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夜光アカリと文芸部の放課後

第3話 第3話

第3話

第3話

Sキーが、もう一度鳴った。

俺はその音の余韻を、喉の奥で飲み下した。口の中が砂を噛んだみたいに乾いていて、舌の根のあたりに、自分の脈の音だけが、こつこつと打っている。画面に並んだ夜光アカリの三百字は、もう隠せる場所になかった。Ctrl+Wの上に乗せた指を、俺はゆっくりと外した。左手の薬指の爪の内側に、薄い三日月の形をした汗の痕が、残っていた。

「……そう、だよ」

声が、思ったより平たくなった。

「夜光アカリは、俺」

言い切った瞬間、椎名の表情が動いた。動いた、というより、この一ヶ月、もしかしたらもっと長いあいだ、彼女の顔のどこかに張ってあった細い緊張の糸が、ぷつ、と切れた音がした気がした。口が、ほんのすこしだけ開いて、そのまま閉じられないでいる。息の吸い込みが、短い音で鳴った。

椎名は、机の角に手を置いた。白い爪の先に、薄く血の色が戻っていく。さっきまで椅子の背を握り締めていた指の関節が、ひとつずつ、ゆっくりと伸びていった。

「……ほんとに」 「ほんとに」 「嘘、だったら、殴る」 「嘘、じゃない」

椎名は、二歩ぶん後ろに下がった。そのまま、自分の椅子の背もたれに手を置いて、一度だけ、天井を仰いだ。蛍光灯のまだついていない天井に、橙色の染みがひとつ、斜めに伸びている。彼女の喉のうえで、何かを飲み込む音が、小さく鳴った。

「……やば、」

椎名が、口元を片手で押さえた。その指の隙間から、笑いとも息ともつかない音がこぼれる。笑っているのに、目の縁がかすかに潤んでいた。彼女は自分のスマホを取り、画面をこちらに見せる代わりに、胸のあたりに押し当てて、少しのあいだ、黙った。

「一年の、七月の末」

ようやく出てきた声は、半分掠れていた。

「あたし、『七時三十七分』を、塾の帰りに電車で読んだんだよね。西武線の、各停の、一番後ろの車両」

俺は、頷くこともできずに、椎名の口元を見ていた。

「ホームに着いて、扉が開いて、みんな降りてったのに、あたしだけ降りられなかった。最後の、『指が触れそうになって、触れなかった』のとこで、目が動かなくて。結局、次の駅まで行って、戻った」

椎名の右手が、机の縁を、ほんのすこし、撫でた。指の腹のうえに、その夜の文庫本の重さが、まだ残っているみたいだった。

「車窓の街灯がね、ガラスの向こうを、ぼう、ぼう、って流れていくの。その光が、画面のうえを通るたびに、あたし、息、止めてた。隣のおじさんが、ちょっと迷惑そうにこっち見たの、いまでも覚えてる」

椎名の声が、すこし上を向いた。冷房の効きすぎた車両のなかで、自分のスカートの裾を握りしめていた十五歳の自分のことを、彼女は思い出しているらしかった。

「降りた駅で、改札出て、自販機のとこで、冷たいお茶買ったの。手が痺れるくらい冷たくて、それでようやく、あたし、自分が泣きそうだったんだなって、気がついた」

椎名の声は、速かった。さっきまでの部長の声でも、クラスの目立つ女子の声でもなかった。早口で、少し上擦っていて、語尾が小さく震えている。文化祭の準備を仕切るときにも、合評会で意見を言うときにも、こんな声を、俺は聞いたことがなかった。

「『雪と、薬缶』の、最後の一行。あれ、読み終わってから、自販機の前で十分立ってた。ホットのコーンポタージュ買って、手ぇ冷やして、また最初から読んだ。感想、三回下書きして、全部消した」 「……三回も」 「下書きのたびに、なんか、違う気がして。読んだだけのあたしが、書いた人に何か言うの、失礼な気がして」

椎名は、自分の左手の親指の腹を、机の角に、ゆっくり押し当てた。スマホで文字を打つときに、いちばんよく使う指だった。

「『すごい』とか、『泣いた』とか、書こうとしたんだけど、書きかけては消して、書きかけては消して。なんか、そういう言葉、ぜんぶ、軽すぎる気がして。あの薬缶の、しゅう、って鳴る音の、最後の一行のあとの、空白のことを、置いてけぼりにしてしまう気がして」

椎名が、ノートに目を落とした。几帳面に並んだ目次案の、「特集: 本校の書き手」という一行の上に、彼女の指先が、そっと置かれる。爪の先が、その五文字を、左から右へ、もう一度、なぞった。

「結城くん」 「……うん」 「あたし、ずっと、誰か分かんない人に、ちゃんと礼を言う方法を、探してた」

窓の向こうで、野球部の掛け声がひとつ、遠くに上がって、すぐに消えた。椎名の指の腹が、ノートの紙を、ほんの一回だけ、こする。シャーペンの芯の粉が、罫線の上で、銀色にひかって、わずかに動いた。

「それがさ、隣の席にいたって、反則じゃない?」

椎名は笑った。そのときだけ、いつもの、口の端だけの笑い方に戻っていた。だけど、その下で、鼻の奥を一度すすった音が、小さく鳴った。

俺は、何か言わなければ、と思った。

ありがとう、だと違う。ごめん、も違う。喉のうえにいくつか単語が並んで、どれも選べないまま、全部が机の下に落ちていった。代わりに、Sキーのうえの指が、また、意味もなくsを一つ打った。画面のいちばん下に、sが、ぽつんと増えた。

椎名は、その一文字のsを、一度だけ見た。

そして、息を吸った。さっきまでの揺れた声とは別の、深い吸い方だった。パイプ椅子を引きずって、もう一度きちんと座り直す。背筋がしゃんと伸びて、制服のプレスの線が、机のへりと平行になった。ノートの「特集: 本校の書き手」の一行の下に、シャーペンが新しい字を、一気に書いていく。太字の、まるで黒板に書くような字で。

──部活動改革。

その四文字が書かれるのを、俺は見ていた。

「結城くん」

椎名の目が、今度は、まっすぐ俺を見ていた。

「夜光アカリを、次の部誌の、目玉にする」 「……は?」 「文化祭の、特別号。あたしが、部長として、企画として出す」

頭のなかで、何かが、ぐらぐらと揺れた。

「ま、待て、椎名。俺は、別名義で書いてるから成立してるんであって、」 「別名義のままでいい」 「学校の名前で出るのは、」 「結城蓮の名前は、どこにも出さない。あたしと、副部長と、顧問と、印刷所のおじさんしか、中身は知らない。表紙には、夜光アカリ新作、って出す。名前は、絶対、守る」

椎名の口調は、速かった。速いのに、一語ずつ、さっき、彼女のノートの欄外で丸を三つ描きながら組み立てたのだろう段取りが、きちんと並んでいた。俺が反論する隙を、あらかじめ全部、つぶしてきた喋り方だった。

「でも、急に言われても、」 「急じゃない。あたし、ずっと考えてた」 「……ずっと?」 「一年の、秋から」

一年の秋。二年目の夜光アカリが、中編連載を始めた時期だった。椎名は、その頃から、隣の席で、俺のSキーの音を、ノートの端で、数えていたのかもしれなかった。

「結城くん」

椎名は、シャーペンをノートの上に置いた。立ち上がり、こちらへ、一歩踏み出す。机の角に、彼女の制服のスカートの裾が、軽く触れて、音もなく戻った。

「あたし、今日から、部活動改革、始めるよ」

宣言、だった。

椎名の声に、さっきまでの掠れは、もうなかった。

「幽霊部活、やめる。次号十部、やめる。夜光アカリを隣に置いて、あたしたちの文芸部、ちゃんと誰かに届く部活にする。──文化祭で、一〇〇部、売る」

百、という数字が、部室の空気のなかを、まっすぐ飛んで、俺の胸のまん中に、どん、とぶつかった。

文芸部の去年の総部員数は、四人だった。次号の発行予定部数は、十部だった。十部のうち、配るあてがあったのは、顧問と、副部長と、椎名と、俺と、図書室の隅の棚一つだけだった。一〇〇部、という数字は、そのどれの十倍でもなく、まったく別の場所に立っている数字だった。

「──一〇〇部?」 「一〇〇部」

西日が、椎名の背中から差していた。彼女の輪郭が、逆光で、ほんの一瞬だけ、黒く縁取られて見える。そのなかで、椎名が右手を、こちらへ、すっと差し出した。

掌が、上を向いていた。指の関節のひとつひとつに、夕陽の橙が乗っている。掌の中央の、生命線の浅い溝まで、はっきりと見えた。

「結城くん」

椎名の声が、部室のすみずみまで、静かに行き渡った。

「握手。──いまから、あたしと、組んで」

俺は、その掌を、見つめた。差し出された五本の指は、こちらの返事を待って、微動だにしていなかった。Sキーの、ぎし、という音は、今度は鳴らなかった。俺の指は、キーボードの上から、浮いたまま、行き場を失っていた。

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