かれている。読めるのが私しかいないと知った上で、枕元に残した。犯人は私を巻き込むことを、最初から設計に組み込んでいる。
「孫麗華は、まだ話ができる状態か」
翠蘭は首を横に振った。「意識はありますが、ほとんど声が出せないと。痺れが喉にまで——」
時間がない。月蝕草の経皮毒は、末端の変色が手首を超えた段階で不可逆になる。爪にとどまっている今なら、解毒の余地はある。だがそれには月蝕草そのものが必要だ。毒を制するには、同じ生薬の精製法を変えた拮抗剤を用いるしかない。この街の薬材問屋に月蝕草の在庫があるとは思えない。つまり——。
「翠蘭。あの暗号の被害者三人について、もう一つ聞きたいことがある」
私は白紙の余白に三人の名を並べて書いた。周芳儀。鄭尚宮。孫麗華。
「この三人に共通することは何かあるか。派閥、出身地、仕えている妃——何でもいい」
翠蘭は三つの名前を見つめ、それから顔を上げた。その目にわずかな躊躇いが浮かんでいた。言葉を選んでいるのではない。この先を口にすれば後戻りできないと分かっている目だった。唇がわずかに開き、また閉じ、指先が袖の縁を握りしめた。
「——文書掛として、二年前の記録は目を通しています。澄花様の追放の件も」
鼓動が一つ、強く打った。こめかみの奥で血が脈打つのが分かった。
「周芳儀は、澄花様の調合室への薬材の搬入記録を管理していた方です。鄭尚宮は、追放の手続きを承認した人事責任者です。そして孫麗華は——」
「査問会で証言した侍女頭だ。知っている」
三人とも、私の追放に関わっている。
沈黙が落ちた。蝋燭の芯がまた小さく爆ぜ、溶けた蝋の甘い匂いが漂った。
偶然ではありえない。犯人は、二年前に私を宮廷から追い出した人間を、一人ずつ殺している。私の冤罪に加担した者たちを標的にして——そしてその犯行現場に、私だけが読める暗号を残している。
復讐。
私のための復讐を、誰かが勝手に代行している。
翠蘭が何か言いかけ、口を閉じた。私の顔に浮かんでいるものを読み取ったのだろう。それは感謝ではなかった。怒りに近い何かだった。胸の底から熱い塊がせり上がってくる。私の名前を使い、私の技術を模倣し、私の怨恨を動機に仕立てる。これは復讐ではない。もう一つの罠だ。冤罪で追われた私を、今度は連続毒殺の実行犯に仕立て上げようとしている。
四つ目の図形が脳裏にちらつく。未完成の環。次の標的。
私の追放を直接命じた人間。
「翠蘭。典薬寮の長官は、今も厳道か」
「はい」
私は白紙を畳み、懐に入れた。蝋燭の火が揺れ、二つの影が壁に重なった。
——四人目は、厳道だ。