第2話
第2話
椎名の髪の先が、画面のなかの一行に触れて、すっと横に流れた。
柑橘の匂いと、石鹸と、部室の埃が一拍遅れて届く。夕方の、女子高生の匂いだった。椎名のワイシャツの袖口が、俺の左肩のいちばん薄い肉の上に、たぶん、触れていた。一ミリか二ミリ、布越しの空気が押されている感覚だけがあって、それ以上は目で確かめる勇気がなかった。袖口のボタンの、硬質な樹脂の存在感だけが、シャツの下の鎖骨のあたりに、ひとつだけ点のように残っている。振り向けば、その点の正体が目に入ってしまう。振り向かなければ、この一ミリの距離を、俺はずっと、知らないふりで抱えていられる。
Ctrl + W、を押せば、このウィンドウは閉じる。左手の薬指と小指は、たしかにそのキーの上に置いていた。あとは十グラムの力を入れるだけでよかった。だけど、押せなかった。押した瞬間に、あからさまに逃げたことになる。指先が、キートップの微かな凹みを、何度も何度も確かめるみたいに撫でていた。押し込む直前の、ばね仕掛けの反発が、指の腹を通して、うっすらと伝わってくる。その一線を、俺はたぶん、越えたくなかった。
「……ねえ、結城くん」
椎名の声が、耳の上のあたりで鳴った。息が首筋のうぶ毛を、ほんの少しだけ揺らす。
「ちょっと、そこ、読ませて」 「……いや」 「二行でいいから」 「見せるようなもんじゃ、ない」
喉の奥で、声が掠れた。Sキーが、ぎし、と泣くように鳴る。俺の指が、いつの間にかそのキーを、意味もなく何度も叩いていた。Sが、三つ、四つと、画面の端に並んで、主人公の独白を内側から壊していく。sssss、と、虫が這ったような痕跡が、俺の文章のうえに残る。消せばいいのに、消せなかった。その無意味な文字列だけが、いま、俺の側の、ささやかな砦になっていた。
椎名は笑わなかった。
「結城くん」
その声のトーンで、俺は分かった。さっきまでの、シャーペンで丸を描いていた部長の声じゃない。口の端で笑っていた、同じ二年の同級生の声でもない。これは、本を読むときの、桐谷椎名の声だった。図書室の奥の机で、文庫本のページの端を、二ミリだけ折る前の、あの静かな息づかいと同じトーンだった。
椎名の顔が、肩越しから画面のすぐ前にまで下りてきた。呼吸一回分の距離だった。黒い目が、画面のなかの一段落を、左から右へ、一行、二行、三行と、線をなぞるように動いていく。読み飛ばしていない、と分かった。彼女はきっと、この部室にいる俺よりもずっと、俺の文章を丁寧に読んでいた。睫毛の影が、ディスプレイの白に落ちている。瞬きのたびに、その影が、俺の書いた句読点の上を、音もなく横切っていった。
「……この、『校庭の金網のひし形が、西日で二重に見える』っていう書き方」
椎名の指先が、画面の右上を、触れる寸前の距離で、ゆっくりと指した。爪が短く切り揃えられていて、その先端が液晶の表面に、触れるぎりぎりで、止まっている。
「夜光アカリの、去年の夏の短編」 「……」 「『七時三十七分』ってタイトルの、駅のホームで話す二人の話。あれの、冒頭の三行目と、ほとんど同じ構造」
喉仏が、ごく、と音を立てた。その音が、椎名にまで届いてしまった気がして、俺は反射的に、机の下で拳を握った。
「……偶然、だろ」 「偶然で、読点の位置まで揃わないよ」
椎名が一度、短く息を吸った。その息が、俺のこめかみのあたりを、軽く撫でて通り過ぎる。
「それから、『息を止めた』を二文続けた直後に、ひらがなだけの独白を一行だけ挟むの、あれ、あんたの──あの人の、癖」
俺はまだ、画面から目を離せていなかった。椎名の声を聞きながら、自分の文章を、他人の目で読み直している感覚だった。意識してもいないはずの呼吸の癖まで、この人は、一年以上、読んできた。塾をサボりそうになりながら、読んできた。通学電車の中で、たぶん、イヤホンもつけずに、スマートフォンの画面を縦に撫でながら、読んできた。夜光アカリという名前の下にある、俺の呼吸を、ずっと。
「……なんで」
なんで俺の文章を読んで、俺のことを疑う。そう続けたくて、続けられなかった。理由なんて、単純だった。俺が書いた文章を、椎名はずっと読んでいたからだ。それだけだった。読者は、書き手の指紋を、書き手自身より正確に覚える。そんなことを、どこかの小説の後書きで、誰かが書いていた気がした。
椎名は、すぐには答えなかった。
彼女の右手が、椅子の背もたれから離れて、俺のノートパソコンの画面の、ほんの上の空間を、何かに触れないように、慎重に動いた。画面には、今日の書きかけの、夜光アカリとしての独白が、三百字ぶんほど、まだ開いたままだった。その三百字のうち、最後の一行は、まだ句点が打たれていなかった。未完成の文末が、椎名の視線の下で、むきだしのままでいる。
「結城くん」
彼女の声は、さっきよりも、ずっと低かった。
「この文章、──もしかして、『夜光アカリ』?」
その名前を、桐谷椎名は、自分の口で発音した。
黒板に、誰かが落書きを残すみたいに、雑じゃなく、丁寧に。一音ずつ、ゆこう、あかり、と区切って、俺の耳の奥のいちばん柔らかいところに、置いた。置かれた、という感触が、本当に物理的にあった。耳の穴の奥の、鼓膜の裏側の、名前のついていない小さな窪みに、その四音が、ひとつずつ沈んでいく。
部室の時計が、ちっ、ちっ、と秒針の音を刻んでいる。グラウンドの声は、いつの間にか遠ざかっていた。野球部が今日のメニューを終えたのか、俺の耳が、椎名の声以外の音を、勝手に切ってしまったのか。蛇口のどこかで、ぽつり、と水滴が落ちる音がした。それすらも、妙にはっきり聞こえた。
「……ちが、」
言おうとして、舌が途中で止まった。
違う、と言えばよかった。知らない名前だ、人違いだ、と。これまで、親の前でも、中学の同級生の前でも、去年の三年生の前でも、俺は一度も、夜光アカリの名前を認めたことがない。認めるための筋肉を、俺はたぶん、持っていなかった。十四のときから、その名前は、自分の身体のいちばん奥の、鍵のかかった抽斗のなかにだけ、しまってあった。
なのに、椎名の前で、それが動かなかった。鍵の位置を、いつの間にか、この人に教えてしまっていたのかもしれない、と思った。教えた覚えはない。でも、文章を読まれるというのは、たぶん、そういうことなのだ。
「……椎名」
喉から出てきた声は、笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなかった。
「もし、そうだったら、どうするの」 「どうもしない」
即答だった。その即答の速さが、逆に、椎名がずっと長いあいだ、この瞬間のための答えを、胸のなかで何度も転がしていたことを教えていた。
「ただ、確かめたかっただけ。誰にも言わない。絶対に」
椎名は、立ったままだった。画面の上にかがみ込んでいた姿勢から、ゆっくりと背筋を戻す。身体の影が、俺のキーボードの上から退いていく。西日が、戻ってきた。画面に、夕方の橙色が、白文字を透かして焼きつけるように映った。俺の書いた独白の、ひらがなの一行だけが、その橙のなかで、ふしぎに明度を落として見える。
「でも、確かめたかった理由は、ある」
俺は、やっと、椎名の顔を見上げた。
椎名の目は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。ただ、何か、長く考えていた計算の、最後の一桁が埋まりそうになっているような、そんな目だった。彼女の頰は、夕陽のせいではない赤みを、少しだけ、帯びていた。耳たぶの、ピアスの穴のない柔らかい縁まで、同じ温度の色で染まっている。その赤が、夕陽のオレンジとは違う種類の光を、こちらに返していた。
「……理由、って」 「あたしさ、部長なんだよ、一応」
椎名は、自分の机の、丸を三つ描きかけたノートに目を落とした。几帳面な目次案。彼女の字で、「次号目次(案)」と書かれた、その下の余白に、さっきまでなかったはずの小さな文字が、一行、増えていた。
──特集: 本校の書き手。
俺の目が、その一行に縫い止められた。いつ書いた、と訊こうとして、訊けなかった。たぶん、彼女が、さっき丸を三つ描いていたのと、同じ時間のことだった。シャーペンの芯を、0.3ミリの細さで、丁寧に押し当てて書かれた字だった。鉛筆の粉が、罫線のインクの上に、うっすらと銀色に浮いている。
「……椎名、これは」 「あたしは、まだ何も決めてない」
椎名は、静かに言った。
「ただ、あんたの答えだけ、先に聞きたかった」
部室の空気が、密度を増したように感じた。蛍光灯は、まだつけていない。西日だけが、俺と椎名の間の、細い机の継ぎ目を、橙色の線で走っている。その線の上に、埃が一粒、ゆっくりと落ちてきて、光のなかで一度だけ、小さく回転した。
俺は、キーボードから手を離した。
汗で湿った指先が、制服の太ももの布に触れる。冷たい、と思った。さっきまで、夜光アカリの独白の続きを打っていた指が、たった五分で、見知らぬ人間の指みたいになっていた。指紋のいち本いち本の溝に、さっきまでにはなかった震えが、薄く張り付いている。
「……俺は、」
答えかけて、言葉を選ぶ時間がほしくて、一度だけ、窓の外に目を逃がした。
校庭の金網が、西日で、ひし形を二重に浮かべている。俺が去年の夏の短編に書いた、あの金網だった。椎名が指でなぞった、あの三行目の景色だった。彼女は、ずっとここにいた。ずっと、隣の席にいた。金網の向こうで、誰かの体操服の白が、橙のなかを一度だけ横切って、すぐにまた、見えなくなった。
Sキーが、もう一度、ぎしと鳴った。
俺の、次の一言を待っているみたいに。