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底辺は擬態、卒業式までに全員ひざまずかせる

第3話 第3話

第3話

第3話

階段の手すりの上から落ちてきた声に、麻耶は半秒だけ固まり、それから生徒会副会長の顔に戻った。リボンの結び目を指の腹で一度だけ整え直し、一段だけ前に出る。

「会長、書類のことで八神くんに頼んでたんです。出席簿の余白に印字がずれてた件、彼の席の前で気づいたから」

嘘だ。出席簿の印字はずれていない。今朝、俺が一番に確認した。だが、麻耶の声はまっすぐで、隙がなかった。

「ふうん」

三条が、革靴の先で踊り場の縁を一度だけ叩いた。

「八神も、生徒会のお手伝いか。学年最下位の働き口にしては、上等じゃないか」

俺は、視線を三条の唇の端に置いたまま、何も言わずに頭を一度だけ下げた。三条は、革靴の底で床を二度小さく叩いて、生徒会室の方へ歩き去った。連れの上級生の上履きの音と、彼の革靴の歩幅は、廊下の途中で合わなくなった。三条の革靴の底のすり減りは、左の方が一段深い。覚えてしまう。今日は、もう一段、深く覚えた。

麻耶が、息を吐いた。短く、しかし長く溜めていた息だった。彼女のリボンの結び目の右端が、ほんのわずかだけ、さっき自分で整え直したときよりも斜めに傾いていた。

「ごめんなさい、八神くん。今日は──」 「いえ」

俺はノートの一番奥に挟んだ紙片の端を、鞄の上から指で確かめた。

「明日にしましょう。俺も、少し、考える時間がほしい」

麻耶は黙って頷き、生徒会室とは反対の方向、北階段の下へ降りていった。俺の踵に、踊り場の床の冷たさが、まだ少しだけ残っていた。

実家の道場の朝は、夏が近づいても、足の裏が冷たい。板張りに薄く残る蝋の匂いと、神棚に上げられた榊の青臭さが、鼻の奥で一度だけ重なる。窓の格子から差し込む朝の光は、床板の節目を一本ずつ拾って、斜めの影を畳の縁まで引いていた。土間の方からは、井戸水を桶に汲む音が、二度、間を置かずに続いていた。

午前五時半、俺は道着の前を合わせ、板の間の中央に正座した。父はすでに上座で防具を整えていた。父の膝の真横、竹刀の柄の革紐の擦り切れが、昨日より一筋深くなっている。覚えてしまう。誰にも見せないと決めても、覚えるものは覚える。

「湊」 「はい」 「白紙の答案、まだ続けてるな」

竹刀を持つ父の手の親指の腹に、新しい胼胝が一つできていた。父は、進路相談で学校に呼ばれたとき以外、勉強の話をしない。今朝、父は、勉強の話を続けなかった。代わりに、手の中の竹刀を一度だけ柄頭から床に立てた。

「面、つけろ」

俺は面紐を結び、立ち上がる。父との立ち合いは、中学一年の冬以来、五年ぶりだった。

「打ち込み、十本」

竹刀の先が、俺の正面を取った。

一本目、父の打ち込みは面の上を浅く滑った。二本目、面金の左、こめかみの真上。三本目、四本目、五本目、面の中央、面金、面、面、面。父の打ち込みは、甘くなかった。甘くないのに、当てに来ていない。当てに来ない打ち込みは、受け手の動きを試している。

父の息は、五本目までは均等だった。短く吸って、短く吐く。打ち込みの瞬間にだけ、息の終わりが半拍止まる。その止まり方の癖を、俺は、面金の格子越しに、勝手に拾ってしまっていた。

六本目、父の竹刀の先が、ほんの半寸だけ、いつもの軌道から外れた。俺の右肩が、勝手に半歩、外側に逃げた。逃げた、と気づいたのは、父の竹刀が右肩の浅いところを掠めて、板の間に止まった後だった。

「湊」

父が竹刀を下ろした。面金の中の父の目が、俺の目を、まっすぐ見た。

「逃げる癖は、抜けてないな」

逃げる、ではなく、見える、と父は言いたかったのだろう。俺の目が、父の打ち込みの、半寸のずれを読んだ。父はそれを許さない打ち込みをしようとしてわざとずらした。俺の体は、ずれを読み切って、勝手に外へ抜けた。

中学一年の冬、社会の小テストの時間、教師が黒板にチョークを当てるより半秒早く、俺は答えを口に出した。教師は驚かなかった。隣の席の女子の方が、先に俺を見て、それから笑わずに、教室の窓の外へ目を逸らした。窓の外には、誰もいなかった。彼女が逸らしたのは、視線の置き場所そのものだった。

その日の放課後、体育倉庫の引き戸が、外から閉まった。冬の床は、肩甲骨の内側にだけ、嘘のような速さで染みた。気持ち悪い、と誰かが小さく笑った。お前、俺たちのこと監視してんの。お前さあ、そういうとこだよ。声の主が誰だったかは、覚えていない。覚えていないことに、俺はあのとき、初めて成功した。

中学二年の春、転校した先で、俺はもう一度、答えを言いそうになって、口の奥でそれを噛み砕いた。噛み砕く癖を、三年と少し続けて、白紙の答案にした。

「七本目、行くぞ」

父は、答えを待たなかった。

七本目から十本目まで、俺は、父の竹刀の先より一段だけ後ろに焦点を置いて受けた。視界の中心をわざと曖昧にすると、面金の格子の影が二重にぶれて、父の肩の動きだけが薄く滲んで見える。額の汗が眉毛を伝い、面布の縫い目の内側で止まった。読まないようにする、というのは、読んでから捨てるということだ。読まずにいる方法は、もう、思い出せなかった。

朝練の声がグラウンドの方から聞こえはじめた頃、俺は道着を畳み、制服に着替えて家を出た。

教室は、いつもより十分早く着いた。窓を開けると、校庭のラインカーの白い粉が、朝陽の中で薄く立ち上がっていた。麻耶の席の机の上には、何も置かれていない。彼女は、いつも俺より十五分遅れて教室に来る。

俺は、自分の席に座って、ノートを開いた。開いて、すぐに閉じた。ノートの一番奥に挟まれた、麻耶の紙片の角が、昨日より少しだけ、湿気を吸って厚くなっていた。雨が降りそうだ、と覚えてしまう。今朝の天気予報は、夕方からの降水確率を四十パーセントと言っていた。テレビの音は、父が竹刀の柄の革紐を結び直す音と一緒に、俺の耳の中に入っていた。

校庭の白線を引く野球部のラインカーが、二度、同じ位置で止まった。一年生の押し方が、昨日より一段、慣れている。覚えてしまう。覚えないようにする方法を、俺は、もう、思い出せない。

七本目から十本目まで、父の竹刀のずれを読まないようにした、と思っていた。本当は、読んでいた。読んで、自分の体の外に投げ捨てるフリをしていただけだった。投げ捨てるフリは、覚えないことにはならない。父はそれを知っていて、十本で打ち込みを止めた。

鞄の底で、五年前の中学の生徒手帳の革の角が、教科書の背と擦れて、小さく音を立てた。家を出る前に、俺は、それを引き出しの一番奥から取り出して、底に入れていた。入れた理由は、まだ、自分でもわからなかった。

「おう、湊」

教室の前のドアから、声が飛んできた。

陽介が、寝癖を一つだけ手のひらで押さえながら、肩から鞄を下ろして、俺の前の席に逆向きで腰掛けた。

「お前、今日早くね?」 「ちょっと、家の用事」 「父ちゃん、また竹刀振り回してた?」

陽介は、俺の家のことを、家族と同じくらい知っている。幼稚園のとき、道場の隅で泣いたのを父に拾われた幼なじみだ。中学で俺が転校する直前、俺をいじめた連中の前に、彼は黙って立ったことがある。立っただけで、何も言わなかった。何も言わなかったから、俺は、彼にも目のことを、言えないままだった。

「うん」

陽介が、俺の机に頬杖をついた。彼の右の眼の下に、昨日まではなかった小さな引っ掻き傷がある。猫だろう、たぶん、隣の家の三毛だ。覚えてしまう。覚えてしまったことを、俺は、今、陽介の目の中に、見せている。

「お前さあ」

陽介の声は、笑っていなかった。声の重さの分だけ、机の天板を押す肘の角度が、いつもより少し深くなっていた。

「最近、ちょっと、変だぞ」 「何が」 「目」

陽介が、俺の目を、上から覗き込んだ。

「お前、最近、よく、見てる目してる」

教室の後ろのドアが、薄く開いた。麻耶の上履きの白が、ドアの隙間から、半歩だけ覗いた。

陽介の人差し指が、俺の机の角を、一度だけ、こつ、と叩いた。

「中学のときの目に、ちょっとだけ、似てる」

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