第2話
第2話
予鈴の余韻が消える前に、俺は黒板消しのチョークの粉が斜めに射し込む光の中で、リュックの肩紐をぎゅっと握り直した。教室の蛍光灯が一本、瞬きを混ぜて点いた。
灰崎は俺より先に教室を出ていた。図書委員の昼当番、と日直名簿の貼り紙だけが教えてくれた。机の上には文庫本が置きっぱなしで、栞紐が机の縁から少しだけ垂れている。深い紫の表紙、さっきまで彼の指先が撫でていた角の擦れ。俺はそれを横目に確認しながら、自分の机の引き出しに観察ノートを戻し、足音を立てないように廊下に出た。
帰り道、駅前のコンビニの自動ドアが、入る人と出る人で交互に開いては閉まる。俺はそのリズムを数秒だけ見送ってから、横を素通りした。今日は炭酸も肉まんも要らなかった。リュックの底で観察ノートの表紙が、歩くたびにこつんとパスケースに当たる。その軽い音が、家までの十五分の間、ずっと耳の奥でこだましていた。商店街のシャッターを撫でて吹いた春風が、首筋の生え際だけを冷やしていく。すれ違った下校途中の小学生が、肩からはみ出した縄跳びを引きずる音にも、俺は無意識に「右利き、たぶん末っ子」と頭の中でラベルを貼っていた。三年分の癖で、俺の網膜はもう、観察を止め方を忘れている。
家に着いて、母の「おかえり、今日早いね」に「うん」とだけ返し、自室の襖を閉めた。ベッドの端に腰を下ろし、リュックの底からノートを引き抜く。表紙はとっくに角が丸まり、背の糊が二か所ほど剥がれかけている。三年も使えば、ノートも老人の顔になるらしい。表紙には何も書いていない。万一誰かに中を読まれたら、それだけで俺の高校生活は終わるからだ。
最初のページを開いた。
最初のページの日付は、一年生の四月十七日。入学から二週間目だった。
「鈴木翔太——朝のホームルームで腕時計を二回見る。十分前と五分前。時間管理が癖。先生に頼まれごとされやすい」
文字は今より丸かった。ペンの圧も強くて、紙が薄く凹んでいる。最初は本当に、こんな小さなメモから始めたのだ。誰かと話すための覚え書きというよりは、自分が会話に巻き込まれたときに、相手のことを「知っている」状態で受け答えするための、ささやかな予防線。会話で詰まらない。沈黙で殺されない。それだけのために、俺はクラス全員の癖を集め始めた。
ページをめくる。
「川村光輝——笑い声がでかい。けど誰かが滑った時はワンテンポ遅れて笑う。空気を読んでから音量決めてる」 「吉野遥——美術室常連。スケッチブックの表紙、いつも左肩にぶつけるみたいに抱える。利き手は右だけど絵は左でも描く」 「田所——体育祭の練習でだけ声を張る。普段は小声」 「松永——三限終わりの十分休みに必ずトイレ。休み時間で位置取りが読める」
並んでいるのは名前と、たった一行か二行の癖。ページの右上には、必ず日付と曜日。三年分。書き溜めた人数は、もう数える気にもならない。
途中の章には、自作の表が貼り付けてある。クラスメイトを縦軸、横軸にも同じ顔ぶれを並べて、交点に「○」「△」「×」「不明」が手書きで埋まっている。○は組ませても揉めない、△は片方が我慢する、×は教師が止めないと事故る。何のための表かといえば、班分けや席替えで「俺がこっそり予測する」ためだけだった。
予測して、誰にも言わなかった。
予測が当たっても、誰にも自慢しなかった。
俺はただ、教室で起きる小さな事故を全部、事前に分かっていること——それが自分の中の唯一のアイデンティティだった。誰も俺に頼らない。けれど俺は、誰のことも分かっている。透明な観察者は、そういう歪んだ全能感で、三年間、椅子に座っていた。
最後の方のページに、ゆっくり指を進めた。
二年生の冬、十二月の項に、灰崎健介の名前が二回だけ出てくる。
「灰崎健介——教室移動、必ず最後尾。鈍いんじゃなく、最後尾の方が他人と歩幅を合わせなくて済むから選んでる」 「灰崎健介——図書委員、月曜と木曜の昼当番。教室で弁当を食べる回数は週二回」
それだけしか、俺は彼のことを書いていなかった。三年で二行。今日のぶんを足して、三行。
なのに、彼の指先がページの角を撫でる動作も、肩甲骨が制服の生地を押し上げる呼吸の幅も、襟足の跳ね方も、俺はもう全部知っている。書かなくても、勝手に網膜の奥に貼りついている。他のクラスメイトは、書かなければ忘れる。書いて初めて固定される。けれど灰崎だけは、書かないほうが鮮明だった。書こうとペン先を近づけるたび、なぜか紙の上で字が逃げた。
——書く必要がない、というより。
書いてしまったら、何かを認めることになる気がしていた。
何を、と問われると、答えられなかった。
俺はノートを膝の上に置き直し、シャープペンの芯を一度カチカチと出した。今日のぶんを書き加えるためだった。芯先が紙に触れる前に、指がほんの一瞬だけ止まった。止まった理由も、自分では説明できなかった。息を一つ吐いて、いつもの倍ほど慎重に、文字を置く。
「灰崎健介——卵焼きは甘党。母親と味の好みが合わない」
書き終えて、芯を引っ込めた。
その瞬間、妙な感覚があった。
これまでの三年分の観察は、全部「誰かが事故らないように」「俺が会話で詰まらないように」のためだった。情報を集める。けれど集めた情報は、絶対に動かさない。テーブルに駒を並べておいて、俺は一度も指さない。このノートは三年間、ずっと防御の盾だった。
なのに今日のこの一行は、違った。
灰崎が母親の卵焼きを苦手だと言ったこと。それは「事故予測」にも「会話の予防線」にもならない。完全に、俺と灰崎の間にしか意味のない情報だった。クラス全員の地図の中に置く点ではなく、たった一人を指す矢印だった。誰かを避けるための情報ではなく、誰かに近づくためにしか使えない情報。盾の裏側に、初めて、向きの違う一行がまぎれ込んでしまった。
俺はその矢印を、ノートの上で、しばらくじっと見ていた。指先が無意識に、その一行の下に薄い線を引きそうになって、慌てて止めた。線を引いてしまったら、本当に「特別」だと自分で認めることになる。それだけは、まだ早い気がした。
——使い道のない情報を書き留めた。生まれて初めて。
そう気づいた瞬間、ノートのページが急に厚みを失った気がした。三年積み上げた観察が、全部ただの紙束に見えた。誰の役にも立たない。誰の助けにもならない。事故を予測しても俺は止めない。組み合わせを知っていても、俺は提案しない。透明な観察者の蓄積は、透明なまま、明日の弁当箱の脇に置かれて終わる。
悔しいわけではなかった。
ただ、つまらなかった。
机の上の蛍光灯が、ふっと目盛り一つぶん暗くなった気がした。電球がへたってきている。母にそろそろ替えてくれと頼まないといけない。俺はノートを閉じ、表紙の擦り切れた角を、昼間に灰崎が文庫本を撫でた指の動きを真似て、一度だけなぞった。指の腹に、紙の繊維のささくれが微かに引っかかった。三年間、自分でも触らなかった角だった。
癖は、伝染するものらしい。
ノートの紙束の重さを、久しぶりに指先で量った。三年分の他人の癖が、ぴったり七ミリの厚みになっていた。重さで言えばリンゴ一つよりずっと軽い。けれど七ミリのうち、俺自身の意思で動かしたページは、一枚もなかった。
ページが厚みを取り戻すのか、もっと薄くなるのか。俺はまだ、自分の手で確かめたことがなかった。
翌朝、俺は普段より十分早く家を出た。理由は自分でもうまく言えなかった。
教室に着くと、灰崎はもう自分の席にいた。文庫本を開いていた。深い紫の角が、朝の光に薄く照り返している。
俺はリュックを下ろし、椅子を引いて座った。前の席の背中越しに、彼の襟足が見える。少し伸びかけて、首筋で柔らかく跳ねている。
「おはよう」と、声には出さなかった。
代わりに、引き出しの奥のノートを、指先で一度だけ確認した。昨日書き加えた一行が、紙束の最後で、まだ薄い飴色の照りを保っている気がした。
書かずにはいられないだろう、と俺は思った。
明日も、明後日も。それが盾でも予防線でもないと知っていながら、たぶん俺は、灰崎についての二行目を、三行目を、書き足してしまう。
引き出しの奥で、シャープペンが、転がって金具に当たる小さな音を立てた。