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灰色の春、四枚の桜

第3話 第3話

第3話

第3話

指先が、紙の冷たさを受け止めたまま、しばらく動かなかった。

薬の説明書を畳んだ手が、まだ少し湿っている。その湿り気が、封筒の端にうつった。宛先の「森」の字のすぐ下、俺の苗字の「一」の横棒に、小さな濡れた跡ができる。文字が、にじむ、寸前で持ちこたえた。

昨日、封筒を受け取ったときには気づかなかった細部が、明かりの下で浮かび上がっていた。表の宛先は、実家の住所だった。その上に、赤いボールペンで斜線が一本、引かれている。下に、俺の今のアパートの住所が、書き足されていた。母の字でもない、父の字でもない。父の知り合いの誰か——年賀状の宛名を代書する癖のある、近所の誰か——が、届いた封筒をそのままこちらへ回してくれたらしかった。

実家から、ここへ、寄り道して、届いた封筒だった。

蛍光灯の白い輪が、天井の中央で、少し古びて震えている。壁の時計の秒針が、いつもより遅く動いているように聞こえた。たぶん、錯覚だった。

指先を、紙の下に滑り込ませる。糊の合わせ目は、年月のせいか、乾いて硬くなっていた。無理に剥がせば音を立てる。息を詰めて、爪の先で少しずつ、紙の繊維を引き離していく。引き千切るのではなく、どこかの境界を、そっと見分けていくような、そういう動かし方になった。

——十五年、開けなかったことにはならない。

喉の奥で形になった言葉は、声までは届かなかった。この封筒は昨日届いただけだ。それなのに、俺の体のどこかは、もう十五年前からこれを開けずにいたような気がしていた。

封が切れた。

白い便箋が、折り畳まれた状態で、中に挟まっていた。便箋の内側に、もう一枚、薄い紙が重なっているのが透けて見える。

文字を読むより先に、便箋の紙を、鼻先へ近づけた。

饐えた紙のにおい。仏間の畳の奥にある桐のタンスを、久しぶりに開けたときの、ああいう、少し甘くて、少し埃っぽいにおい。涼の家に何度か上がったことがあった。台所と仏間を隔てる襖の継ぎ目のあたりで、いつも、同じにおいが漂っていた。

便箋を、広げた。

「拝啓 お元気ですか」

一行目を読んだだけで、俺は目を、しばらく閉じていた。

涼の母の字は、覚えているままだった。ペン先の強い人だった。「あ」の一画目を、紙に突き刺すように打つ癖があった。高校の頃、家に遊びに行って、冷蔵庫に貼られたメモを何度か見ている。牛乳、卵、醤油、涼への伝言——そういう、どうということのない字が、記憶の底で、妙に鮮明に残っていた。

その字が、十五年の歳月の分だけ、少し、震えていた。

「先日、お母様にお電話を差し上げました」

そこから先は、用件だけが、淡々と続いていた。本文は、それほど長くない。便箋一枚の半分ほどで、余白のほうが多かった。涼の命日が近いこと、今年で十五回忌を迎えること、あなたが引っ越したことだけは知っていたこと、だからずっと、どうやって連絡を取ろうか迷っていたこと。

最後の段に、こうあった。

「同封のお名前は、涼が亡くなる前の半年ほど、何度も口にしていた方々です。連絡先を、母の私なりに調べました。お渡しするかどうか、最後まで迷いました。お使いになるかどうかは、あなたのご判断にお任せします。あの子は、最後まで、あなたに会いたがっていたように、母の目には見えました」

便箋の端を、両手の親指で押さえた。紙の縁が、指の腹に食い込んだ。

もう一枚、内側に重なっていた薄い紙を、引き出した。

罫線のない、白いコピー用紙だった。手書きで、四人分の名前と住所が、縦書きで並んでいる。

一人目、小野寺晃。埼玉県越谷市——のアパート名までは、俺の目には、うまく入ってこなかった。二人目、三人目の名前も、視界の端に確かに見えた。だが、目の焦点が、どうしても最初の一行から離れない。小野寺、という四文字が、紙の上で、少しずつ膨らんで見えた。

小野寺は、高校の三年間、涼の隣の席だった男だ。

涼が、何人かから、何かをされていたこと。俺はそれを、全部ではないにしろ、知っていた。知っていて、涼とそのまま友達を続けた。小野寺の名前を、あの頃、口に出さないようにしていた。口に出したら、涼が笑えなくなる気がしたからだ。

ページの下に、四人目の欄があった。

名前の下の空欄が、他の三人より、明らかに広く取ってある。他の三つの欄にはきっちり番地まで書いてあるのに、四人目だけは、苗字すら、書かれていない。

その余白の端に、ボールペンの痕が、ひと筋、薄く残っていた。何かを書こうとして、途中で止めた線。涼の母の指は、たぶん、四人目を書こうとしたのだ。そして、書き終えられなかった。

俺は、その空白を、しばらく見ていた。

冷蔵庫が、短く唸って止まった。ポンプの切れる音が、いつもより長く、畳に沈んだ。

紙を持ち直すと、手の中で、便箋と一覧表と封筒の三枚が、一つの重さになった。三枚合わせても、卵一つより軽いくらいだった。その軽さが、かえって、腕の筋を、内側から引っ張った。

——涼が、俺に会いたがっていた。

涼の母の字で、そう書かれていた。本人の字ではなかった。本人からは、もう、何の字も、来ない。

それでも、その一行は、十五年の距離を、ひとまたぎで、埋めにきていた。

立ち上がると、膝が、小さく鳴った。

押入れの下段に、段ボール箱を一つ、押し込んであるのを、俺は思い出していた。引っ越しのたび、捨てられず、捨てられずで、三つめの部屋までついてきた箱だ。蓋の上に、マジックで「高校」とだけ、書いてある。

箱を、畳の上に引きずり出した。

卒業アルバム、部活のノート、バンドスコア、学園祭のパンフレット、それから、古い携帯電話が二つ。一つは、高校を出てすぐに買い替えた、折り畳み式のもの。もう一つは、大学の三年で機種変したときに、涼との履歴が残っているからと、わざわざ手元に残しておいた、ガラケーだった。

電池は、当然、切れていた。

クローゼットの奥から、古い汎用の充電器を探し出した。埃をティッシュで拭き、コンセントに差す。携帯の裏蓋を外し、電池パックを入れ直し、充電器の台に置いた。赤い点が、途切れ途切れに、一度、二度、三度、点いた。

それでも、しばらく、画面は真っ暗だった。

俺は、その画面の前に、正座していた。畳の上に膝を下ろすなんて、長いあいだ、しなかった。足の裏が痺れた頃になって、ようやく、小さな起動音が鳴った。

十五年前の壁紙が、画面の中に、少しずつ立ち上がってきた。

学祭の夜、屋上で撮った、空の写真だった。涼が撮った。本当は、涼の横顔が少しだけ写り込むはずだったのを、涼は「目つぶってるから消して」と言って、空だけを残した。そう言われたとき、俺は笑った。笑って、そのまま壁紙にした。

電話帳を開くと、「涼」の二文字が、ちゃんと、そこにあった。

一度、深く、息を吐いた。それから、着信履歴を、開いた。

一番下のほう、スクロールしきったところに、その一本はあった。

「涼 不在着信 23:47」

日付は、十五年前の、春の終わり。

あの夜、俺は、終電で家に帰って、シャワーを浴びて、風呂場から出た瞬間に、電話の光だけを見た。五分前の着信だった。折り返そうとして、指が動かなかった。理由は、いまでも、うまく思い出せない。たぶん、疲れていた、と自分に言い聞かせた。たぶん、涼は酔っている、と決めつけた。たぶん、明日、会社の会議がある、と思った。たぶんが、何枚も重なって、折り重なって、指を押さえつけた。

折り返さずに、俺は寝た。

その夜のうちに、涼は、自分の部屋で、ひとりで死んだ。

画面の中の、「23:47」の四つの数字が、ゆっくりと、胸の底のどこかで、鳴り始めた。着信音そのものが聞こえたわけではない。ただ、音の気配だけが、十五年分の沈黙を突き破って、体の内側に戻ってきた。

爪の先で、携帯の側面を、軽く弾いた。硬いプラスチックの音が、一度だけ、畳の上を転がった。

ダイニングテーブルに戻り、四人分の名前の紙を、もう一度、広げた。

小野寺の名前の上を、ペン先で、軽くなぞる。インクは、つけなかった。ただ、書く動作の形だけを、指に覚えさせた。

明日、会社を、午後から半休にしよう、と思った。

主治医との再診は再来週だ。部長に打診された秋の大口案件のことも、考えなければならない。来週の土曜には、花見がある。桜は、そこまでもう、保たないだろう。

それでも、俺は、最初の住所の、最寄り駅までの乗り継ぎを、スマートフォンで検索しはじめていた。

画面の下のほうに、新着のメッセージが、一件、点っていた。母からだった。プレビューの、最初の一文だけが、細い帯になって、見えた。

「涼くんのお母さんから、——」

続きを、俺は、まだ、開かなかった。

代わりに、古い携帯の画面の中の、「23:47」を、もう一度、しばらく、見ていた。

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