第3話
第3話
翌朝、千鶴が再び薬房を訪れた。
衛士は昨夜と変わらず戸口に立っていたが、千鶴の姿を見ると黙って道を開けた。芙蓉の遺言で処刑が保留されたという事実が、この侍女にある種の通行権を与えているらしい。後宮とは、そういう場所だ。権威と前例が、規則よりも重い。
「昨夜は突然に失礼いたしました」
千鶴は薬房の入口で丁寧に頭を下げた。昨夜よりいくらか顔色が良い。少しは眠れたのだろう。だが目の奥にある硬い光は変わっていなかった。悲しみではない。何かを果たそうとする者の目だ。
「座ってください」
私は薬棚の前の座を示した。千鶴は躊躇いなく腰を下ろした。薬房の異様な匂い——乾燥した草根と、染みついた煎じ薬の酸味が入り混じった空気——に顔をしかめることもない。
「お聞きしたいことがあります」
「私も、お話ししたいことがあって参りました」
千鶴の声が低くなった。衛士に聞かれることを気にしているのだろう。私は黙って先を促した。
「芙蓉様は、亡くなる数日前から様子がおかしかった」
「おかしい、とは」
「怯えておられました。普段はおおらかな方で、些事に動じるような気性ではない。それが、五日ほど前から——」
千鶴は膝の上で指を組んだ。記憶を正確に辿ろうとしているのが分かった。
「ある晩、芙蓉様が急に私を呼ばれました。『誰かに薬を盗み見られている』と仰って」
「薬を盗み見る」
「はい。芙蓉様は冷えの持病をお持ちで、澪殿に調合いただいた煎じ薬を毎夕服用されていました。その薬湯を準備する際に、誰かの視線を感じると」
私は芙蓉に処方していた養生薬の組成を思い返した。当帰、芍薬、桂皮——ごく一般的な配合だ。盗み見る価値などない。だとすれば、見られていたのは薬そのものではなく、芙蓉がいつ、どこで、どのように薬を摂取するかという習慣のほうだ。
「芙蓉様は、誰に見られていると思っておられましたか」
「分かりません。ただ、『典薬寮の者かもしれぬ』と漏らされたことがあります」
典薬寮。後宮への薬の供給を管轄する官署。そこの長が典薬頭の宗近であることは知っている。直接の面識はほとんどないが、師匠の死後に薬房の管理権を私に残す決裁を下したのは宗近だったと聞いた。
「それを尚侍様には」
「申し上げました。ですが、芙蓉様の思い過ごしであろうと」
千鶴の口元が、わずかに歪んだ。無力感だった。主の不安を訴え、退けられた侍女の。
「千鶴殿。なぜ私にこれを話すのですか」
「芙蓉様の遺言を果たすためです。澪殿を守るとは、澪殿の疑いを晴らすことだと考えています。そのために使えるものは、すべてお渡しします」
率直な物言いだった。感傷ではなく、論理で動いている。この侍女は感情に流される人間ではないのだと、私は理解し始めていた。
千鶴が去った後、私は薬房の戸を閉めた。衛士の咳払いが戸越しに聞こえる。
座り込み、手元の帳面を広げた。まず、鴆蝋の調合法を紙に書き出す。師匠から口伝で受け継いだ手順を、初めて文字に起こした。書くことへの躊躇いはあった。だが、頭の中だけで考えていては見落としが出る。
鴆蝋。主成分は三つ。
一つ、白霜草の根から抽出した粗毒。これが肝臓を破壊する本体だ。二つ、鬱金の精油。粗毒を脂溶性に変え、水に溶かしたとき無味無臭にする媒介。三つ、甘遂の粉末。腸管からの吸収を遅らせ、六刻の遅効性を生む調整剤。
この三つを特定の比率で混合し、低温で三日間かけて蝋状に固める。固めた蝋を削り、茶に溶かせば完成する。
問題は原料だ。鬱金と甘遂は、どちらも一般的な薬種だ。後宮の薬房にも在庫がある。帝都の薬種問屋なら、どこでも手に入る。だが白霜草は違う。
私は棚を見上げた。上段右から七番目。昨夜指を伸ばしたあの空の棚板。
白霜草は高山にしか自生しない希少な薬草で、根の採取には専門の知識がいる。誤った時期に掘れば毒性が失われ、深く掘りすぎれば根が傷んで成分が変質する。師匠は毎年秋に自ら山に入り、必要な分だけを採取していた。師匠の死後、私は白霜草を扱っていない。採取地を知らないわけではないが、後宮を離れる自由がなかった。
つまり、犯人は白霜草を外部から入手している。
帝都で白霜草を扱える薬問屋は限られる。希少であるがゆえに、流通経路は狭い。もし購入記録を辿ることができれば、犯人に繋がる糸が見つかるかもしれない。
私は帳面に書き出した調合法の文字を見つめた。師匠の秘伝。これを知る者は私だけのはずだった。だが、現に鴆蝋は作られた。
可能性は二つしかない。師匠が口伝以外の方法で調合法を残していたか、あるいは、私以外の誰かが独自に同じ毒に辿り着いたか。
後者は考えにくい。鴆蝋の調合における三成分の配合比は極めて繊細で、試行錯誤で到達できる類のものではない。白霜草の粗毒と甘遂の比率が僅かにずれれば、遅効性が失われて即効毒になるか、あるいは毒性そのものが消える。この精密さは、体系的な知識の裏付けなしには再現できない。
だとすれば、前者だ。師匠が、どこかに記録を残していた。
師匠は口伝だと言った。書物には残さないと。私はその言葉を疑ったことがなかった。だが、師匠が亡くなったのは私が八つの年だ。口伝で伝えるには、私は幼すぎた。師匠はそれを承知していたはずだ。万が一に備えて、文字として残していた可能性は——ある。
認めたくなかったが、論理はそこに帰着する。
帳面を閉じ、私は薬房を見回した。この小さな部屋の中に、師匠の手がかりはもうない。十年かけて隅々まで知り尽くした場所だ。秘伝書のようなものが隠されていたなら、とうに見つけている。
答えは、この薬房の外にある。
白霜草の入手経路。師匠が残したかもしれない記録の行方。どちらも、この薬房に座っているだけでは辿れない。だが衛士は戸口に立ち、私は実質的にここから動けない。
千鶴の顔が浮かんだ。「使えるものはすべてお渡しします」と言った、あの真っ直ぐな目。
人に頼る、ということを、私はこの十年でほとんどしてこなかった。必要がなかった。薬草は手を伸ばせば棚にあり、知識は師匠が頭の中に入れてくれた。一人で完結する世界。それが揺らいでいる。
だが今は、手が足りない。認めるしかなかった。
私は帳面の新しい頁を開き、帝都で白霜草を扱う薬問屋の名を書き出した。記憶にあるのは三軒。師匠が取引していた問屋が二軒、もう一軒は師匠の死後に開業したと風の噂で聞いた店。いずれも宮外にある。
千鶴に、宮外への使いを頼めるだろうか。侍女が宮外に出るには相応の手続きがいるが、主の喪に関わる用事であれば許可は下りやすい。
帳面を閉じ、筆を置いた。
頼むという行為の重さが、喉の奥にわだかまっている。他人に借りを作ることへの本能的な抵抗。だがそれ以上に、他人を巻き込むことへの——何と呼べばいいのか。千鶴はすでに遺言という重荷を背負っている。その上にさらに、私の疑いを晴らすための危険を負わせるのか。
燭台の炎が揺れた。壁に映る影が一瞬大きく膨らみ、すぐに縮んだ。
芙蓉は死の間際に、私を守れと言った。その遺言に応えようとする千鶴がいる。私が一人で抱え込むことは、芙蓉の遺志に応えようとする千鶴の覚悟を、軽んじることになりはしないか。
——理屈だ。自分を納得させるための。
だが薬師にとって、理屈は最も信頼できる道標だ。
私は帳面をもう一度開き、千鶴への依頼の要点を整理し始めた。白霜草の購入記録。半年以内の取引。購入者の名と所属。必要な情報は三点、それ以上は聞かなくていい。
帳面の片隅に、ふと目が留まった。先ほど書き出した鴆蝋の調合法。三つの成分。その配合比。師匠の声で脳裏に刻まれた数字の列。
これと同じものを、誰かが知っている。
その誰かは今もこの後宮のどこかにいて、私に疑いが向いていることを知っている。おそらくは、それを計算に入れている。
薬棚の白霜草の空白が、暗がりの中で妙に目を引いた。十年間拭き続けた棚板。その清潔さが、今は不在の証拠のように冷たく光っている。