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底辺は擬態、卒業式までに全員ひざまずかせる

第1話 第1話

第1話

第1話

朝、答案用紙の右上に名前だけ書いて、俺は鉛筆を置いた。

四十分の試験時間のうち、三分も使っていない。残りの三十七分を、俺は窓の外を見て過ごす。隣のクラスのジャージが、三階の窓から二階のベランダの手すりに届かないように干されている。風で揺れる袖が、壁の汚れと同じ色をしている。それくらいの解像度で外を眺めていれば、教室の中の他人の視線は、気にならないことにできる。

「八神、今回も白紙か」

担任の声に、俺は答案を持って前に出た。三年五組、窓際最後尾の席から、教卓までの十二歩。蛍光灯の、左から二本目が一拍遅れて瞬く。前列の女子の襟元、二番目のボタンが半分浮いている。教卓の隅の湯呑、底に紅茶のリングが二重についている。覚えたくて覚えるわけじゃない。視界に入ったものが、勝手に頭の引き出しに収まっていく。それだけのことだ。

「すみません」 「お前、もう三年だぞ」 「はい」

頭を下げて、十二歩を戻る。背中で誰かが小さく笑った。三条嵐の声だ。生徒会長の彼が、いつもの席で頬杖をついている。視界の端で唇の端が上がるのが見えた。底辺、と口の形が動いた気がしたが、確かめずにおいた。

席に戻ると、机の天板に小さな擦り傷が一本、昨日より増えていた。誰かが消しゴムを強く擦ったのか、シャーペンの先で抉ったのか。どうでもいい。どうでもいいと、何度目かわからないやり方で、自分に言い聞かせる。

これが、俺の三年間の作法だった。

四月から五月に変わると、教室の匂いが変わる。冬の埃っぽさが抜けて、新しいワックスとプリントの紙の匂いが混ざる。半分開けた窓から、桜のあとの若い葉の、青い匂いが入ってきた。

俺はノートを開いた。授業に関係のないノート。表紙の角は、もう擦り切れている。

『校長、5/2朝礼 ──「君たちの先輩で、四月に内定を辞退して郷里に帰った卒業生がいる」、二回繰り返した。冒頭に「ところで」、結語に「諸君も、よく考えてほしい」、間に七秒の沈黙』

書きながら、なぜこんなことをまだ残しているのか、自分でもわからない。中学で、これを口にした俺は、教室から弾き出された。「気持ち悪い」「お前、俺たちのこと監視してんの」「お前さあ、そういうとこだよ」。実家の道場で父の竹刀が空を割る音と、自分の名前を呼ばない同級生たちの沈黙。背中の、肩甲骨の内側に、あの冬の体育倉庫の床の冷たさが、まだ居座っている。

だから書くだけだ。誰にも見せない。書いて、ノートを閉じて、鞄の底に沈める。それで終わりにする。

「八神くん、これ落ちたよ」

隣の席の桐谷麻耶が、廊下に転がった俺の消しゴムを拾って、机の角に置いた。声は返さない。視線も合わせない。彼女がもう一度何か言いかけたが、ホームルームの予鈴に飲まれた。

桐谷麻耶。学年三位を一度も外したことがない優等生で、生徒会の副会長。家は、駅前の地元百貨店を握る一族で、祖父の名前は市議会の会議録に何度も出てくる──そういう情報も、俺は勝手に覚えてしまっていた。覚えたくないのに、覚えてしまった。

一時間目が始まる。俺は古典の教科書をめくる手だけ動かし、ノートには別のことを書き続けた。

『副担、職員室前1F、月曜は珈琲を飲まない、火曜から金曜は二杯、月曜の昼にだけ缶のコーンスープ』

『三条、教科書に挟んでいる紙、薄い水色、A4を四つ折り、左端の折り跡だけが一段深い』

『遠野、今朝の靴紐、右だけ二度結び直した。家を出る前に、母親と何かあった』

シャーペンの先が紙を引っ掻く小さな音が、自分の指先にだけ届く。窓の外で、誰かのジャージの袖が、また風に揺れた。教卓の上の古典の教科書、教師が今日開いた頁の左下に、薄い指紋が一つ残っている。それも、いつのまにか覚えている。

右斜め前の遠野が、消しゴムをそっと机から落として、靴の先で挟んで拾い上げた。彼の癖だ。緊張すると、指先で持つよりも、足で挟んで戻すほうが落ち着くらしい。三年間、何度も見た。覚えたくて覚えたわけじゃない。視界の隅では、教師の白いチョークが黒板の上で短くなっていく速さと、教室の壁時計の秒針が一秒だけ遅れている事実とが、勝手に並んで頭の中に整列していく。それを止める方法を、俺はまだ知らない。

「ねえ」

横から、声がした。

俺は、ノートを閉じる前に、つい横を見てしまった。

桐谷麻耶が、こちらを向いていた。彼女の視線は、俺の机の上に開いたままのノートの、ちょうど真ん中の行に落ちていた。校長の朝礼の、一字一句。

指先が、止まった。

「あなた、これ──」 「いや」

慌てて閉じようとした手に、麻耶の手がかぶさった。彼女の左手の小指の付け根、ペンだこが小さく硬い。指先は冷たくはなかった。湿ってもいなかった。ただ、しっかりと、紙の端を押さえていた。

教室の換気扇の低い唸りと、どこかの席でシャーペンの芯が折れる小さな音と、自分の心臓が肋骨の内側で鳴る音とが、急に同じ高さに揃った気がした。三年間、誰の手とも、こんな距離で触れたことはなかった。中学のあの冬から、人の体温は、俺にとって遠い記号でしかなかったはずだった。なのに、麻耶のペンだこが触れている皮膚の一点だけが、熱いのか冷たいのか判別できないまま、ただ確かにそこにあった。

「閉じないで」

普段の彼女の声は、教室の前の方から後ろの席まで届く、よく通る声だ。今その声は、机ひとつ分の距離の中に、ぎゅっと縮こまっていた。低く、短く、誰にも聞かれないように調整された声。眼鏡の縁に廊下側の蛍光灯の光が一筋入って、レンズの奥の黒目を一瞬だけ白く飛ばした。

「桐谷さん、これは──」 「これ、今朝の朝礼でしょう」

彼女の声が、一段低くなる。眼鏡の奥の目が、いつもより一段、真剣だった。

「校長先生、私のおじいちゃんの話、ちらっとしたよね。気づいてた?」

気づいていた。気づきたくなくても、聞こえてしまう。『郷里に帰った卒業生』、二回。あれは校長個人の述懐じゃない。昨日の朝刊三面に、彼女の祖父の関連企業の名前が小さく出ていた。地方創生がどうの、人材還流がどうの。校長は、確実にそれを読んでいた。読んだ上で、麻耶のいる教室で、二回繰り返した。

祖父の会社が、地元から本社機能の一部を県外へ移そうとしているらしい。三日前の夕刊地方面に、商工会議所の役員会が紛糾したと、囲み記事で出ていた。校長は、確かその商工会議所の評議員にも名前が載っていたはずだ。あの朝礼の「諸君も、よく考えてほしい」は、生徒全体に向けた一般論の顔をしながら、最前列で背筋を伸ばしている桐谷麻耶ひとりだけに向けて投げられた、細くて固い針だった。麻耶自身が、それを拾わないわけがなかった。だから今、彼女は俺の机の横で、息を半分止めている。

俺は答えなかった。答えたら、何かが、もう戻らない場所まで動いてしまう気がした。

「八神くん」

麻耶が、もう一度、名前を呼んだ。

「白紙の答案、ずっと出してるよね。一年の頃から。私、ずっと不思議だったの」

半分開いた窓から、五月の風が、教室の中をゆっくり通り抜けた。誰かの机の上で、教科書のページが一枚だけ捲れる音がした。麻耶の制服の、紺色のリボンの端が、彼女の鎖骨のあたりで一度だけ揺れた。俺は、自分の前髪が同じ風に揺れたのを、髪の根元で感じた。

「ねえ、八神くん」

彼女の手が、ノートからゆっくり離れた。離れたけれど、視線は外さなかった。指の触れていた紙の端に、ほんのわずかな湿り気の痕が残った気がして、俺はそれを見ないようにした。

「あなた、本当は──」

麻耶の喉が、一度だけ小さく動いた。何かを飲み下したのか、それとも次の言葉を組み立て直そうとしているのか、俺には判別がつかなかった。ただ、彼女の唇が、半開きのまま、空気を一口だけ取り込んだのが見えた。

担任の足音が、廊下の方から近づいてきた。

教室の前のドアが開いた。

担任のチョークの粉のついた腕と、誰かが椅子を引く音と、いっせいに広がるざわめき。それら全部の上で、麻耶の唇は、息を吸い込んだまま一度だけ動きかけて、止まった。

あなた、本当は──。

その続きを、彼女はまだ言っていない。

俺はノートを閉じた。閉じる前に、表紙の角の擦り切れた部分が、今日、また少しだけ広がっているのを目に焼き付けた。覚えたくて覚えるわけじゃない。視界に入ったものが、勝手に頭の引き出しに収まっていく。

ただ、今日初めて、その引き出しの一つに、桐谷麻耶の声が入った。

風が、また吹いた。

紺色のリボンが、もう一度、揺れた。

俺は、ノートを閉じた手を、まだ離せずにいた。

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