第2話
第2話
担任の声が、麻耶の続きを掻き消した。
「席に着け、起立」
号令の声に、麻耶の手はもう完全に離れていた。彼女は何事もなかった顔で姿勢を正し、眼鏡のフレームを指の腹で押し上げた。その仕草が、いつもより半秒だけ早かった。それくらいの動揺だった。
二時間目から五時間目まで、麻耶は俺の方を見なかった。一度も、だ。視線を合わせないというのは、合わせない意思を持って合わせないということだ。普段の彼女は、隣の席の人間と一日に二度や三度は目が合う程度には顔を上げる。今日の彼女は、ノートと黒板の間でしか視線を動かさなかった。
四時間目の終わり、彼女の机の上の鉛筆が、一度だけ転がった。麻耶は拾わなかった。普段なら転がる前に左手を伸ばして止める。今日は、机の縁で止まった鉛筆を目の端で確認しただけで、また黒板に戻った。覚えてしまっている自分の観察を、俺はまだ止められない。
昼休み、購買のメロンパンを持って席に戻ると、机の上に小さく折り畳まれた紙片が置かれていた。指で挟んで開くと、麻耶の細い字で一行だけ。
『放課後、北階段の三階と四階の間の踊り場で待ってます。来てください』
来てください、の四文字の後に、丸い点がぽつんと打たれていた。終止符に近いけれど、終止符ではない。返事を待つ、という意思を、彼女は文字の最後の一点に込めていた。
俺はその紙を、ノートの一番奥のページに挟んだ。挟むときに、紙の角が、今朝の彼女の指先のあった場所と少しだけ違う湿り気を持っているのが指先に伝わった。メロンパンの砂糖が、奥歯の隙間で小さくざらついた。
六時間目が終わり、清掃当番が終わり、部活の始まりを告げる予鈴が鳴った。
俺は北階段を、四階の方から降りていった。北階段は、南側に比べて陽が回らない。三階と四階の間の踊り場には、消火栓の赤い箱と、避難経路図の色褪せたパネルだけがある。昼でも蛍光灯がついていて、夕方になると、その蛍光灯の白さの方が、窓から差し込む光より強くなる。麻耶が呼び出すならここだろうと、踊り場の景色を見た瞬間に納得した。
麻耶はすでに来ていた。
消火栓の脇に立って、両手を制服のスカートの前で軽く重ねていた。鞄は肩にかけたままで、床に置いていない。足元に置けば、屈んで拾う一動作が必要になる。逃げるなら、逃げる準備をしていた方が、互いに楽だ。彼女の立ち姿は、そういう配慮をした上での立ち姿だった。
「来てくれて、ありがとう」
彼女の声は、教室で聞くより半音だけ低かった。
「八神くん、最初に一つだけ聞いてもいい?」 「……何ですか」 「今朝のノートに書いてあった、校長先生の朝礼。あれ、全部、本当のことだった?」 「桐谷さんが、自分で確かめたことなら」
麻耶は小さく頷いた。
「冒頭の『ところで』。二回繰り返した『郷里に帰った卒業生』。間の沈黙。結語の『諸君も、よく考えてほしい』。私、朝礼の最中、自分の手帳に時計の秒数を書いてた。沈黙、七秒だった。八神くんのノートと、一秒も違わなかった」
俺の指先が、鞄のベルトを握り直した。
「それから」 「……他のページも、見ましたか」 「ごめんなさい」
麻耶の声に、初めて少しだけ詫びの色が混ざった。
「あなたの手の下から、いくつか見えただけ。副担任の月曜の缶のコーンスープ。三条くんの教科書に挟まった水色の紙。遠野くんの靴紐」
一つひとつ、彼女は名前と内容を、間違えずに繰り返した。
「副担任の缶のスープ、職員室前の自販機で、私、月曜の昼にだけあの人がコーンスープを買うのを見たことがある。火曜から金曜は、コーヒーの紙コップを二つ持って戻る。そこも、ノートの通りだった」 「……」 「三条くんの水色の紙は、今朝の体育の時間に、彼の机の中で挟まってるのを見た。A4の四つ折りで、左端の折り跡だけが、他の三辺より深かった」
麻耶は、消火栓の赤い箱の縁に、左手の指先をそっと触れた。
「ねえ、八神くん」
彼女の眼鏡のレンズの奥で、瞳が一度だけ揺れた。
「あなた、ふつうの人より、ずっとよく、見える人なんでしょう」
俺は、しばらく息を整えた。
整える、というのが正しいかわからない。整わない呼吸を無理に整えたフリをした、と言ったほうが近い。
「たまたまです」 「たまたま?」 「桐谷さんが見たノート、たまたま、合っていた箇所だけだったのかもしれない」 「ううん」
麻耶は、首を横に振った。
「あなたのノートの、私が見えた行は、最初から最後まで、私が知ってる事実と一個も矛盾しなかった。それを『たまたま』で説明するのは、無理だと思う」
踊り場の蛍光灯が、頭の上で一拍遅れて瞬いた。今朝の教卓の横で見たのと、同じリズムだった。覚えたくないのに、こういうものを俺はいつも数えている。
「桐谷さん」
俺は、声が掠れないように喉の奥で一度唾を飲んだ。
「俺は、勉強ができない。三年間、白紙の答案を出してきた。学年最下位の人間が、校長の朝礼を一字一句覚えているなんて、誰が信じますか」 「私が信じる」
麻耶は、一切の間を置かずにそう言った。
「あなたが頭が悪いなんて、私は最初から思ってない」
その短い一文が、踊り場の空気の中で、変な形で震えた。中学の体育倉庫の冷たい床の感触が、肩甲骨の内側で、また小さく目を覚ました。気持ち悪い、と言ったクラスメイトの女子の声が、耳の奥で薄く再生された。お前さあ、そういうとこだよ、と言った同級生の声も、続けて再生された。あのとき、誰もが俺の頭の良さを、最初に怖がった。次に、嫌った。最後にいないものとして扱った。だから俺は、頭を空にすることにした。空にしているフリをするほうが、空にすることよりも、ずっと長く続く。
「桐谷さんに、どうしてほしいんですか」
俺の質問は、自分でも意外なくらい、低い場所から出た。
「俺の目が、もし桐谷さんの言う通りだったとして。それを確かめて、何になるんですか」 「……うちの祖父の話、少しだけ聞いてもいい?」
麻耶は、消火栓から指を離した。
「祖父の会社、本社機能の一部を、県外に移そうとしてる。地元の商工会議所が反対してる。校長先生は、その会議所の評議員。今朝の朝礼の『郷里に帰った卒業生』は、生徒全体に向けた一般論の顔をして、私と祖父への、遠回しの圧力だった。私もそう読んだ。八神くんも、そう読んだはず」
麻耶の声は、低く、丁寧に組み立てられていた。
「私は、校長先生の朝礼の本当の意図を、家族に正確に伝えたい。私の主観じゃなくて、客観的な記録として、家に持ち帰りたい。何秒沈黙があったか、どの単語を二回繰り返したか。あなたのノートが、それをくれる」 「俺のノートは、誰のものでもない」 「うん」
麻耶は頷いた。
「だから、お願いしてる」
彼女は、踊り場の床の中央まで一歩出てきた。上履きの底が、リノリウムの床で小さく鳴った。
「秘密は守る」
声の輪郭が、はっきりと変わった。
「あなたの目のことを、私は誰にも言わない。父にも、祖父にも、友達にも、生徒会の誰にも。今日見たノートの中身も、ぜんぶ、私の中だけに置いておく。八神くんが嫌だと言ったら、私は今この瞬間から、あなたを隣の席の、白紙の答案を出すだけの男の子として、扱い続ける」
麻耶のリボンの紺色が、踊り場の蛍光灯の下で、朝の風の中で見たより少し濃く見えた。
「だから一度だけ、本当のあなたを、私に見せてほしい」
俺の喉の奥が、上下に一度動いた。
口を開きかけた。開きかけて、止めた。もう一度、開きかけた。
中学のあの冬、俺の口の動きを、誰かが「気持ち悪い」と笑った。あの日の体育倉庫の床の冷たさが、今この踊り場の床から、靴底を通って踵に上がってきた。同じ冷たさのはずなのに、踵に届いた瞬間、それは少しだけ、温度が違っていた。
俺は、桐谷麻耶の眼鏡のレンズの奥にある瞳を、三年ぶりに、誰かの目として、まっすぐ見返した。
「桐谷さん」
声が出た瞬間、北階段の下の方から、靴音が二つ、上がってきた。
革靴と、上履きの音が、混ざっていた。
「桐谷? こんなところで、何してるんだ」
階段の手すりの向こうから、頬杖の似合う声が、踊り場の空気を、上から潰しに来た。
三条嵐の声だった。
俺は、開きかけた口を、もう一度、ゆっくり閉じた。