第1話
第1話
樹脂製の警棒を振り下ろした瞬間、俺の頭の中では、午後二時の役員打ち合わせの議題が三つ目まで読み上げられていた。 一つ、既存顧客の基盤刷新案件の進捗。二つ、競合ベンダーの相見積もり対応。三つ、下期の人員アサイン。 ――そして、青く甲殻に覆われた犬みたいな生き物が、俺のいたはずの場所を薙ぎ払い、コンクリートに似た床に爪を立てて滑っていった。 ごり、と嫌な音がした。警棒の先が、犬の首の後ろ、甲殻の継ぎ目に入った音だ。 頭の中の議題は、四つ目に進まなかった。 代わりに、別のものが浮かんだ。《推定HP 六十前後/次の一撃で落ちる/ドロップ相場 二万円前後》。うちの営業部で使っている見積もりシートの、原価と粗利を並べたあの行のような、素っ気ない数字だった。 二万円。 ドラム式洗濯機の、頭金になる金額だ。
ここで少し、時間を巻き戻させてほしい。 俺は鴨下久志、三十四歳。都内の中堅SIerで営業係長をやっている。妻あり、子なし、住宅ローンあり。変化が嫌いで、朝のパンはずっと同じコンビニの同じ棚の同じフジパンだ。 そんな俺が、なぜ朝から地下で犬っぽい魔物を殴っているかというと、話は三ヶ月と四日前に遡る。 火曜日だった。いつもどおり京浜東北線で品川に着いて、いつもどおり港南口の階段を下りた。その日だけ、八潮橋の手前の古い雑居ビルの前に、オレンジ色のバリケードと、眠そうな顔の協会職員と、のぼりが一本立っていた。 《特別異空間管理法に基づく指定ダンジョン/八潮リフト/難易度E〜D/新規冒険者歓迎》 ああ、また増えたのか、と思っただけだった。 都内でダンジョンが出現するようになって三年。新宿、渋谷、池袋、品川、地下鉄の工事現場と見分けがつかない入り口がぽつぽつとできている。同期の西園寺は「一過性のバブル」と断じていたが、電力会社が魔石を買い取り、建材メーカーが甲殻素材を仕入れ、損保会社がダンジョン特約を売り出した時点で、少なくとも俺の生きている間は消えそうにない。 俺がそのビルに立ち寄ったのは、出現から三日後の金曜日だ。 朝から胃が痛かった。月曜の役員報告を控えた見積もりがペンディングのまま週末に突入しようとしていて、課長は半笑いで「鴨下さん、土日で詰めておいてくれるよね」と言い残して出張に出ていた。 のぼりの横に、小さな紙が貼られていた。 《Eランク登録者募集中/当日発行可/手数料五百円》 その五百円が、やけにリアルだった。五百円でできる手続きが、この世にまだあるのか。マイナンバーカードの再発行より安い。 地下に下りると、協会職員の神楽坂さんという女性が、銀行の窓口みたいなカウンターで書類を広げてくれた。免許証を出してタブレットに署名をし、小さなカードを受け取るまで十五分。 「鴨下さん、Eランクは一階層までしか入れませんけど、一階層の魔物は弱いですから。ゴブリンとブルーフロッグくらいです。軍手と懐中電灯さえあれば大丈夫ですよ」 神楽坂さんは定食屋で日替わりを勧めるみたいにそう言った。 俺はその日、ほんとうに見学するだけのつもりで、カードを尻ポケットに入れた。それだけのつもりだった。 でも、一階層は想像していた「洞窟」ではなく、だだっ広い地下駐車場のような空間で、遠くの柱の陰に、ぺたりと座り込んでいる緑色の影が見えた。気がついたら、俺はその影に向かって歩き出していた。役員報告の見積もりが頭から消えた、というのは確かだ。 ゴブリンは、近づくとちゃんと嫌な顔で俺を見上げた。 そのとき頭の上に、うっすらと数字が浮かんで見えた気がしたのは、たぶん気のせいだった。《推定HP 十二前後/攻撃力 竹刀で小突かれる程度/報酬相場 四百五十円》。毎日エクセルに打ち込んでいる数字の並び。 俺は尻ポケットの折り畳み傘で、そいつの頭を三回叩いた。三回目で「ぽん」と音を立てて消え、床に親指の先くらいの灰色の石が転がった。 スマホに通知が来た。《魔石(E級・一般)/四百三十円》。 四百五十円で見積もったのに、二十円安い。 それが最初の感想だった。ダンジョンが怖いとも、俺が強いとも思わなかった。見積もりが二十円ずれたことが、営業として気に入らなかった、それだけだ。 翌週の月曜から、俺は八潮リフトに毎朝寄るようになった。
話を今朝に戻す。 三ヶ月続けて、俺の朝は完全にルーティン化した。ワイシャツの袖をまくり、ネクタイを第二ボタンの隙間に突っ込み、片手にコンビニのブラックコーヒー、もう一方にホームセンターで買った樹脂製の伸縮式警棒。剣ではない。神楽坂さんに「剣は免許がいるけど、護身具ならセーフです」と教わった。 ゴブリン二匹で八百二十円。コーヒー代二百円を引くと純益六百二十円。月換算で一万二千円。昼飯代だ。 最初の二週間で気づいたことがいくつかある。Eランクのゴブリンは、折り畳み傘でもちゃんと死ぬ。査定金額は毎日ほぼ一定で、誤差は十円から三十円の間に収まる。神楽坂さんは毎朝カウンターの隅で同じマグカップにほうじ茶を注いでいる。俺と同じくらいの時間帯に入ってくるサラリーマンは、三人。うち二人はジョギングウェアで、戦わない。もう一人はCランクだという噂で、三階層まで潜って、昼前に汗をかいて上がってくる。そういう景色に、俺は三ヶ月で完全に慣れた。 その数字の積み重ねが、今朝、狂った。 奥の壁際に、見たことのない影がうずくまっていた。青みがかった甲殻、犬のような頭、中型犬ほどの体躯。ゴブリンの倍はある。頭の上にうっすら数字が浮かんだ。《推定HP 百二十前後/攻撃力 警棒では足りない/推定ドロップ相場 二万円前後》。 二万円が、胃のあたりに落ちてきた。美香が家計簿アプリのスクショ付きで「ドラム式洗濯機の買い替えを検討してほしい」とLINEしてきたのは、昨日の夜だ。スクショの下に、赤字で手書きの丸が引かれていた。《今月の家電積立 不足》。うちの洗濯機は九年目で、脱水のとき十円玉を数えるような音が鳴るようになって半年。一番安いドラム式で十八万する。俺の今の副業収入では、一年半かかる。 Eランクは一階層までしか入れない。でも、一階層の中で出会った魔物を狩ることまでは禁止されていない。そういうルールだった、はずだ。たしか。 俺はコーヒーの缶を床に置き、スーツの上着を柱の足元に畳んだ。ネクタイはもう外してある。 警棒を両手で握り直した。 犬が喉の奥で低く唸り、駆け出してきた。俺はその二秒で、十年前までバスケ部の二番センターだったことと、午後二時の役員打ち合わせの議題と、美香の「早く帰ってきてね」を同時に思い出した。 ――そして、左足で床を掴んだ。
一撃目で、犬は横にもんどりうった。半身を起こし、もう一度俺を睨む。頭の上には《残り六十前後》の数字。半分。俺の見積もりが当たっていた。 その事実に、手が震えた。怖いからじゃない。この三ヶ月間、ゴブリンを折り畳み傘で叩きながら、俺は何かをずっと数え続けていた、と、ようやく気づいたからだ。 二撃目を振り下ろした。 今度は「ぽん」と鳴った。 床には親指大ではなく、五百円玉ほどの、澄んだ青い石が残った。蛍光灯みたいな光源を受けて、石の底で小さな光点が動いた気がした。 スマホが鳴る。が、いつもの通知音ではなかった。 画面を見ると、査定画面のローディングが止まっていて、こう表示されていた。 《魔石(D級・希少)/査定中……しばらくお待ちください》 査定中。三ヶ月で、一度も見たことのない文字列だった。 ポケットの中で、もう一度震えが来た。今度はアプリの通知ではない。電話の着信だった。 画面に出ている名前は、「八潮リフト管理事務所 神楽坂」。 Eランク登録のときに、一度だけ押した番号。向こうから掛かってきたことは、三ヶ月で一度もない。 俺はコーヒーの缶の横に畳んだままのスーツの上着を見た。午後二時の打ち合わせ。美香の洗濯機。役員報告のKPI。四百三十円のゴブリン。昨日までの俺の朝は、そういう小さな数字の積み重ねでできていた。 青い石が、足元でちらりと光った気がした。光点は、ゆっくりと、石の内側を右から左へ移動しているように見えた。錯覚かもしれない。でも、今まで俺が叩き落としてきた何百個の灰色の石は、どれも、ただ灰色にそこに転がっているだけだった。 着信音が鳴り続けている。 俺は、まだ電話に出ていない。