第3話
第3話
GW明けの月曜。消しゴムの角のへこみを、鞄のポケットの中で親指で確かめる。連休のあいだ、何度この癖を繰り返しただろう。家のベランダで、図書館の帰り道で、布団の中で。へこみは、もう親指の腹の形に馴染んでしまって、たぶんそれは、俺が勝手に撫でて形を変え続けてしまったからだ。
校門の桜は、もう一枚も残っていない。代わりに若葉が風に揺れて、葉の裏の白さが、春の色をもう片付けてしまった合図のように見えた。昇降口で上履きに履き替える。踵を入れるとき、ゴムの縁がひどく硬くて、九連休のあいだに俺の足がこの学校を忘れかけたのだと、そんな気がした。
教室に入ると、山田が誰かと連休の話をしている声が、ドアの向こうから先に届いてきた。「おー、結城、生きてたか」と軽く手を挙げる彼に、俺は小さく頷きを返す。三嶋紗季はもう席についていて、今朝の文庫本はまだカバンの中だった。机の上に、水色のファイルが一冊だけ置かれている。昨日まで読んでいたのか、指の跡のついた白い付箋の端が、ファイルの背から少しだけ顔を出していた。
「おはよ」
「……おはよう」
金曜日より、挨拶が一段だけ短くなる。短くなった分だけ、俺と彼女のあいだにあった半秒の沈黙が、薄く削れていった。椅子を引いて腰を下ろすと、左肩の先に、彼女の机の気配がある。その気配の角度を、俺はもう、ほとんど身体で覚えてしまっていた。
担任が出席簿を抱えて入ってきて、朝礼のあと、教卓の上でそれを閉じる音が短く鳴った。「予告通り、席替えやります」。どよめきが起きる。担任は黒板の端に、画用紙を折ってつくった白い箱を置いた。「くじです。文句なしな」
教壇の箱から、一人ずつくじを引いていく。紙片には、新しい座席の番号が書かれているらしい。前の方の列から、ざわつきと歓声と小さな悲鳴が順に起きて、教室の地図が少しずつ書き換わっていく。
俺の番が来た。箱の底に指を差し込むと、紙の擦れる乾いた音が、耳の奥で必要以上に大きく響いた。引き抜いた紙片は、二つに折られていた。開くまでのほんの一秒で、自分の呼吸が浅くなっていることに、はっきりと気づいた。
――窓際の列、前から三番目。
俺は黙って、指示された席まで歩いた。歩きながら、この列の、この番号の、隣に座るのは誰だろう、とだけ考えた。考えまいとしながら、考えていた。
「うわ、マジかよ」
廊下側で、笑いを含んだ声が上がる。山田だった。引いた紙を、明るく掲げて見せている。彼の新しい席は、俺の斜め前。振り向けば顔が見える距離だ。「よろしくな、結城」と片手で敬礼の真似をして、彼は笑った。悪くない、と俺の中のどこかが思う。悪くない。観察者でいるには近すぎるけれど、近すぎるからこそ、彼の軽さは俺を島に押し込まない。彼は誰の隣にいても、自分の国から動かない人間だった。
続いて、髪の長い女子がひとり、俺の斜め後ろに座った。振り返らなくても、誰だかは見当がついた。教室の後列で、先週から一人ぶんだけ空白みたいに座っていた席の主――佐伯だ。眼鏡のブリッジを指で押し上げる癖があって、教師に指されても、声が掠れて返事が半分しか届かない。俺はこの二週間で、その返事が届かないところを二度ほど目撃していた。佐伯は椅子を引いて、俺の後ろ斜めに音もなく腰を下ろす。机の脚が床を擦る音が、俺の背骨のあたりで短く止まった。
そして。
箱の前で、三嶋が紙片を開いた。彼女は表情を変えなかった。変えないまま、ゆっくりと、俺の隣の席まで歩いてきて、音を立てずに椅子を引いた。左肩の気配が、八日前とほとんど同じ角度で、戻ってきた。
「……よろしく」
先に口を開いたのは、俺の方だった。自分でも驚いた。観察者の側にいるつもりなら、挨拶は相手に先を譲るのが作法だ。なのに、唇が勝手に動いていた。
「うん。よろしく」
三嶋は、こちらを向かなかった。文庫本も、まだ出さなかった。ただ、机の上のファイルを、少しだけ俺の側に寄せた。水色のファイルの端が、俺の机の天板との境界を、ほんの一センチだけ越えて入ってくる。境界線の上で、ファイルの角が止まった。
その一センチを、俺は二度見た。
教室の空気が、この三十秒で、確かに書き換わっていた。山田の明るい声が斜め前で弾け、佐伯の静けさが斜め後ろで沈み、そして俺の左隣で、三嶋の気配が、消しゴムを返してくれたときと同じ距離で息をしている。四つの点が、俺の半径一メートルの内側で、勝手に三角形と直線をつくり始めていた。
(これは、もう、端の席じゃない)
俺は窓の外に目を逃がした。けれど窓の外の葉桜は、もう味方ではなかった。若葉の影が、机の天板に斜めに落ちて、ファイルの一センチの越境と、ちょうど同じ角度で伸びている。
六時間目が終わって、掃除当番のモップが廊下を走っていくあいだ、俺はノートをゆっくりと鞄に仕舞っていた。仕舞うだけの時間を、わざと長く引き延ばしていた、と言う方が正しい。隣の席の椅子が引かれて、また戻される音が、二度ほど聞こえた。戻される、ということは、彼女はまだ帰っていない。俺は筆箱のファスナーを閉めて、開けて、また閉めた。
「結城くん」
呼ばれて、顔を上げた。三嶋はもう立ち上がっていて、鞄の紐を左肩に掛けたところだった。制服の襟の先が、鞄の重みで少しだけ下に引かれて、鎖骨のくぼみが影になっている。彼女は、こちらを見下ろす形で立ったまま、俺の返事を待っていた。
「……なに」
声が掠れた。掠れたことを隠すために、俺は立ち上がった。立ち上がってしまえば、視線の高さがほとんど同じになる。同じになって初めて、彼女が、思ったよりずっと真っ直ぐに、俺の目を見ていることに気がついた。
「修学旅行の班なんだけど」
彼女は、それだけ言った。
修学旅行。その単語は、朝のホームルームで担任が机の上に配っていったオレンジ色のしおりの表紙にも、大きな活字で印刷されていた。六月。京都と奈良。二泊三日。四人ないし五人で班を組むこと。しおりをちらりと見ただけで、俺はまだ班の話を誰とも詰めていなかった。詰めるつもりも、ない。転校から二か月で、四人の班に潜り込める居場所を持っていると思うほど、俺は自分を過信していない。
「……うん」
頷いた。頷いたあとで、何に頷いたのか、自分でもわからなくなった。
「放課後、ちょっとだけ、時間ある?」
「え」
「五分でいい。今日じゃなくてもいい。明日でも」
三嶋の声は、普段より半音低かった。早口ではなかった。早口ではない分、一語一語の輪郭が、教室に残る午後の光の中で、くっきりと浮いた。彼女は俺の返事を急かさなかった。急かさない代わりに、鞄の紐を、指で一度だけ握り直した。握り直したとき、関節の骨がまた少しだけ白くなる。金曜日に消しゴムを摘んだ指と、同じ指だった。
「……今日で、いい」
俺は答えた。
「今日でいいって、今返事したら、あとで後悔しそうだから、今のうちに言っとく」
自分の口から出たその軽口の、どの一音に自分が紛れ込んでいるのか、俺にはわからなかった。観察者は軽口を叩かない。値踏みされて流されるだけの、二十三度の温度の中にいるはずだった。なのに今、俺の口は、自分で自分を退路のない場所に追い込むような言葉を選んでいた。追い込まれた方が楽だ、と感じ始めている自分に、薄く寒気がする。
三嶋が、わずかに顎を引いた。口角が、ほんの一ミリだけ上がる。笑ったとは、呼べない動きだった。けれど、その一ミリを、俺は確かに受け取った。
「じゃあ、屋上の下のテラスで。十分後」
「わかった」
彼女が先に教室を出て行った。引き戸を閉める音は、立てなかった。山田の笑い声が、廊下の向こうで一度高く跳ねて、また沈んだ。佐伯は、もう荷物をまとめ終えていた。机の上を、机と同じ色になるまで丁寧に拭き終えて、鞄を肩に掛けたところで、ふと俺の方を振り返った。
振り返って、何も言わなかった。
眼鏡の奥の目が、一度だけ、俺の顔と、三嶋の出て行ったあとの引き戸とを、交互に見た。見て、また戻した。それから、鞄の紐を握り直して、軽く頭を下げた。たぶん、挨拶のつもりだった。挨拶が下手な人の挨拶だった。俺も、頷きを返した。返しながら、ああ、この班はたぶん四人なのだな、と、まだ決まってもいない未来のかたちを、勝手に予感していた。
廊下に出ると、五月の午後の光が、窓の一列を斜めに切り裂いていた。ワックスの匂いがまだ微かに残っていて、スリッパの底が、床の艶を軽く鳴らす。連休明けの、誰もいない廊下は、朝の教室よりも、もっと個人的な音で満ちていた。
階段の踊り場で、俺は一度立ち止まった。ポケットの中の消しゴムの、角のへこみを、親指でまた確かめる。へこみは、もう最初の形には戻らないだろう。俺の親指の腹が、勝手に別の形に撫で続けているからだ。
観察していれば傷つかない。
その呪文を、俺はもう、口の中で転がさなかった。転がさなかったことを、今日だけは、少しだけ、認めてやった。
屋上の下のテラスで、三嶋紗季が待っている。班の話。四人目の椅子の話。どう答えるか、まだ決めていない。決めないまま、足が、一段ずつ、階段を上っていく。