第2話
第2話
母の足音が遠ざかってから、しばらく動けなかった。
ドアノブから指を離したのに、手の形だけが残っていた。握っていたものが、急に消えてしまったあとに似ていた。
「……ねえ」と呼びかけて続かなかった、その続きが、廊下のどこかに張りついたまま、剥がれずにいる。母も、たぶん剥がせない。僕も、剥がせない。
時計の針は動いていた。動いているのに、止まって見える、いつもの錯覚。今朝はその錯覚に、別の質感が混じっている気がした。時計が止まっているのではなく、時計のまわりの空気のほうが、何かを止めて、聞き耳を立てている。そんな感じだった。
机の上の、半分残した朝食。冷めた味噌汁の表面に、薄い膜が張っていた。指でなぞると、膜は声もなく割れた。割れた膜の下で、ネギが、沈んだまま動かなかった。沈んだネギは、ほんの少しの揺れで方向を変えるくせに、僕の指の力では浮き上がってこない。すくおうとして、結局すくえずに、箸の先だけが汁の中で重くなった。
スマホを開いた。家族LINEの未読が、朝より増えていた。母から二件、姉から二件、父から一件。けれど、開けなかった。開けば、わかってしまう気がした。何が、と訊かれても答えられない。ただ、わかってしまう。それが、こわかった。
階下で、また足音がした。父のものだった。昼休みに帰ってくる日ではなかったはずだ。父と母の声。短いやりとり。聞き取れる単語は、ひとつもない。聞き取れないからこそ、ふたりの間の取り方だけが、こちらの胸まで届いてくる。何かを決めかねている人の、間の取り方だった。文と文のあいだに、息ふたつぶんくらいの沈黙が挟まれていた。その沈黙のたびに、台所の冷蔵庫の低いうなりだけが、家中で唯一はっきりと、僕の耳に届いた。
昼を少し回ったころ、ふたたび階段を上がってくる音がした。今度は、二人ぶんの足音だった。
ドアの前で、二つの足音が、並んで止まる。
「ちょっと、いいか」
父の声だった。母ではなく、父が声をかけてくるのは、本当に久しぶりだった。声色は、いつもの父より少し低くて、少し丁寧だった。仕事の電話を受けるときの、よその家の人と話すような声。けれど、よその家の人に向けるその声を、息子に向けるしかなかった父の中身のほうが、どこか震えているのが、薄い板越しにも伝わってきた。
「……うん」
返事ができたことに、自分のほうが驚いた。喉のどこが動いたのか、よくわからなかった。けれど、声は出た。三年で初めて、ドアを開けることなく、自分から音を返した気がした。
ドアの向こうで、父が一度、息を吸う音がした。吸って、吐ききらずに、また少し吸い直す音だった。
「あのな」
「……」
「おばあちゃんが、亡くなった」
時計の振り子の音が、急に大きく聞こえた。振り子の重さに、空気のほうが追いつけていない。そんなずれた響きだった。耳の奥で、自分の脈の音が、振り子と少しずれた拍子で鳴っていた。重なりそうで重ならない、そのわずかなずれが、胸の底を細く引っ掻いた。
「……いつ」
訊いた声が、自分のものではないみたいに、薄かった。
ドアの向こうで、母が何か言いかけて、飲み込み、もう一度言いかけて、ようやく言葉にした。
「……三日前。葬儀は、昨日、終わったの」
終わった、という言葉が、ドアの板を一度震わせて、こちらの胸まで届いた。板が震えたのか、自分の鎖骨のあたりが震えたのか、もう区別がつかなかった。
「なんで」
訊くつもりのなかった言葉を、僕は訊いていた。
「なんで、教えてくれなかったの」
母は、すぐには答えなかった。父が、何か言いかけた気配があったが、父も止めた。母の言葉を待ったのだ。廊下の蛍光灯の、かすかな唸り。誰かが衣擦れの音をひとつ立てた。それだけの間が、ずいぶん長く感じられた。
「……来なくていいって、思ったから」
母の声が、板の向こうで、低くなった。
「連れて行ったら、あんたが、もっと動けなくなるかもしれないって、思ったの」
「お母さんが、勝手に、決めたの」
「……ごめんね」
ごめんね、と母は言った。三年間、母が僕に言い続けてきた、あの「ごめんね」と同じ温度の声で。低くて、湿っていて、こちらに届く前に半分、自分の胸に戻してしまうような、そういう声だった。
ドアを挟んで、僕は、何も返せなかった。母を責めたいわけではなかった。三年、家から一歩も出ない息子のために、母はきっと、葬儀の席で何度も嘘をついたのだろう。上の子は仕事で来られない、どうしても外せない用があって、そんな嘘を、ひとつ、またひとつと。その嘘の重さで、僕は、ここに、こうして生かされている。
そのことが、わかってしまった。
「……ありがとう」
そう言うつもりだった。けれど声にはならなかった。代わりに、ドアに額を押しつけて、目を閉じた。木の冷たさが、額からこめかみへと、ゆっくり下りていく。三年ぶんの誰かの体温が、この板の向こう側に、ずっと、立っていた。
父が、コトリ、と何かをドアの前に置く音がした。
「これ、お前宛だ」
「……え」
「向こうの家を整理してたら、ばあちゃんの仏壇のとこに置いてあった。お前の名前だけ、書いてあった」
それから父は、母を促すような小さな足音をたてて、階段を降りていった。母は、しばらくドアの前にいた。何か言いそうにして、結局、何も言わずに、父のあとを追った。最後に、母が一歩踏み出すまでの、ためらいのような半拍が、板越しに、はっきりと伝わってきた。
二人の足音が、完全に消えるまで、僕は息を止めていた気がする。
ドアを、ほんの少しだけ開けた。
廊下の床に、薄茶色の封筒がひとつ、置いてあった。
茶封筒。角が、少し折れていた。封の糊が、乾いた爪のような色で固まっていて、その上に、震えた字で、僕の呼び名が書いてあった。フルネームではなく、子どものころ、祖母だけが使っていた、三文字の呼び方。
筆跡は、間違いなく、祖母のものだった。
封筒を拾い上げて、机に置いた。思っていたより、重かった。中に、紙だけではない、何か固いものが入っている。小さな、金属のような、けれど鋭くはない、丸みのある重み。指の腹に、その重さが、はっきり伝わった。
椅子に座った。
時計が、動いている。さっきまで止まって見えていた針が、今度は、ふだんより少し速く動いている気がした。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。けれど、その「気のせい」という言葉が、今日に限って、うまく働いてくれなかった。
開ければいい。 開ければ、わかる。 祖母が、僕に、最後に何を渡そうとしたのか。
指先が、封の上で、止まった。
開ければ、僕は、何かを引き受けることになる。引き受けることに、自分が耐えられる気がしなかった。三年、誰の手紙も開けず、誰の電話も取らず、誰の心配も引き受けずに済ませてきた人間が、もう何も返せない人からの便りだけを、受け取ろうとしている。それは、ずるい、と思った。生きている人を素通りして、亡くなった人からの分だけ受け取るなんて、いちばん都合のいい甘え方ではないか。
封の上で、指の関節が、白くなった。 それでも、紙の縁から先へ、指は進めなかった。
ふと、スマホが視界の隅で点った。母からだった。LINEではなく、メールだった。LINEには気を遣って、メールでだけ大事なことを送るのが、母の癖だった。
件名はなかった。本文は、たった一行。
「焦らなくて、いいから」
その一行を、二度、読んだ。
それから僕は封筒を、引き出しの一番奥に、ゆっくりとしまった。
引き出しを閉めたあと、すぐに、閉めたことを後悔した。引き出しを、もう一度開けた。けれど、封筒に手を伸ばすことは、できなかった。何度か開けたり閉めたりして、結局、半分だけ開けたまま、机の前を離れた。
ベッドに、横になった。
天井の木目のひとつが、目の形をしていた。子どものころ、信州の祖母の家の天井にも、似た木目があったような気がする。あった、ような気がする、というだけで、確かなことは何ひとつ思い出せない。思い出せない、ということだけが、はっきりと胸の真ん中にあった。
カーテンの隙間の光は、もう、ずいぶん傾いていた。
朝、寸分違わぬと思った角度から、半日ぶん、世界はちゃんと動いていた。
引き出しの薄く開いた隙間の奥で、茶封筒が、まだ僕を待っている。明日、もう一度、あの封の前に座らなければならない。それは、わかっていた。