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観察者の二度目の春

第1話 第1話

第1話

第1話

シャーペンの芯が、ノートの余白に六つ目の菱形を描いたところで折れた。

 西日が机の上で橙色に潰れていた。五時限目が終わったあとの、どこにも行き場のない時間。明日の集合は午前七時四十分、新幹線東京駅八時二十三分発「のぞみ211号」、京都駅着十時四十分——しおりの最終ページを昨日三回読んだから、暗唱できる。できるのに、俺の目は黒板の日付にも、教卓に広げられた班分け用の模造紙にも向かず、机に落ちた芯の黒い粉ばかりを見ていた。

「瀬尾は——どこでもいいよね?」

 担任の声が、教室の後ろから飛んできた。否定する暇もなく、三つ目の班の余白に「瀬尾悠」と書かれていく。男子二、女子二、そして俺。四人の名前は左から詰めて書かれ、俺の名前だけが一行下にぽつんと追記された。班としての呼吸が合わない寄せ集めの、さらに後から継ぎ足された余り。それでも誰も文句を言わない。言えば角が立つから、黙って飲み込む。俺が黙って飲み込まれてきた二年間の、たぶん延長線上。

 ノートの余白に七つ目の菱形を描く。芯の粉が、指の側面に黒く移った。

 ……写真の端に映るだけの三日間だ、また。

 班決めが終わると、教室の密度が一段上がった。明日からの三日間、誰と写真に収まるか、誰の部屋に集まるか、夜に誰と歩くか。声はどれも俺を素通りしていく。膜、と俺はいつからか呼んでいた。自分の周りに張られた、薄くて丈夫な膜。そこから外を覗く分には、よく見える。

 誰が誰に遠慮しているか。誰が笑いながら機嫌を探っているか。高木が松井に話すときだけ語尾が柔らかくなること。岡田が相沢の前では左肩を少し引いて座ること。二年間、俺は教室の中心で何が起こっているかをノートの余白に菱形として記録し、そのたびに、自分がそこにいないことを確認してきた。

「瀬尾、ちょっと」

 副委員長の相沢が、模造紙を丸めながら寄ってきた。

「班、ほんとごめん。あんたの班、部屋だけ多分四人部屋だから、一人余る分は隣の男子部屋に入ってもらうことになると思う」

「うん」

「……それ、嫌だったらさ」

「嫌じゃない」

 相沢は少し困った顔をして、「そう」と言ってから離れていった。嫌じゃない、と答えるのに一秒もかからない自分を、俺は二年かけて完成させた。嫌だと言えば、誰かが気を使って動かなければならない。動かせば、空気が滞る。俺が一番よく観察してきたのは、自分が動かないほうが全体がスムーズに回るという事実だった。去年の文化祭の準備、一度だけ「この配置だと動線が詰まる」と小さく口を挟んで、場が一瞬だけ静まったことがある。誰も怒らなかった。悪意もなかった。けれど、怒らないからこそ、俺はその数秒の静けさを覚えてしまった。正しい言葉でも、輪の中に落ちた瞬間、輪はわずかに歪む。歪ませないでいることが、俺が選んだ居方だった。

 窓の外、グラウンドでサッカー部の笛が鳴った。秋の終わりの風が、開けっぱなしのサッシから入ってきて、机に挟んだしおりの角をめくった。紙の乾いた匂いと、埃と、誰かの制汗剤の残り香。

 視界の端で、白瀬環が笑っていた。

 クラスの中心——と書くと陳腐だが、事実として彼女の周りには常に三人か四人が集まる。今日は松井と、岡田と、もう一人、名前を呼ばれずに笑っている女子。白瀬の笑い方は、俺の観察ノートの中でも特殊な項目だった。声を立てて笑うとき、彼女は一瞬だけ口元を隠す。指の形が、いつも同じ。左手の人差し指と中指を、下唇の右端に軽く当てる。何かを堪えるときの癖だ、と俺は結論づけていた。たぶん、笑いの途中で息が足りなくなることに気づかれたくないのだろう——そんな推測まで含めて、ノートの七ページ目に書いてある。七ページ目には、他にもいくつか書いてある。彼女が教室に入ってくる時刻の分布、誰に先に挨拶するかの優先順位、机の上の消しゴムの位置、鞄の取っ手の向き——一つひとつは意味のないデータに見えて、俺にとっては意味のある距離感の測り方だった。誰かをそこまで細かく理解しようとすることは、俺が同じ教室の中で彼らと同じ世界に属していないと、自分に言い聞かせる作業でもあった。観察する側にいる限り、観察される側の痛みは知らなくて済む。

 俺は彼女のことを、よく見ていた。

 ただし、それは俺が「よく見ていた」だけの話だ。白瀬環は俺を見ない。見る理由がない。教室の中心にいる人間が、窓際で芯を折っている人間を見つける動機が、この学校の力学にはない。

 だから、明日からの三日間も、俺はたぶん、写真の端に映るだけだ。

 翌朝、東京駅。八時五分、十四番線。

 新幹線のホームは、青いラインに沿って短く途切れた線が引かれていて、その上に学年二百四十人がクラスごとに並ばされていた。俺の組の列の、後ろから三番目。前は男子、後ろは男子、左は柱。ちょうど良く、誰とも目が合わない位置だ。

 駅のアナウンスが、発車ベルの直前の静けさを作る。

「のぞみ211号、間もなく——」

 耳に入ってくる情報を、いつものように一つずつ畳んでいく。アナウンス、車両の到着音、リュックのバックルが金属と当たる音、誰かの笑い声、しおりをめくる音。全部、膜の向こう。

 白瀬環の列は、俺の斜め前、一つ前のクラス。

 彼女は松井に何か話しかけられて、頷いていた。浅く、二回。話を最後まで聞いていないときの頷き方。今日はいつもより髪を後ろで結んでいて、首筋の産毛に朝の光が当たっている。

 そのとき、白瀬環が、振り返った。

 松井と話していた途中で、急に後ろを——正確には、俺のいる斜め後ろを、一度だけ見た。視線は〇・五秒にも満たなかったと思う。瞬きよりは長く、会釈よりは短い。彼女は何かを確認するように俺の目のあたりに視線を落として、それから、何事もなかったみたいに松井の方へ顔を戻した。瞳の色が、ホームの蛍光灯の下で、ふだんより一段暗く見えた。眉が動いたわけではない。口角が変わったわけでもない。ただ、視線の角度だけが俺の位置に正確に合っていて、狙って振り返ったのか、偶然後ろを向いたのか、どちらとも取れる絶妙な温度だった。観察に慣れた人間ほど、自分が観察の対象になった瞬間、それを誤魔化す表情が作れない——はずだった。でも彼女の顔には、何一つ痕跡が残っていなかった。痕跡がないこと自体が、俺には一番、気持ち悪かった。

 心臓が、一拍、遅れて動いた。

 たまたまだ、と俺は自分に言い聞かせた。後ろが騒がしかったのかもしれない、誰かに呼ばれたと勘違いしたのかもしれない、そもそも俺を見たんじゃない、俺の後ろの柱の陰に誰かがいたのかもしれない。可能性を列挙するのは得意だった。観察者の習慣だ。事象に対して起こりそうな仮説から順に並べ、一番端に「自分が見られた」という選択肢を置いて、そこまで考えが辿り着かないように、そっと封をする。それが、俺が俺でいるための作法だった。

 膜の向こうから、彼女は俺を見なかった。見るはずがない。

 そう整理したそばから、指先が、制服のポケットの中で少し湿った。ポケットの内側で、朝、筆箱に戻し忘れた折れたシャーペンの芯が指の腹に触れた。小さな黒い欠片が、指紋の溝に押し込まれて、指先を少しずつ黒く染めていく感触だけが、妙に鮮明だった。

 ……見られた、のか。

 俺が誰かを観察していることを、二年間、誰にも気づかれていないはずだった。それが俺の守ってきた距離の作り方で、俺の生存戦略で、俺が俺でいられるたった一つの方法だった。

 白瀬環の後頭部が、前に向き直ったまま動かない。

 発車ベルが鳴った。扉が開く音。担任が「乗れー」と呑気に叫び、列が前から順に崩れていく。俺の足が、アスファルトに貼り付いたまま動かない。

「瀬尾、乗るぞ」

 後ろの男子が俺の肩を軽く押した。俺はやっと前に一歩進む。

 のぞみ211号、四号車、窓側。座席に着いて窓に額を寄せると、ガラスはまだ朝の冷たさを残していた。東京駅のホームが、ゆっくり後ろへ流れていく。

 しおりをリュックから出す。最終ページ、集合写真の予定時刻。京都駅前、清水寺参道、金閣寺前——どの場所でも、俺はたぶんいつものように端に寄って、誰かの肩の向こうから写る。そのはずなのに、さっきの〇・五秒が、指先からまだ抜けない。

 車両がトンネルに入る。窓の外が暗くなり、ガラスに俺の顔がくっきり映る。二年間、誰にも見られていなかった顔が、初めて、自分以外の誰かに見られたかもしれない顔として、そこに反射している。

 京都まで、あと二時間三十五分。

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