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スーパーの裏のミニダンジョンと、時短料理の主婦

第1話 第1話

第1話

第1話

青い甲殻の犬が、喉の奥で低く唸ったとき、わたしの頭の中には、卵十個入り百九十八円と、月曜日の保育園のプール開きと、夫のYシャツのアイロンがあと二枚残っているという事実が、きれいに一列に並んでいた。  地下一階層。フードマートかわごえ南の駐車場のゴミ置き場の脇、オレンジ色のバリケードの向こう側。壁から漏れる蛍光灯みたいな光、ぬるい風、グレーの床。業務用バックヤードの延長のような場所。ここまで何度も来ている。けれどこの犬を見るのは、初めてだった。  頭の上に、うっすらと数字が浮かんで見えた気がした。《推定HP百二十前後/警棒では足りない/推定ドロップ相場二万円前後》。  二万円。  わたしは鴻巣千夏、三十六歳。専業主婦。長女五歳、長男二歳、夫一人、犬なし、ローンあり。エコバッグの中に、ホームセンターで買った樹脂製の伸縮式警棒と、軍手と、未使用のジッパー袋を二枚。卵パックはいちばん上、下には潰れないように人参を敷いた。お迎えは十六時。昼食はそうめんと冷凍コロッケで済ませる予定。二十五分の余裕。義母はバーコード決済も気味が悪いと言う人だけれど、その義母にも、この二ヶ月のわたしの朝のことは一度も話していない。夫にも話していない。話していないまま、二ヶ月、皆勤で通っている。  わたしは一歩、後ろに下がった。

 ──二ヶ月前までは、こんな朝が来るとは、思っていなかった。  二ヶ月前の火曜日、わたしはいつもどおり保育園に二人を預けて、自転車でフードマートかわごえ南に来た。駐車場の隅、業務用のゴミ置き場の脇に、見慣れない立て看板が出ていた。《特別異空間管理法に基づく指定ダンジョン/南口リフト/難易度E〜D/新規冒険者歓迎》。ああ、ここにもできたのか、と思っただけだった。ダンジョンが出るようになって三年。コンビニの新店舗の感覚で、近所の主婦たちは「あら、また」と言うようになっていた。  のぼりの脇に《Eランク登録者募集中/当日発行可/手数料五百円》とあった。マイナンバーカードの再発行より安い。保育園の上履きより安い。長女の遠足のおやつ代より、ほんのちょっと高いくらい。その五百円が、やけにリアルだった。  ベンチに座った協会職員の女性が「ご見学だけでもどうぞー」と、お惣菜売場の試食コーナーみたいな声で言った。オレンジ色のバリケード、眠そうな顔の協会職員、ダンジョン協会のロゴが入ったのぼり。コンクリートの階段が地下に続いていて、上には業務用エアコンの室外機があり、その下に「足元注意」の貼り紙があった。  わたしはその日、エコバッグを膝にのせたまま、ほんの十五分だけ下りた。洞窟ではなく、業務用バックヤードの延長のような場所だった。グレーの床、壁から漏れる蛍光灯みたいな光、ぬるい風。柱の影に、緑色の小さな影が、ぺたりと座っていた。その日、わたしは何もせずに上がってきた。財布の中に五百円玉が二枚入っていたから、ライセンスだけ作って帰った。  なんとなく、卵の特売の前に、何か一つだけ「自分のための買い物」をしておきたかったのかもしれない。  次の日の朝、わたしは家を出る前に、玄関のシューズボックスの上に、長男のおさがりの傘と、長女のお絵かき帳の余りページに書いた献立メモと、ホームセンターで買った樹脂製の伸縮式警棒を並べた。警棒は剣ではない。協会のパンフレットに「剣は免許がいるけど、護身具ならセーフです」と書いてあった。お絵かき帳の余りページに、わたしはこう書いていた。  《保育園送り→スーパー→地下十五分→帰宅→洗濯→昼食→お迎え》  地下十五分。その十五分の枠を、わたしは段取りに組み込んだ。最初の日に倒したゴブリンは一匹で、お絵かき帳の余白に、わたしは赤いボールペンで小さく「四百三十円」と書いた。卵パックの値段の上に、自分が稼いだ最初の数字が並んだのを、しばらくぼんやり見ていた。  長女五歳、長男二歳、夫一人、犬なし、ローンあり。段取りが命。冷蔵庫の中身と、保育園のお迎え時刻と、夫のYシャツの在庫枚数を頭の中で同時に並べる癖がある。並べるだけで、特に得はしてこなかった。二ヶ月前までは。

 今朝も、わたしは保育園の駐輪場で長女のヘルメットを外し、長男を抱っこ紐から下ろし、連絡帳を担任の先生に渡し、それから自転車を飛ばしてフードマートかわごえ南の駐車場に着いた。九時四十二分。お迎えは十六時。  地下一階層に下りたわたしは、いつもどおり柱の陰のゴブリンを二匹、一筆書きの動線で処理した。鶏もも肉を切ってから玉ねぎを切ると、まな板を一度しか洗わなくていい。それと同じだ。先に右の柱、次に左の柱。「ぽん」「ぽん」と、ほとんど同時に二つの音が鳴って、協会アプリに八百四十円の通知が入って、駐輪料金六十円を引いて七百八十円の純益。頭の上に《推定HP十前後/報酬相場一匹四百円/処理時間十二秒》という字の並びがうっすら浮かんでいた気がする。気のせいに違いないけれど、それは毎日献立メモに書いている字の並びにそっくりだった。  平均すると一日七百円。月に一万四千円。地味だけれど、長女の遠足のおやつ代と、長男の新しいスタイ三枚と、わたしのリンスのワンランク上の銘柄に、ちょうど化けるくらいの額だ。いつもの朝だった。  そのあと、奥の壁際に、あの青い犬がうずくまっていた。ゴブリンの倍以上。中型犬。青みがかった甲殻、犬のような頭。

 犬が唸る。駆け出してくるまで、体感で二秒。  《警棒では足りない》というのは、わたしの見積もりだ。わたしの見積もりは、ときどき二十円ほどズレる。二十円のズレなら、ボウル一杯の出汁を捨てるくらいの被害で済む。  今月、夫は「冬のボーナスがちょっと出ないかもしれない」と、夕食の途中で他人事みたいに言った。長女の進級準備品リストには、新しい体操服と上履きと、お道具箱の中身の補充が並んでいる。締切は今月末。二万円、という数字が、エコバッグの底に落ちていた。  わたしはエコバッグを足元に置いた。卵のパックだけは、つぶさないように、いちばん上に乗せ直した。人参の上に。軍手をはめ直して、警棒を両手で握った。  二秒のうちに、わたしはもう一度、頭の中の一覧表を並べ直した。プール開きの水着の名前シール、Yシャツのアイロン二枚、今朝の長女の「ママ、はやくおむかえきてね」。それから、犬の首の後ろの薄い甲殻の位置。  左に半歩。鍋を火から下ろすときの、左手の引き方。鶏もも肉の脂身が跳ねるのを避けるときの、腰の落とし方。犬の頭がわたしのいたはずの場所を通り過ぎる。視界の端に、首の後ろの薄い甲殻が見えた。  警棒を振り下ろした。  「ぽん」とは、鳴らなかった。  代わりに、ごりっ、という嫌な手応えと、犬が横に倒れる鈍い音が、業務用バックヤードのような空間に響いた。  犬は死んでいなかった。半身を起こして、わたしを見上げて、もう一度唸った。  残りHP六十前後、と頭が勝手に計算する。半分。一撃で半分。  わたしは、自分の手が震えているのに気づいた。怖いからではなくて、見積もりが、当たっていたからだった。  二撃目のタイミングを、わたしは計った。相手の首が二度上下した。二度目の最下点の直後、半呼吸の空きがある。出汁が沸騰する直前、表面が小さく動く、あの半呼吸と同じだ。  そこで振り下ろす。  この二ヶ月のあいだ、ゴブリンを警棒で叩きながら、わたしは何かをずっと頭の中で数え続けていた。出汁の塩分濃度を数えるのと、同じ手つきで。そのことに、いま、わたしは初めて気づいた。  「ぽん」と、今度は鳴った。  青い甲殻の犬は、床に、五百円玉ほどの澄んだ青い石を残して消えた。

 スマホが鳴る。わたしは、ポケットから取り出す前に、一度、大きく息を吐いた。  画面を見る。  《協会アプリ/査定完了/魔石(D級・希少)/査定中……しばらくお待ちください》  査定中。今まで、一度も見たことのない表示だった。今までの魔石は、ぜんぶ、取り出した瞬間に買取金額が出ていた。出ない、ということは、相場表に載っていない、ということだ。  握りしめたまま立ち尽くしていると、ポケットの中でもう一度、通知が震えた。今度は、アプリの通知ではなかった。電話の着信だった。画面に出ている名前は、「南口リフト管理事務所 佐久間」。Eランクで登録したときに、一度しか押したことのない番号。向こうから掛かってきたことは、二ヶ月間、一度もなかった。  駐車場の上では、午前十時のチャイムが鳴っているはずだった。卵のパックは、エコバッグのいちばん上で、まだ無事だった。  澄んだ青い石が、わたしの足元に転がっている。蛍光灯みたいな光を受けて、石の底のほうで、小さな光点がちらりと動いた気がした。  わたしの頭の中の一覧表のいちばん下、《地下十五分/目標七百円》の行の下に、書き足したおぼえのない一行が、うっすらと浮かんで見えた。  《査定中/二万円以上/要確認》  着信音が、鳴り続けている。  わたしは、まだ電話に出ていない。

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