第1話
第1話
キーボードのSキーが、たぶんもう死にかけている。
叩くたび、指先に微かな引っかかりが残る。放課後の文芸部室で、部費で買った中古のノートPCだけが俺の相棒だった。夕方の四時半、開け放した窓から、グラウンドの歓声と野球部の金属バットの乾いた音が、切れ切れに届いてくる。ここだけが、時間の流れから半歩ぶん遅れているような、そんな気がしていた。
西日が、机に積んだ『新潮』のバックナンバーの背表紙を、橙色に染めている。古い紙と、木の棚と、誰かが昔こぼしたコーヒーの匂い。三年生が引退したばかりの部室は、がらんとしていた。四脚のパイプ椅子のうち、座っているのは二つだけだ。
俺──結城蓮は、今日も〆切を抱えている。
画面の端に、投稿サイトの通知がひとつ光った。「夜光アカリ先生、先ほどの更新、涙が止まりません」。見なかったことにして、俺はブラウザをタスクバーの隅に押し込む。
夜光アカリ。
ネットの片隅にあるサイトの新人枠に短編を載せてから、少しだけ名前が知られるようになった筆名だ。最近は一話あたりブックマークが三桁後半までつく日もあって、感想欄には二日で百件ほど並ぶ。……誰にも言っていない。親にも、クラスメイトにも、今、隣で鉛筆を走らせている部長にも。
「結城くん」
隣の席から、声が飛んできた。
「Sキー、壊れてない? さっきからカチカチ音がする」
桐谷椎名は、シャーペンの尻で自分の頰を突いたまま、こちらを見ずにそう言った。ノートには、次号の部誌の目次案らしきものが、几帳面な縦書きで並んでいる。長い前髪をピンで無造作に留めていて、耳の上の肌が、夕日に透けて薄く色づいていた。
「まあ、たぶん」 「たぶん、じゃなくて、顧問に言って新しいの買ってもらいなよ」 「自分で使えてるうちは、別に」 「あんたのそういうところ、直した方がいいよ」
口調はきついのに、椎名はそこで一度だけ、口の端で笑った。俺は曖昧に頷き返して、画面に目を戻す。カーソルが点滅したまま、主人公の独白の途中で止まっていた。
桐谷椎名は、部長である。
春に三年生が引退してから、この文芸部を切り盛りしているのは彼女だ。入部届を出した部員は三人。俺と、椎名と、二年の眼鏡の副部長格の女子。もっとも副部長は今日も、委員会があるとかで欠席していた。結局、部室は、俺と椎名の二人きりだった。
二人きり、と言えるほど俺たちは仲がいいわけじゃない。一年のときから同じ部にいるけれど、交わした言葉の八割は、鍵の受け渡しと、窓の施錠確認と、プリントの回覧についてだ。椎名はクラスでは結構目立つ方で、俺はといえば、先週クラス替えをした同級生に名前を間違えられたばかりだった。
会話の代わりに、音がある。
椎名のシャーペンがノートに当たる、かちかちという音。俺のSキーが、だんだん曖昧になっていく音。窓の外で金属バットが白球を弾く、乾いた音。たまに遠くの音楽室からトランペットが一音だけ鳴って、また止まる。
これでよかった。
本当のところ、三年生が引退してくれて、俺はちょっと息がしやすくなっていた。先輩たちは悪い人ではなかった。ただ、部誌に載せる作品を一人三本出せだの、合評会で作者自身が朗読しろだのと言う、熱のある人たちだった。熱があるのは、どこかに届かせたい作品がある人の特権だ。俺みたいに、誰にも見せたくない文章を、見せるふりで出していた人間には、毎週の合評会は軽い拷問だった。
本当の文章は、このノートパソコンの中にだけある。別名義で、別の顔をして、誰も俺の本名を知らない場所で、俺は書いていた。幽霊みたいな部活で、幽霊みたいに。これでずっといいと、思っていた。
「結城くん、今日の午後、副部長いないから、閉めるとき鍵は?」 「俺、最後までいるから、閉めとくよ」 「助かる」
それで会話は終わるはずだった。椎名はノートに視線を戻し、俺もキーボードに指を置いた。が、いつもならかりかりと再開するはずの鉛筆の音が、今日はなかなか始まらない。
ちらりと横目で見る。
椎名は、ノートの欄外に、小さな丸を三つ並べていた。ぐるぐる、ぐるぐる。シャーペンの芯が、紙に角度のある筋を残している。何か、決めかねているときの癖だ。一年の合評会で、意見が割れたときに、彼女がよくやっていた。
「あのさ」
椎名がそう言ったのは、西日が彼女の頰から首筋にかけて、斜めの線を引いたときだった。
「結城くん、最近なんか読んでる?」
「……読んでる?」 「小説。学校の課題じゃなくて、自分で好きで読んでるやつ」
妙な質問だった。椎名は活字を読む人間で、俺も活字を読む人間で、今は文芸部にいる。それはどれも当たり前のことだ。それなのに、彼女の声はいつもより半音だけ低かった。心臓が、勝手にひとつ跳ねる。
「……まあ、いろいろ」 「いろいろ」 「うん」 「たとえば?」
答える前に、一瞬迷った。選んだのは、毒にも薬にもならない名前だった。純文の新人で、椎名も好きそうな作家。彼女は頷き、それから、ふうん、と小さく息を吐く。
「あんた、ネット小説とかは?」
喉の奥が、急に乾いた。
「……あんまり」 「あんまり、ってことは、ちょっとは読むんだ」 「椎名は、読むのか」 「うん。最近ちょっと好きな人がいて」
声のトーンが、わずかに上がった。ノートに向けていた目が、こちらを見たくないとでも言うように、窓の外の校舎に逸らされる。
「夜光アカリって人、知ってる?」
椎名の言った名前が、部室の空気のなかでひとつの音として転がるのを、俺は確かに聞いた。
夜光アカリ。
自分でつけた筆名だ。高校に入った春、一人で家にいて、親の帰りが遅くて、夕方の窓に西日が当たっていた日に、なんとなく決めた二文字と三文字。意味なんて、深くはなかったはずだった。それが今、桐谷椎名の口から出ている。
「……聞いたことは、ある」
必死に、声を平らに保った。キーボードに置いた指が、勝手に動こうとして、止まる。爪の内側が、汗で冷たい。
「熱心な読者?」 「うん、たぶん、そこそこ」
椎名は自分のスマホを取り出して、画面を確かめもせずに、机の上に伏せて置いた。
「一年の夏くらいから、ずっと追ってる。新作出るたび、塾サボりそうになる」
椎名が塾をサボりそうになる。
そのことだけが、なぜか頭の中を空回りしていた。俺が二ヶ月前に投稿した短編を、彼女は塾をサボりそうになりながら読んでいた。今、この隣の席で、かりかりとシャーペンを走らせていたこの人が。
「……熱心、だな」 「この人の文章、好きなんだ。地味な放課後の書き方が、なんかうちらの学校っぽくて」
椎名が、椅子の背もたれに寄りかかった。ノートから手を離し、両腕を胸の前で組む。夕陽が、彼女の半袖のシャツの、プレスの効いた肩のラインを、くっきりと浮かばせた。
「でも、誰なんだろうね、あの人」 「誰、って」 「名前も、顔も、年齢も、どこに住んでるかも、全部出してないでしょ。そういうの、気にならない?」 「……別に。作品が面白ければ、書いてる人が誰かは」 「あたしは気になる」
椎名は、はっきりと言った。
「うちらと同じくらいの歳だったら、いいなって、最近ちょっと思ってる」
言葉の尻尾が口の中で消えないうちに、俺は目を伏せた。画面のなかの書きかけの一行が、急に他人のものに見える。自分で打ったはずの文が、夜光アカリの文体のまま、はっきりと立ち上がっていた。
椎名が、椅子を引いた。
がたん、と木の床が鳴る。彼女が立ち上がる気配。俺は顔を上げない。上げたら、全部、顔に出る。
「結城くん、ひとつ聞いていい?」
声が、近い。
「……なに」 「あんたのPC、今、なに書いてるの?」
机の上に、影が落ちた。西日が、一瞬遮られる。椎名がこちらの肩越しに身を乗り出してくるのが、ワイシャツの擦れる音で分かった。
俺の指は、画面を閉じるショートカットの上で、凍ったまま動かない。
椎名の髪の先が、夕陽の赤をまとって、ゆっくりと、俺の画面に、落ちてくる。