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卵焼きの温度

第1話 第1話

第1話

第1話

弁当箱の蓋を開けると、海苔の匂いが鼻先を掠めた。

小さな樹脂製の弁当箱の中に、白米と海苔の黒い帯、そして昨晩の残りらしいハンバーグが、几帳面に三つの区画に分けられている。母の盛り付けは、いつも端正だった。仕切りのプラスチックには、ハンバーグから滲み出たソースが、ちょうど境界線で堰き止められて止まっている。そのことが、なぜか今日は少しだけ、息苦しい。

四月の窓際、午後の光が机の表面で粉のように滑る。割り箸を割る音が、自分の耳にだけ妙に大きく響いた。後ろの席のグループは昼食を囲んで笑い、廊下の向こうでは女子の悲鳴混じりの笑い声が跳ねている。俺は背中を丸めて、母の作ったハンバーグに箸を刺した。芯まで冷えていた。

保冷剤と一緒に四時間、リュックの底で揺らされた肉は、表面のソースだけが妙に粘り、内側は霜のように冷たい。噛み締めれば、玉ねぎの甘さが舌の奥にゆっくり立ち上がる。母は刻み玉ねぎを長く飴色に炒める派だった。それは確かに母の味で、確かにうまかったけれど、その「うまさ」を共有する相手が、この教室には一人もいなかった。

これで三年目だ。

高校に入って一年、二年、そして三年。クラス替えのたびに、俺は「景色」になる訓練を積んできた。観察者でいること。誰にも気づかれないこと。話しかけられないように、けれど壁にもなりすぎないように、ちょうどいい透明度で椅子に座っていること。

それは思っているより難しい。鈴木のグループに目を合わせすぎれば「お前なに見てんの」と絡まれる。完全に俯いていれば「あいついっつも暗いよな」と背中で笑われる。窓の外と弁当箱と教科書の角を、ローテーションで眺める。それが俺の三年間で身についた、生存技術だった。

俺の席は窓際の後ろから二番目。教科書を十五度ほど傾ければ、左目の視界に廊下、右目の視界に校庭が入る。教室の中の視線分布を最小限の頭の動きで把握できる、観察者にとっての特等席だった。

ハンバーグの脇に詰められたブロッコリーを噛む。茎の繊維が奥歯の隙間に挟まる感触。母は俺がぼっちだと知らない。「友達と楽しんできてね」と毎朝、保冷剤を押し込んだ弁当箱をリュックに入れてくれる。俺はその「友達」を、三年間ずっと、母の前でだけ捏造し続けてきた。

鈴木と昼飯食ったよ、とか、文化祭の準備が大変でさ、とか。本当の俺は、文化祭の班分けで「あ、そっちでいいよ」と最後に残った椅子に黙って座る側の人間だった。母の前で口にする「友達」の名前は、いつも教室の隅で誰かが呼ぶのを盗み聞きした名前の組み合わせで、俺はその名前を口にするたび、自分の喉の奥に小さく錆を刻むような気がしていた。錆は、もう三年分積もっている。

——カタン。

前の席で、椅子が引かれる音がした。

灰崎が、自分の席に座り直したらしい。図書委員で、口下手で、痩せていて、俺と同じくらい教室に馴染めない男。教室移動のときも一人、グループ分けでは最後に余る方の一人。けれど不思議とハブられているという雰囲気はない。ただ「いない」ことになっている。俺と同じ種類の透明度を持っている。

灰崎は背中をこちらに向けたまま、文庫本を開いた。表紙はもう何度も触ったらしくて、角が白く擦り切れている。深い紫のカバー。栞紐が指先で揺れていた。

彼の指は、本のページをめくるとき、必ず右手の人差し指の腹で角を一度だけ撫でてから、ゆっくりと持ち上げる。雑な扱いはしない。背中の肩甲骨が制服の生地を薄く押し上げて、呼吸のたびに、ほんの数ミリ上下している。襟足の少し伸びかけた髪が、首筋で柔らかく跳ねていた。そういう細部を、俺はなぜか、出席番号より先に覚えてしまっている。観察者の癖が、彼にだけは妙に細かく作動した。

俺は箸を止めた。観察するのは癖だ。背表紙のタイトルを読み取ろうとして、目を細めた瞬間——

「あの」

灰崎が、振り返った。

心臓が、跳ねた。

四月の最初。前にいるだけのこの男と、俺はまだ一度も話したことがない。

四月の最初どころか、二年生で同じクラスだったときから一度もない。同じ教室に何百時間いても、こちらから声をかける選択肢を、俺は最初から自分の手札から外していた。今、彼の黒い瞳が、まっすぐ俺の顔を見ている。睫毛が思っていたより長くて、その奥の瞳が、ほんのわずかに揺れていた。逃げ場が、なかった。

「卵焼き、半分」 「え」 「あ、いや。母さんが、俺、甘いの苦手って言ってんのに、今朝、四つも入れてきて。残すの、悪いから」

灰崎の声は、本当に小さかった。教室のざわめきにかき消されそうな声で、けれど早口で、まるで言い訳を準備してきたみたいに言い終えると、彼は弁当箱の蓋に卵焼きを二切れ、箸でつまんで載せ、こちらへずいと差し出した。

蓋の縁に、ほんの少しだけ、しょうゆの跡が滲んでいた。

弁当箱の蓋というのは、通常は仕切りの役にしか立たない、家族の領域の延長物だ。それが今、教室の境界を越えて、俺の机の上に差し出されている。差し出した側の指先は、わずかに震えていた。彼の手が震えていたのか、それを見ている俺の視界の方が震えていたのかは、よく分からなかった。

俺は、たぶん、この時、自分の顔がどうなっていたか覚えていない。

ただ、口の中のブロッコリーをどうにか飲み下したのは、覚えている。

「……いい、の?」 「うん、頼む」

頼むって、何を。

もらってくれって意味の、頼む。

俺は、震えそうになる箸先で、卵焼きの一切れを蓋から自分の弁当箱の白米の上に運んだ。砂糖の照りで、表面が薄い飴色をしている。母の卵焼きは出汁を吸わせる派だった。だからこういう色のは、家じゃ滅多に出てこない。

口に入れる。

——甘い。

舌の上で、砂糖と卵黄が一瞬で溶けた。だし巻きじゃない、関東風の、砂糖をしっかり入れた、フライパンで焼かれた、家庭の味の卵焼き。母さんも、こういうのを昔焼いてくれた気がする。中学に上がる前まで。

喉の奥が、わけもなく、熱くなった。

飲み込むのが惜しくて、舌の上で長く転がしていたら、卵の縁の少し焦げた部分だけが、わずかに苦かった。その苦さがあるから、甘さがちゃんと甘く立ち上がる。料理のことなんて何も知らない俺でも、そのくらいは分かった。誰かが俺のために箸でつまんで分けてくれた一切れだという事実が、その小さな焦げ目の苦さに、勝手に意味を貼りつけていた。

「うまい」

声が、少しだけ、かすれた。

灰崎は「そう」とだけ言って、もう前を向いていた。耳が、ほんの少し、赤かった。

それから俺たちは、何も話さなかった。

話す必要がなかった、というほど大層なものでもない。ただ、話さなくても、机一つ分の距離が、さっきまでとは違う密度で満ちていた。俺はハンバーグの最後の一切れに箸を刺し、口に運ぶ。さっきまで芯まで冷たかったはずのそれは、なぜか少しだけ温度を取り戻している気がした。錯覚だと、自分でも分かっていた。錯覚だと分かっていても、舌の上の芯が、確かに、温かかった。

灰崎は文庫本を読み、俺は残りの弁当を食べた。窓の外で、二年生の体育の号令が遠く聞こえた。蛍光灯の白い唸りも、後ろの席の笑い声も、変わらずそこにあった。けれど、机の表面の温度だけが、ほんの少しだけ、違っていた。

これが、俺の四月の温度だった。

三年間「景色」だった俺の制服の内側に、初めて、誰かの体温が入ってきた春の昼。

予鈴が鳴った。

灰崎は文庫本に栞を挟むと、机の隅にそっと立てた。角が白く擦れた、深い紫のカバー。

俺は弁当箱の蓋を閉めて、リュックに仕舞った。蓋の裏側に残った薄い飴色の照りを、ティッシュでなぞる。なかなか取れなかった。

引き出しの奥から、表紙の擦れたノートを引き抜く。三年使っている、誰にも見せない、観察ノート。クラスメイトの癖、誰と誰が組めば動くか、誰がいつ何を笑うか——俺がこの教室で唯一武器にできる、たった一つの蓄積。

俺はペンを握って、新しいページに、たった一行だけ、書いた。

——灰崎健介。卵焼きは甘党。

書き終えて、ノートを閉じる。

背中越しに、灰崎の栞紐が、教室の風で、もう一度ふわりと揺れた。

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