第3話
第3話
蓋に当てた指の腹が、わずかに湿っていた。 私はそのまま、しばらく動けなかった。タッパーの蓋を開けるという、それだけの動作が、自分の指のどこを使えばいいのか、急に分からなくなっていた。シンクの縁に手をついて、もう一度、息を整える。窓の外で、雀の鳴き声がひとつ、短く跳ねた。台所の蛍光灯はまだ、夜のままの色をしていた。 祖母の寝息は、襖の奥でまだ規則的に続いている。私は爪先を立てて、できるだけ音を立てないように、戸棚から小ぶりの片手鍋を下ろした。底の焦げ付きが、長く落とせないまま茶色く張り付いている。それを、いつもなら見ないふりで通り過ぎる。今朝は、なぜか、そこに目が止まった。 タッパーの蓋に、もう一度、指をかける。 パキ、と乾いた音がして、四隅が順にはずれていった。蓋を持ち上げると、湯気はもう、ほとんど立たなかった。それでも、鰹の匂いが、ぐん、と私の鼻の奥に押し寄せてきた。匂いは、湯気のように上に逃げるのではなく、まっすぐ前に出てくるものなのだと、その瞬間、私は知った。匂いは、私の顔のすぐ前で、空気をひとつ大きく押し開けた。 液体を、そっと鍋に移す。タッパーの底の隅に集まっていた鰹の粉が、傾けるたびに、ゆっくりと角を渡っていった。最後の一滴まで、私はじっと待った。流しの蛇口から落ちる水滴の音が、いつもより遠く聞こえた。 弱火に、鍋をかける。 青い火が、鍋底の縁に沿って、輪を描いた。
火加減を見ているあいだ、私はずっと、自分の両手のひらを、エプロンの腹で擦っていた。何度も、何度も、何かを払うようにそうしていた。手のひらに、まだ、タッパーの底の熱が残っているような気がしていた。骨と腱の間の、あのもっと奥の場所に、預けられた重みが、まだ居座っていた。それを、温かいうちに、ちゃんと身体のどこかに収めなければならない、と、なぜか急いていた。冷めてしまえば、たぶん、収める場所そのものが、また閉じてしまう。 小さな泡が、鍋の縁から、控えめに立ちのぼった。私は火を止めた。沸かしてはいけない、ということだけは、たぶん身体のどこかが覚えていた。母が昔、台所でそう言っていた。沸かすと、香りが飛ぶの。 おたまを取り出す。柄の漆が、手のひらの汗で、わずかに鈍く光った。 小皿に、ほんの少しだけ、注ぐ。 琥珀色は、白い皿の上で、なぜか少しだけ、深い色に見えた。 小皿を、両手で持ち上げる。指の関節が、自分の意思とは少し別のところで、軽く震えていた。震えているのを、私はどこかで他人事のように見ていた。八ヶ月、私の手は、自分のために何かを口へ運ぶことを、ほとんど忘れていた。茶碗を持つ手はあった。けれど、それは祖母のためのもので、自分のためではなかった。自分のための一口、というものが、いつから、こんなに重たいものになっていたのか、私には思い出せなかった。 皿の縁に、唇をつける。 舌の先に、ぬるい温度が触れた。 それから、味が、来た。 味、というには、たぶん、もっと静かなものだった。塩気はほとんどなくて、ただ、海と、木と、火の遠い記憶のようなものが、舌の付け根のあたりで、ゆっくりと開いた。鼻の奥に抜ける香りが、目の裏側を、内側からそっと押した。 喉が、動いた。 動いた、と気づく前に、もう一口、私は皿を傾けていた。 飲み込んだ瞬間、何かが、喉のずっと下のほうで、音もなくほどけた。 それまで、自分の喉が渇いている、ということに、私はまるで気づいていなかった。八ヶ月、たぶん、ずっと渇いていた。ずっと渇いたまま、水を飲んでも届かない場所が、身体の中央に、細い線のように通っていた。その細い線の真上を、ぬるい琥珀色が、いま、まっすぐ通っていった。 膝が、抜けた。 両手の小皿が、シンクの縁にぶつかって、かちん、と硬い音を立てた。皿は割れなかった。私は、その音を上のほうで聞きながら、台所のリノリウムの床に、ゆっくりとしゃがみ込んでいった。サンダルの片方が、膝の下で横向きに脱げた。冷蔵庫の側面が、肩越しに冷たかった。 泣いている、というのとも、たぶん少し違った。 ただ、目の奥から、温かいものが、決まった速度で、頬を伝っていた。手の甲で押さえても、押さえた指のあいだから、それは静かに線を引いた。エプロンの胸元に、染みがひとつ、ふたつ、増えていった。 肩が、震えた。 震えてから、震えていることに、遅れて気がついた。八ヶ月、肩は、揺らさないことに慣れすぎていた。揺らさないでいるあいだに、たぶん、揺らし方そのものを、身体は忘れかけていた。 一度、息を吐いた。 吐いてから、自分が、ずっと息を浅く吸って、浅く止めて、それを夕方からずっと続けていたことに気づいた。深く吸うと、肋骨のあいだが、痛んだ。痛い、と思った場所に、タッパーの角が当たっていた肋骨が、ちょうど重なっていた。 誰かが、夜中に、私の知らないところで、出汁を引いていた。 余ったから、と言って、それを差し出してくれた。 それだけのことだった。 それだけのことが、八ヶ月の間に閉じていた喉の真ん中を、こんなにあっさりと通り抜けた。 私は、シンクの引き出しの取っ手に額を預けたまま、しばらく動かなかった。冷蔵庫のモーターが、低く唸りはじめた。襖の奥で、祖母が一度、軽く咳をした。咳の音が、いつもよりも、たしかな距離に聞こえた。
祖母の枕元に、湯呑みを運んだのは、それから三十分ほど経ってからだった。 熱すぎないように、人肌より少しだけ高いくらいに調整した琥珀色を、湯呑みの底に、半分だけ注いだ。祖母は薄目を開けて、湯気のない湯呑みを、不思議そうに眺めた。 「お吸い物?」 「うん。出汁だけ」 祖母は両手で湯呑みを包み、ひと口、含んだ。 喉の上下が、皺の奥で、一度、ゆっくり動いた。 「美味しいねえ」 そう言って、祖母はもう一口、口に運んだ。いつもの「美味しいね」より、語尾が、ほんの少しだけ、長く伸びた気がした。私はその語尾を、心のどこかにそっと畳んで仕舞った。畳んだ場所が、シンクの脇のタッパーを置いたあの空きスペースと、なぜか、よく似ていた。 祖母が再び眠ってしまったあと、私は台所に戻った。 鍋の中には、まだ、半分ほど、出汁が残っていた。 おたまで、自分の湯呑みにも、注いだ。 椅子に座って、ひとり、それを飲んだ。 飲んでいるあいだ、私はずっと、隣の壁の方を見ていた。十センチもない、その壁。今朝までは、果てしなく分厚かった、その壁。壁の向こうの台所は、もう、たぶん静まり返っている。彼は、いまごろ、布団の中で、目の下に薄い影を置いたまま、眠っているのだろうか。それとも、まだ眠れないでいるのだろうか。眠れない人の作る出汁が、どうしてこんなに、人を眠らせるような味をしているのか、私には分からなかった。 湯呑みを、空にした。 シンクの蛇口を、ひねる。最初の一秒、また錆びたような赤い水が出て、それから透明になった。タッパーをすすぐ。スポンジを当てるのを、ためらった。洗剤の匂いを、この容器に、残したくない気がした。湯だけで、丁寧に、内側を撫でた。蓋の角に溜まった鰹の粉を、指の腹で、ひとつずつ追い出した。 水を切ったタッパーを、布巾の上に、伏せて置く。 ことり、と、また、硬い音がした。 時計を見ると、八時を、少し過ぎていた。窓の外は、すっかり明るかった。 ふと、片手鍋の底に、わずかに琥珀色が残っているのが見えた。捨てる気には、なれなかった。私はその一さじぶんを、おたまですくって、もう一度、自分の湯呑みに移した。冷めかけたそれを、立ったまま、舐めるように飲んだ。
夜は、なかなか来なかった。 祖母を寝かしつけ、皿を洗い、洗濯機を回し、薬の残量を数え、ケアマネージャーへの返信文を打ちかけて消し、もう一度打ちかけて消した。一日の終わりを告げる動作のひとつひとつが、いつもより、ほんの少しだけ、手応えを持っていた。手応えがあるということは、たぶん、私の側に、ほんのわずかでも、力が戻ってきているということだった。戻ってきた力の置き場所を、私はまだ、よく分かっていなかった。 布団に入ったのは、十一時を回った頃だった。 電気を消すと、玄関のほうの暗がりに、シンクに伏せて置いたタッパーの白い四角が、ぼんやりと浮かんで見えた。 あれを、どう返せばいいのか。 私はそれを考えはじめて、考えはじめてから、もう、自分が眠れないことを知った。 空の容器のまま、返してはいけない気がした。けれど、何かを入れて返すには、私の冷蔵庫には、何も入っていない。お礼の品を買いに行くには、祖母を長くひとりにできない。手紙の一枚も、思いつかなかった。「ありがとう」の四文字を、彼の前で口に出せる自分が、まだ想像できなかった。お代はいい、と被せた、あのときの、語尾の尖り方。あの尖りを越える返し方を、私は知らなかった。 天井の闇を、ずっと見ていた。 祖母の咳が、廊下の板を、ひとつ叩いた。私は秒針の音を、また数えはじめた。十二、十三、十四。けれど今夜の数え方は、昨日までとは、ほんの少し違っていた。数えながら、私はずっと、シンクの脇の、白い四角のことを、考えていた。