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梅の咲く家で、息を継ぐ

第1話 第1話

第1話

第1話

カーテンの隙間から差し込む光が、昨日とまったく同じ角度で畳の縁を照らしていた。

枕の上で頭の向きを変える。光の筋は、動かない。昨日も、一昨日も、その前の日も、たぶん同じ場所を照らしていたのだろう。気づかなかっただけだ。気づきさえしなければ、ずっと知らずにすんだはずだった。胸の奥で、何かが小さく軋む音を立てる。錆びた蝶番が、誰かに無理やり押された、そんな音。

時計は午前十時を少し回ったところで止まっているように見える。実際には針が動いている。動いているのに、止まって見える。三年も同じ天井を見ていれば、時計のほうも飽きてくるのだろう。

スマホの画面を点けた。家族LINEに未読が四件。母から二件、姉から一件、父から一件。中身は読まなくてもわかる。週末に誰それが来る、姉の子が熱を出した、父の検診の日付が変わった——そういう、僕が返事をしなくても回り続ける情報の連なり。隣のフォルダで、求人サイトの新着通知が三十七件たまっていた。最後にひとつでも開いたのは、いつだったか、もう思い出せない。

ドアの向こうで、足音がした。 母の足音だ。スリッパのかかとが廊下を擦る、独特のリズム。三年も聞いていれば、誰の足音かはすぐに見分けがつく。父はもっと重く、姉はもっと速い。母だけが、どこか遠慮がちに歩く。まるで、踏み板の鳴き方を一枚ずつ確かめながら、僕の眠りを守ろうとしているような、そんな歩幅だった。 かちゃ、と陶器の触れる音。お盆を置いたのだ。ドアの向こう、廊下の端に、僕の朝食。

足音が遠ざかってから、しばらく待った。階下で水を流す音、換気扇の唸り。それが完全に止んでから、ドアを細く開ける。

味噌汁の椀から、薄い湯気が立っていた。指の腹を椀の縁に当てると、まだ温かい。これくらいなら、まだいい。冬になると、湯気は厚くなる。夏は、湯気そのものが消える。母の作る朝食の温度だけが、僕にこの部屋の外の季節を教えてくれる。今は、たぶん三月の終わり。光の角度が、そう告げている。

椀を運んで、机に置く。鍋の中で何度か温め直されたのか、味噌の匂いがいつもより濃い。母は最近、湯気が立つように、わざと熱めに出してくるようになった。前はもっとぬるかった。気を利かされていることに気づくたびに、申し訳なさで箸が重くなる。出汁の底に、刻んだネギが沈んでいた。僕が小さい頃から好きだった切り方で、斜めに、少しだけ太めに揃えてある。母は、何ひとつ忘れていない。

ご飯を二口、味噌汁を三口。それで、もう動かせなくなった。喉の奥が、食べ物よりも先に、何かべつのものでつかえてしまう感覚があった。

誰も、責めない。 誰も、急かさない。 父は、僕の部屋のドアの前を通るとき、わざとらしく咳払いをする。「いるよ」と知らせるためなのだろう。姉は、月に一度だけ「元気?」とLINEを送ってくる。返事をしなくても、翌月にまた同じ三文字が届く。母は、毎日、何も言わずに、ドアの前にお盆を置く。

その優しさのなかで、僕はいつのまにか、息ができなくなっている。

責めてくれ、と思うわけではない。怒鳴られたところで動けるはずがない。ただ、自分のために変わってくれている家族の時間を、僕がじりじりと削っているという事実が、内側から喉をふさぐ。半年ぶりに階段の下まで降りたとき、母の髪は、白いほうが多くなっていた。見送るときの丸まった背中。あれは、僕の重さだ。父が増やした皺も、姉が呑み込んだ溜息も、家のそこかしこで僕がこぼしたものを、誰かが代わりに、毎日、拾い続けている。

朝食を半分残して、カーテンの隙間に目を戻した。光の角度は、変わらない。当たり前だ。日は昇り、傾き、沈む——その動きのなかで、たまたま今のこの瞬間と昨日のこの瞬間が、寸分違わなかっただけだ。物理的には何の異常もない。異常があるのは、それを「同じだ」と認識できてしまった僕のほうだ。

三年。 最初の半年は、まだ言い訳があった。会社のこと、人間関係のこと、心療内科の診断書。一年を過ぎたあたりから、言い訳は色褪せはじめた。二年で、何が原因だったのか自分でもよくわからなくなった。三年経った今は、ただ、外の世界の摩擦に耐えられる皮膚が、自分の身体のどこにも残っていないという感覚だけがある。

スマホを伏せて、天井を見上げる。木目のひとつが、目の形に見える。子どものころ、眠れない夜にこの目と睨めっこをした。ずっと前、まだ僕が普通に学校へ行き、普通に夏休みを心待ちにしていた頃の話だ。あの頃、夏になると母に連れられて、信州の祖母の家まで電車を乗り継いで行った。最後に行ったのは何年前だったか、もう数えられない。縁側の風鈴の音、井戸水で冷やされたトマトの肌の冷たさ、夕方になると山の影が畑を呑み込んでいく速さ——記憶のほうが、僕より先に色を失っていく気がした。

——元気だろうか。

ふと、そう思った自分に、自分で少し驚く。確かめずに済むかぎり、遠くの人は元気でいてくれるような気がしていた。だから僕は、長い間、確かめなかった。

階下で、固定電話が鳴った。

家の電話が鳴ることは、もうほとんどない。受話器を取るのはたいてい母で、相手は親戚か、保険会社の自動音声か、宅配便の不在連絡だ。今日のそれは、いつもと少しだけ違って聞こえた。コール音が長い。母がすぐには出なかったということだ。台所にいたのか、洗濯機の前にいたのか。四回、五回——電話の音は、家の柱を伝って、僕の部屋の床板までかすかに響いてくる。それは耳というより、足の裏で受け止める種類の音だった。やがて、受話器の上がる音。

「はい、もしもし——」

母の声が、途中で止まった。 襖一枚分くらいの沈黙が、階段を伝って上がってくる。それは、空気そのものが息を止めたような沈黙だった。下の階の柱時計の振り子の音だけが、その沈黙の輪郭を、こつ、こつ、となぞっていた。

「……はい。……はい、わかりました。……はい」

短い相づちが、いつまでも続いた。「ありがとうございます」とも「お世話になります」とも、母は言わなかった。母が知らない相手と話すときに必ず添える、あの最後の挨拶が、今日は、ない。それから、受話器を置く音がした。控えめな音だった。母が何かを丁寧に置こうとするときの、あの音。

しばらくして、また足音がした。 さっきと、少し違う。重い。リズムが、欠けている。スリッパのかかとが、いつもより床に長くついているような、そんな歩き方。一段ずつ階段を上がってくる音が、途中で二度、止まった。手すりを握り直したのか、息を整えたのか。三年間、毎朝同じ拍子で運ばれてきたお盆の足音が、今朝に限って、別の重さを背負っている。

ドアの前で、足音が止まった。

母は、何も言わない。お盆を取りに来ただけだ、と思った。けれど、いつもなら陶器の触れる音がして、すぐに遠ざかっていくはずの足音が、今日に限って、止まったまま、動かない。ドアを挟んで、母が立っている。息をしているのが、薄い板越しに伝わってくる。短く、浅く、何かを言いかけては飲み込むような呼吸だった。

「……ねえ」

母の声が、廊下越しに聞こえた。三年ぶりに、ドアを挟んで、僕の名前を呼ばずに発された声。 それきり、何も続かなかった。

返事をするべきだ、と思った。けれど、口の中が乾いていて、舌が動かない。ドアノブにかけた右手の指が、震えていた。母も、たぶん同じくらい震えている。襖一枚分の距離を、二人とも、越えられないままでいる。何か言わなければ、と思うほど、喉の奥が固く閉じていく。三年ぶんの沈黙が、たった一枚の板の上に、すべて積み重なっていた。

やがて、母は、お盆を持って遠ざかっていった。 何かを言いそびれた人の、足音だった。

カーテンの隙間に、もう一度目をやる。光の角度が、ほんのわずかに、ずれていた。さっきまでとは、違う。気のせいかもしれなかった。気のせいではないかもしれなかった。

胸の奥で、また、軋む音がした。今度は、朝のときよりも、ずっと深い場所で。

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