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薬殺暗号と追放の薬師

第1話 第1話

第1話

第1話

乾いた薬草の匂いは、記憶を遠ざけるのにちょうどいい。

閉店前の薬草店には私しかいなかった。棚に並ぶ陶器の壺、紐で束ねた乾燥草の束、すり鉢に残った粉末の痕跡。壁際に積まれた麻袋からは甘草の甘い香りが漏れ、天井の梁に吊るした艾草の束が、わずかな隙間風に揺れてかさりと音を立てる。帝都の端、職人街の裏路地に押し込まれたこの小さな店が、今の私の世界のすべてだ。

秤の上に桔梗の根を載せ、目盛りを読む。三銖と半分。悪くない乾燥具合だった。指先で根の断面に触れると、適度に繊維が締まっている感触が返ってくる。水分が抜けすぎれば有効成分も飛ぶ。足りなければ黴びる。この見極めだけは、宮廷にいた頃と変わらず手が覚えている。明日の朝、咳止めの煎じ薬を取りに来る大工の老人のために、調合の下準備を済ませておく。桔梗の根を石臼で粗く砕き、甘草と紫苑を量り分けて紙包みにする。単純な作業だ。宮廷にいた頃に比べれば児戯に等しい仕事だが、それでいい。誰も死なない。誰も陥れられない。

窓の外で夕暮れの鐘が鳴った。鋳鉄の重い余韻が職人街の屋根を伝い、店の中の陶器をかすかに震わせる。私は帳場の蝋燭を吹き消し、戸締まりに取りかかった。

二年前のことを思い出す夜がある。典薬寮の白い廊下。すれ違う同僚たちが目を逸らし、足早に通り過ぎていく気配。私が調合した滋養薬から検出されたという砒素の報告書。墨痕も鮮やかなその書面を、私はついに一度も手に取ることを許されなかった。弁明の機会すら与えられぬまま、衛兵に腕を掴まれて宮廷の門を押し出された朝の冷たい空気。石畳に膝をつき、振り返ると、門扉が音もなく閉じていくのが見えた。あの日から、私は澄花という名前ごと過去を棚の奥にしまった。

格子戸に手をかけた、そのときだった。

外から体当たりするような衝撃があり、戸が内側に弾けた。蝶番の軋む音が店内に響き、棚の壺がひとつ揺れて縁まで滑った。私は咄嗟に身を引いた。転がり込んできたのは、薄い絹の衣をまとった若い女だった。宮廷の女官が着る式服だ。淡い藤色の絹地に銀糸の縁取り——文官系の位階を示す意匠だ。裾が泥で汚れ、髪が半分ほどけている。息が荒い。額に汗が浮き、肩で呼吸を繰り返している。相当な距離を走ってきたらしい。

「閉店だ。急病なら東通りの医者に——」

「薬師の澄花でしょう」

名前を呼ばれて、言葉が止まった。宮廷を出てからこの名を知る者は、ほとんどいない。店の看板には「草花堂」とだけ記してある。客は私を店主としか呼ばない。

女官は床に膝をついたまま、こちらを見上げた。目が据わっている。恐怖と、それを押し殺す意志が同居した目だ。瞳の奥に、ただ怯えているだけの人間にはない鋭さがあった。この女官は何かを覚悟してここに来ている。

「後宮で三人が倒れました。毒だと、私は思っています」

「御典医がいるだろう」

「御典医は病と断じました。でも三人が七日のうちに同じ症状で倒れて、それが偶然の病だなんて——」

声が震えていた。だが論理は通っている。七日に三人。偶然で片付けるには不自然すぎる数字だ。

私は格子戸を閉め、蝋燭に再び火を灯した。火口石を打つ手が、自分でも意外なほど落ち着いていた。芯に火が移り、橙色の光が広がる。女官の顔が薄明かりに浮かび上がる。二十歳前後。見覚えはない。私が宮廷にいた頃にはまだ出仕していなかった世代だろう。

「名前は」

「翠蘭と申します。後宮の文書掛です」

「文書掛がなぜ毒殺を疑う」

翠蘭は一瞬だけ唇を引き結び、それから衣の袷から小さく折り畳まれた紙片を取り出した。四つに折られた和紙は湿気を帯びており、懐に入れたまま長い距離を走ってきたことが分かる。

「一人目が倒れた朝、その方の枕元にこれが置かれていました。二人目のときも。三人目のときも。御典医は意味不明の落書きだと取り合いませんでした。でも私は文書掛です。これが何かの記号体系であることくらいは分かります」

私は紙片を受け取った。

指が、止まった。

和紙の上に墨で記されていたのは、文字ではない。円と線を組み合わせた図形が三つ並んでいる。左から順に、生薬の性質を示す環、投与経路を示す矢印、そして効果の発現時期を示す波線。

処方記号だ。それも、一般に流通している薬学書には載っていない古い体系の記法。煎じ薬の調合手順を図式化するために考案されたもので、この記法を正確に読み書きできる薬師は、帝都広しといえども片手で数えるほどしかいない。

だが問題はそこではなかった。

この記号の綴り方——環の開き方向、矢印の角度、波線の周期——には、流派ごとの癖がある。同じ処方を記すにも、師から弟子へ受け継がれる過程で微妙な差異が生まれる。筆の入り方、環を閉じる位置、矢印の羽根の描き方。それは筆跡以上に個人を特定しうる痕跡だ。そして今、私の手の中にある紙片の記法は、師である玄朔から私だけに直伝された書式と、筆順の一画に至るまで一致していた。

「これが読めるのですか」

翠蘭の声が遠くに聞こえた。

読める。読めてしまう。

一つ目の図形は生薬の種類を示している。苦味と痺れを伴う植物性の毒。即効性ではなく、少量を継続摂取させることで臓腑を徐々に蝕む類のものだ。二つ目は投与経路。経口ではない。図形の矢印が皮膚の層を示す向きに開いている。つまり経皮——肌から吸収させる手法だ。三つ目は時間軸。波線の間隔から逆算すると、最初の接触から症状の発現まで三日から五日。

これは処方の記録ではない。殺害の設計図だ。

「翠蘭」私は紙片から目を上げた。「三人の症状を正確に教えてほしい。いつ、どの順で、何が起きた」

「一人目は九日前です。朝の身支度の後に突然の嘔吐と——」

「待て。身支度の後、というのは確かか」

「はい。湯浴みをして、着替えを済ませた直後だと」

経皮吸収。湯浴み後の清潔な肌。毛穴が開いた状態なら吸収効率は格段に上がる。犯人は被害者の生活習慣を熟知している。つまり後宮の内部にいる人間だ。外部からの犯行ではない。

翠蘭の報告を聞きながら、私は頭の中で三件の症状を並べた。嘔吐、四肢の痺れ、皮膚の変色。いずれも経皮毒の典型的な進行順序と一致する。一人目と二人目は重篤化が早い。投与量が多かったか、あるいは体格の差か。おそらくすでに——。

「一人目と二人目は」

「亡くなりました」

予想通りだった。紙片の図形が示す毒量であれば、処置が遅れた場合の致死率は極めて高い。

「三人目は」

「まだ息があります。でも御典医は原因が分からないと。日に日に顔色が土のようになっていって——」翠蘭の声がかすれた。「私は文書の整理しかできません。薬のことは何も。でもあの紙片が読める人なら、何か分かるのではないかと」

三人目はまだ間に合うかもしれない。だがそれは私が今ここで考えるべき問題ではない。

私が考えるべきなのは、なぜこの暗号が存在するのか、という一点だ。

殺す側にとって、犯行を予告する暗号を現場に残す合理的な理由はない。証拠を増やすだけだ。だとすれば、この紙片は犯人以外の誰かに読ませるために置かれている。薬師だけが読める記法で。帝都でこれを正確に読める人間が数人しかいない記法で。

そして師の直伝である以上、私の名前は真っ先に容疑者の欄に上がる。

罠だ。二年前の追放で終わらなかった何かが、まだ続いている。

「翠蘭。この紙片を宮廷の誰かに見せたか」

「いいえ。意味が分からなかったので、読める人を探して——」

「誰にも見せるな。今後もだ」

蝋燭の炎が揺れた。格子戸の隙間から夜風が忍び込んでいる。薬草の匂いに混じって、外の路地から湿った土の匂いが流れ込んできた。

私は紙片をもう一度広げた。三つの図形の下に、四つ目の図形が薄く描きかけられている。筆圧が弱い。だが環の形は読み取れる。四人目の標的を示す記号だ。ただし生薬の指定と投与経路が未完成で、対象者を特定するには情報が足りない。

四人目がいる。

この暗号を書いた人間は、まだ止まっていない。

「……三人目の名前を教えてくれ」

翠蘭が答えた名前を、私は知っていた。二年前、私の追放を典薬寮に進言した侍女頭の名だった。

手の中の紙片が、にわかに重くなった気がした。

蝋燭の芯が小さく爆ぜ、影が壁に跳ねた。乾いた薬草の匂いが、急に遠くなった。

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