第1話
第1話
封筒の表面に、差出人の名前はなかった。
深夜二時の新宿。雑居ビル三階、神崎探偵事務所。蛍光灯が一本切れかけて、デスクの上を不規則に明滅させている。光が消えるたびに、窓の外のネオンが壁に赤や青の影を落とした。エアコンの室外機が低く唸り、それ以外は静寂だった。神崎瞬は封筒を裏返した。消印は都内。普通郵便。だが封筒の厚みが、ただの依頼書ではないことを告げていた。指先に伝わる重さが、紙の束——おそらく二十枚前後——を示している。
カッターの刃を入れる。封を切る小さな音が、深夜の事務所に妙に大きく響いた。中身は茶色のクラフト紙に包まれたA4の束。表紙に赤いスタンプ——「機密 取扱注意」。その下に手書きで走り書きされた六文字。
Loss-7。
指が止まった。
三年前。公安外事課で追っていた事件のコードネーム。政府高官連続失踪事件。七名の高官が、二年間で一人ずつ姿を消した。事故死、自主退職、海外転出。表向きの理由はばらばらだったが、消え方のパターンには共通点があった。全員が、消える直前に特定の情報にアクセスしていた。
神崎はその線を追った。追って、追い詰められた側が自分だった。
捜査資料を没収され、辞職勧告を突きつけられた夜のことを、体が覚えている。あの夜の東京も、こんなふうに蒸し暑かった。上司の声は事務的で、目は合わせなかった。「組織の判断だ」。その一言で、十二年のキャリアが終わった。
ページをめくる。心拍が速くなるのを自覚した。こめかみの血管が脈打つのがわかる。指先がわずかに汗ばんでいた。
一枚目。失踪者リスト。七名の名前、肩書き、最終確認日。見覚えのある名前が並ぶ。二枚目。各人の失踪前三ヶ月間のアクセスログ。三枚目——ここで神崎の目が釘付けになった。
七名全員に共通するアクセス先。テトラファーマ株式会社。国内製薬大手。その臨床試験データベースへの閲覧権限が、七名すべてに付与されていた。
「治験データ……」
声に出していた。自分の声が、がらんとした事務所の壁に反射して返ってくる。公安時代には辿り着けなかった接点。失踪者たちを繋ぐ糸が、製薬企業の治験にあった。
ページを繰る手が加速する。四枚目、五枚目。治験の概要。テトラファーマが進めていた新薬の第三相試験。被験者数、投与量、有害事象の発生率。数値を追うごとに、胃の底が冷えていくのを感じた。有害事象の数字が、途中から不自然に減少している。そして六枚目に添付された内部メモ。
「有害事象の過少報告を承認。厚生労働省医薬局——」
名前が黒塗りされている。だが黒塗りの下に、うっすらと文字の痕跡が透けていた。神崎はデスクライトの角度を変え、目を細める。完全には消しきれていない。読める。
厚労省幹部の名前だった。現職の審議官。神崎が公安時代に一度だけ接触した人物。あのとき、こう言われた。「その件には触れるな。お前のためだ」。
忠告ではなかった。脅迫だった。
七枚目。失踪者のうち三名が、治験データの改竄に気づいていた痕跡。内部告発の準備を示すメールの断片。送信先はすべて、送信前に削除されている。告発は届かなかった。届く前に、彼らは消された。
神崎はファイルをデスクに置き、椅子の背にもたれた。天井を見上げる。切れかけの蛍光灯が瞬く。その光が網膜に焼きつき、目を閉じても残像が消えなかった。
三年前、自分が追っていたのはこれだったのか。
あのとき一人の情報提供者がいた。厚労省の下級職員。神崎に接触してきた男。「話したいことがある」と言った。声が震えていた。電話越しでもわかるほどに。約束の日、男は来なかった。翌日のニュースで知った。交通事故。即死。
事故ではなかった。
そう確信しながら、何もできなかった。証拠は没収され、上層部は耳を塞ぎ、辞職届を書かされた。あの男の顔を、今も覚えている。丸い眼鏡をかけた、神経質そうな三十代。名前は——
ファイルの七枚目に戻る。失踪者リストの備考欄。七人目の項に小さく記載された関連人物。
「牧村俊一、厚労省大臣官房付、事故死」
あの男だ。
牧村は七人目の失踪者に情報を渡そうとしていた。渡す前に消された。そして七人目も消された。連鎖だ。知った者から順に、一人ずつ。
では、このファイルを今手にしている自分は——
考えが形になる前に、体が動いた。
窓ガラスに赤い光が走った。直径二ミリほどの点。レーザーサイト。壁を舐めるように移動し、神崎の胸元に向かって——
床に伏せた。本能だった。思考より先に筋肉が反応する。公安時代に叩き込まれた動作が、三年のブランクを無視して体を動かした。膝と肘がリノリウムの床を打つ鈍い痛み。だが痛覚は後回しだ。
銃声。
ガラスが砕ける音。破片が頭上を飛び越えていく。デスクの上のファイルに、ガラスの粉が降り注ぐ。夜風が割れた窓から吹き込み、散乱した書類を揺らした。
二発目。壁に弾痕。角度から逆算する。向かいのビルの屋上。距離およそ八十メートル。使用火器はおそらく小口径ライフル。サプレッサー付きなら音はもっと小さいはずだが、今のは抑えきれていなかった。急いでいる。
三発目は来ない。
撃ち手が位置を変えている。次の射線が通るまで、十秒か十五秒。
神崎は床を這い、デスクの下に手を伸ばした。テープで固定してあったグロック19を剥がし取る。チェンバーを確認。装填済み。スライドを引く音が、静まり返った事務所に響いた。
ファイルを掴む。封筒ごと防水ポーチに突っ込み、ジャケットの内側に押し込んだ。ポーチの角が肋骨に食い込む。構わない。このファイルは、三年分の答えだ。
階下でエンジン音が唸った。一台ではない。重いディーゼル音。SUVだ。
窓際に近づけない。正面玄関は塞がれている。残るのは非常階段。
神崎は姿勢を低くしたまま事務所のドアを蹴り開け、廊下に転がり出た。非常灯の緑色の光が、薄暗い通路を照らしている。階段は右。二階の踊り場を駆け下り、一階の防火扉を肩で押し開ける。
裏路地。湿った空気。夏の東京の夜の匂い——アスファルトの熱気と、どこかの飲食店から流れる排気。生ゴミの甘い腐臭が混じっている。足元の水たまりが、ビルの非常灯を反射してぬらりと光った。
左を見る。路地の先、大通りに黒いSUVのテールランプが見えた。もう一台が回り込んでいる。挟撃の構え。
右。行き止まり——ではない。ビルとビルの隙間、人一人がやっと通れる幅の通路。その先に、コインパーキングの照明が見えた。
走った。
背後で金属製のドアが蹴り開けられる音。追手が非常階段を降りてきた。複数の足音。統制が取れている。素人ではない。
狭い通路を抜け、コインパーキングに飛び出す。車が三台。その中の一台——紺色のスバル・レヴォーグ。見覚えがあった。依頼人の車だ。昼間ここに停めると言っていた。
ポケットを探る。依頼人が「緊急用に」と渡してきたスペアキー。あのとき不自然だと思った。なぜスペアキーを探偵に預けるのか。今なら理由がわかる。依頼人は、こうなることを予測していた。
エンジンが掛かる。ギアをドライブに入れ、アクセルを踏み込んだ。タイヤが悲鳴を上げる。パーキングのバーを突き破り、大通りに飛び出した。
バックミラーに黒いSUVのヘッドライトが映る。二台。距離百メートル。急速に詰めてくる。
道路標識が目に入った。首都高四号新宿線、入口まで三百メートル。
神崎はハンドルを切り、合流路に突っ込んだ。加速。八十、百、百二十——
首都高の夜間は空いている。だが空いているということは、遮蔽物がない。直線でSUVに追いつかれる。レヴォーグの馬力では振り切れない。
必要なのは速度ではない。判断だ。
バックミラーの中で、追手の二台が車線を変える。左右に散開し、挟み込もうとしている。その動きに、神崎の目が細くなった。
連携が速すぎる。ハンドサインでも無線でもない間合いで、二台が同時に動いた。周波数ホッピング。暗号化された通信。民間のセキュリティ会社がこの種の装備を持つことはない。
公安の通信プロトコルだ。
追っているのは、犯罪組織でも企業の私兵でもなかった。
国家だ。