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卵焼きの温度

第3話 第3話

第3話

第3話

六月の教室は、湿っていた。

梅雨入りしたばかりの空気が、開けた窓から床のワックスの匂いと混じって、足元に低く溜まっている。蛍光灯の白が、四月の光より少しだけ重く感じられた。俺はリュックを机の脇に下ろしながら、自分の席に座る前に、目の端で前の席を確認していた。

灰崎の席は、空いていた。

三日目だった。

机の上には、深い紫の文庫本が一冊、表紙を上に向けて置かれている。栞紐が、左ページの三分の一あたりに挟まったまま、机の縁から数センチ垂れている。月曜の朝、彼が来なかった日からずっと、誰の手も触れていない位置と角度のままだ。窓を開け閉めするたびに、栞紐の先だけが揺れる。それ以外は、机ごと時間が止まっている。

俺は椅子を引いて座った。前の席の背もたれが、いつものように視界の半分を覆ってくれない。背もたれが空いているせいで、教壇の方まで一直線に視界が抜ける。その抜け方の不自然さが、ここ三日、俺の喉の奥にずっと引っかかっていた。

教室はざわついていた。月曜から数えて三日、誰も灰崎の話題を口にしない。鈴木のグループは新しいスマホゲームの話で笑い、川村は廊下で女子と何かを言い合っている。日直は黒板の日付を書き換え、出欠簿を回す。「灰崎」の欄に「欠」のハンコが、三日連続で押されているのを、俺は出欠簿を回すときに一度だけ確認した。

それを見た俺以外、出欠簿を二度見した人間は、たぶん一人もいなかった。

文庫本の表紙に、ほんの薄く埃が乗り始めている。三日分の埃だった。窓際の机は、外気とエアコンの結露で、思っているより早く埃が積もる。栞紐の付け根の辺りに、白っぽい筋がうっすら見えた。彼の指先が、いつもページの角を撫でていた場所だった。

——気にされていない。

声に出さずに、俺は自分の喉の奥でだけ、呟いた。

朝のホームルームで、担任が出欠を取った。

「灰崎」

担任のチェックの動きは、止まらなかった。三日目の「欠」を、ボールペンの先で機械的に打つ音だけが、教卓の上で乾いて鳴った。連絡があるのかないのか、担任は何も言わなかった。続けて「池田」と呼んで、池田が「はい」と返した。それだけだった。

一限目が始まる前、俺は引き出しの奥からノートを引き抜いた。

表紙の角はもう、二か月前よりさらに丸まっている。ページをめくる指が、自分でも分かるくらい、いつもより早かった。最後の方、四月十七日からの灰崎のページを、もう一度開いた。

四月十七日「卵焼きは甘党。母親と味の好みが合わない」 四月二十二日「シャープペン、芯は0.5。Bを使う。筆圧は弱い」 五月七日「弁当を食べる速度が日によって違う。体調か気分」 五月十六日「下校、必ず西門。バス停の方ではなく、駅の南側」 五月二十日「文庫本、表紙が変わった。前のは紫、今度は紺」 五月二十八日「咳が出始めた。マスクを忘れがち。たぶん家に置いてくる」

書いた本人が、めまいに似た感覚で読み返した。三年間で他のクラスメイト全員に書いた量より、この二か月の灰崎一人分のほうが、明らかに多かった。

そして、五月二十八日の咳のメモの下に、俺は何も書いていなかった。

書く機会がなかったわけじゃない。先週、灰崎は確かに机に伏せていた時間が長くて、口元を手で覆う仕草が増えていた。俺はそれを見ていた。見ていたのに、書かなかった。書かなければ、深刻にはならない気がしていた。書いた瞬間、灰崎の体調が、俺の中で「観察対象」になることが、なぜか怖かった。

机を一つ挟んだ向こうで、川村が大きな声で笑った。鈴木のグループがそれに合わせて笑った。窓の外で、運動部の朝練の声が遠く聞こえる。すべての音が、灰崎の席を素通りしていく。

「ねえ、これ誰の?」

不意に声が降ってきて、俺は顔を上げた。

クラスメイトの一人——大野、四月の席替えで一番後ろになった女子——が、灰崎の机の上の文庫本を、人差し指の先でつついていた。表紙ではなく、栞紐の先を、つまみ上げるくらいの力で揺らしている。

「これ、ずっと置いてあるんだけど」 「灰崎のじゃね」と、俺が答える前に、隣の席の松永が言った。「あいつ、休みっしょ、最近」 「ふーん」

それで終わりだった。

大野は栞紐をつまんだ指をすぐ離して、「埃すご」と笑い、自分の席に戻っていった。文庫本は、つままれた拍子に栞紐の位置がほんの少しだけずれて、また机の上に静止した。

それで、終わりだった。

そのことに、俺の指の関節が、机の下で勝手にきつく握られた。

放課後、俺は職員室の前で十分間、立っていた。

担任の机に近づけば、灰崎の住所を、たぶん教えてもらえる。家庭訪問用の名簿を、担任は引き出しの上から二段目に入れている——四月の家庭訪問の日、廊下から偶然見えた。三年分の観察ノートに、職員室の引き出しの位置まで書き込んでしまう自分が、今この瞬間ほど嫌になったことはなかった。

けれど結局、俺は職員室の戸を、開けなかった。

「灰崎の家、聞きたいんですけど」と切り出す自分の声が、想像しただけで震えた。担任が「お前、灰崎と仲良かったっけ?」と一言聞き返すだけで、俺はその場に立っていられなくなる気がした。

代わりに、俺は図書室に行った。

図書委員の連絡名簿は、カウンターの内側の棚に、学年ごとにバインダーで綴じてある。司書の先生はカウンターの奥でパソコンに向かっていた。俺は二年三組の名簿を、いかにも自分の貸出履歴を確認するふりで開いた。

灰崎健介。住所欄は、図書委員の連絡名簿のページに書いてあった。市内、駅から徒歩二十分の住宅街。番地まで、丁寧な文字で記されている。たぶん灰崎の自筆だった。「7」の縦棒のはらいが、俺の机の前で揺れていた栞紐の角度と、どこか似ていた。

俺はその住所を、自分のノートには書かなかった。

代わりに、目の中に焼き付けて、図書室を出た。

学校を出て、駅とは反対方向の住宅街へ歩いた。六月の空は、灰色と薄い白のあいだで揺れていて、傘を持つかどうか迷う種類の雲が、低く流れていた。アスファルトは雨上がりで、あちこちに濡れた色の濃淡が残っている。Tシャツの背中が、シャツの内側の汗で、歩くたびに微かに張りつく。

二十分の道のりを、俺は二十五分かけて歩いた。

途中、足が二度止まった。一度目は信号でも何でもない、ただの電柱の前で。二度目は、もう一本曲がれば灰崎の家、というブロック塀の角で。塀の隙間から、知らない家のキンモクセイの葉だけが、青く茂って覗いていた。

帰ってもいい、と思った。

帰っても、明日の朝、教室に行けば、もしかしたら灰崎は座っているかもしれない。机の上の文庫本を、自分の手で取り上げて、栞紐を直して、ページを開くかもしれない。俺は何もしなくていい。三年間そうしてきた通り、何もしないことの方が、たぶん俺の生存技術には合っている。

——けれど。

栞紐が三日揺れていた。

文庫本の表紙に、三日分の埃が積もっていた。

クラスの誰も、それを開かなかった。

俺はもう一度歩き出した。

ブロック塀を曲がると、二階建ての、少し古い建売の家が並んでいた。表札の苗字を、一軒ずつ確かめながら歩く。三軒目に、薄く塗装の剥げた門柱の上に「灰崎」と書かれた木製の表札があった。

俺は、その門の前で止まった。

インターホンは、門柱の右側、腰の高さより少し上にあった。

白いプラスチックの押しボタン。ボタンの中央が、押された回数のぶんだけ、薄く黄ばんでいた。

俺は、人差し指を、その黄ばんだ中央のすぐ上まで運んだ。

指先と、ボタンとの距離は、たぶん三センチもなかった。

その三センチを、押し込めなかった。

三年間、俺の人差し指は、自分の家のインターホン以外を押したことがなかった。自販機のボタンも、教室の出席ボタンも、押すたびに音が鳴る種類のものは、全部、誰かの目が向く方向に押す。今、この門の向こうで鳴る音は、俺の音だった。俺以外の音にできる人間は、ここにはいない。

人差し指が、わずかに震えた。

指の腹に、初夏の湿った空気が、薄く貼りついていた。

押せ、と自分に言った。

押せ。三年分のノートの七ミリの厚みは、たぶん、この三センチを、押し込むためにあった。

俺は、息を、一つ、吸った。

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