第3話
第3話
扉の取っ手は、金属の冷たさが掌に残った。一度深く息を吸って、俺は防音扉を引く。気圧が抜けるような、ふっ、という小さな音と一緒に、スタジオの空気が頬に触れた。エアコンの乾いた匂いと、古いカーペットの埃と、ほんの少しの汗の臭い。三年前、中学の部室で嗅いだのと、同じ順番で鼻に届いた。靴の裏が、床のカーペットに一段、沈む。引き返すなら今だ、と体のどこかが警告したが、膝はすでに次の一歩を踏み出していた。
ドラムセットの奥で、スティックを回していた手が止まる。
三宅央介は、スツールに座ったまま、こちらを見た。顎が少しだけ尖って、中学のときより痩せて見える。髪を短く刈り込んだ分、耳のかたちが露わになっていて、その耳の縁が、ほんの一瞬、赤く染まった。蛍光灯の下で、彼は三年前より肩幅が広くなっていた。制服のシャツを肘まで捲り上げていて、前腕の筋の陰影が、握ったスティックの角度をなぞっている。
「……湊」
三宅の声が、スネアの縁を弾いた残響よりも低く落ちた。その一音節の中に、三年ぶんの何かが畳まれていた。俺は、畳まれたまま、開かずにいてほしいと思った。彼の視線は、俺の顔を見たあと、すぐに俺の肩のケースに逃げる。三年前、このケースを二人で担いで駅前のスタジオに通った通学路が、向こうにも残っているのだ。
「ひさしぶり」
「……おう」
それだけで、台詞は続かなかった。床に敷かれた防音用のカーペットが、靴底の下で、沈むように柔らかい。ドアが自動で閉まる音が、背中のすぐ後ろで小さく鳴った。——もう逃げられない、という音だと思った。
スタジオの隅、壁際の長椅子から、低い声が降ってきた。
「始めるぞ」
柊律——だと、すぐに分かった。灯が「先輩」とだけ呼んでいた、三年の男子。ベースを膝に抱えて、ストラップの金具を締めている。黒い長袖のシャツの袖口を、二つ折りに捲ってあった。細いけれど、腕の筋は、弦を押さえ慣れた人間のそれだった。目は合わない。合わせない、と決めている目の動きだった。こちらを見る代わりに、チューナーの針を一度だけ確認して、親指で4弦を叩く。ぼん、という低音が、床から脛まで上がってきた。
灯がミキサーの前で振り返って、両手を広げる。
「湊くん、紹介。ドラム、三宅央介。ベース、柊律先輩。で——うちのギター、佐伯湊」
うちのギター、と言われた瞬間、俺の左肩が小さく跳ねた。ケースの持ち手を、握り直す。指の皮が、取っ手の起毛にこすれて、また熱を持った。
「……見学だけ、って聞いたけど」
柊先輩が、初めてこちらに目をくれた。黒目が深い。疲れている目だと思った。
「ケース、持ってきたんだろ」
「……持ってきました」
「なら、弾け」
それだけ言って、柊先輩はまた自分のチューナーに戻った。会話を、会話のかたちで続ける気がない人だった。言葉の端に、刃物のような硬さがあって、湿り気を一滴も含まない。
俺は床に片膝をついて、留め金をひとつずつ外した。カチ、カチ、カチ、と乾いた音が三回続いて、蓋が開く。中に寝ている黒いボディが、三年ぶんの埃をかぶって、それでも照明を鈍く返した。ピックガードの左下、剥がれかけたステッカーが、渡り廊下で押さえつけたときのまま、反り返っている。
「それ——」
三宅の声が、ほんの少しだけ震えた。彼は、そのステッカーの端を見ていた。
「お前、まだ貼ってたのか」
「剥がしそびれただけだ」
嘘だった。剥がす機会なら、三年間のうちに何度もあった。そのたびに、爪を立てかけて、やめた。——あのステッカーは、三宅がライブハウスからの帰り、雨の中でコンビニ袋から取り出して貼ったやつだ。袋の水滴が糊に混じって、その日から縁が波打っている。そのことを、俺だけが、指の腹で知っている。
三宅は何も言わずに、スネアの皮を指の腹で一度叩いた。皮の張り具合を確かめる動作が、三年前と寸分違わなかった。俺の胃の底が、細い針で一点だけ刺されたみたいに、じんと疼く。——この癖、まだあるのか。口の中でだけ、そう呟いた。
ストラップを肩にかけて、ギターを抱え直す。重さが、記憶していたのよりわずかに軽かった。抱える側の俺が、三年前より少し大きくなっていたのだ。鎖骨のあたりにストラップの縁が当たる位置が、数センチだけ下にずれていた。そのズレのぶんだけ、フォームを自分で直さなければいけない。ペグに親指を添えて、6弦を半音ずつ上げる。二重の巻き癖が、爪の腹に、古い弦の錆を移した。鉄錆の味が、舌の奥で甦る。
灯が、ミキサーのフェーダーを一本だけ上げた。アンプが、薄く、ジー、と鳴き始める。
「キー、Aで。テンポ百十。——まずは、なんでもいいから、四小節だけ」
柊先輩が、ベースの4弦を、とん、と踏み潰すように鳴らした。三宅が、スティックをふたつ、軽く打ち合わせて、カウントを刻む。ワン、ツー、ワンツースリーフォー。
指が、勝手に動いた。
考える前に、左手がEマイナーの形を作っていた。薬指の絆創膏が、弦に擦れてほつれる。その痛みが、脳のどこか固く閉じていた扉を、内側から蹴り開けた。右手のピックは——ない。灯の予備を借りる暇もなかった。仕方なく、親指の腹で弦を擦る。コードの粒が、左の掌から、肘、肩、喉まで一本の線で上っていく。久しぶりすぎて、線の引き方を筋肉が戸惑っている。迷っているあいだに、背後で三宅のバスドラムが、遅れずに入ってきた。
一音目で、柊先輩のベースラインが、俺のコード進行の影に、すっと滑り込んできた。遅れない。急がない。三宅のキックが、四拍目の裏で軽く入る。俺が何を弾くか分からないはずなのに、二人は、俺の指の次の動きを、半歩先で待ち受けていた。
——なんだ、これ。
二小節目の終わりで、俺の指は、勝手に昔のフレーズを思い出した。中学二年の冬、体育館で、最後まで弾ききれなかった、あのアウトロの一節。封印したはずの、十六分音符の連打。
三宅のスティックが、一瞬、宙で止まった。
止まったのは、半拍だった。半拍のあと、スネアとハイハットが、そのフレーズのリズムをぴたりと追いかけてきた。追いかけてきたのに、追い越さなかった。俺の弾く速度の、ほんの紙一枚うしろを、ずっと走ってくれている。あの日、体育館で途中で千切れた音の続きを、三宅は三年間、ひとりで叩いていたんじゃないか——そんな錯覚が、脳の奥を一度だけ掠めた。三宅の目が、一瞬だけ俺と合う。三年前、最後のステージで合わせた時と同じ角度。けれどもう、スティックを床に叩きつける気配はなかった。
柊先輩のベースが、そこで初めて、音量を上げた。地の底から誰かが腕を伸ばして、俺の背中を下から押し上げるような音圧。
四小節のつもりが、八小節に伸びていた。八小節が、十六小節になった。誰も止めなかった。灯は、ミキサーの前で、片手を口に当てたまま、動かない。目の縁が、薄く光っている気がする。けれど確かめる余裕は、俺にはない。
サビの頭に入る直前で、俺はようやくピックがないことを思い出した。親指の腹が、擦り切れて、赤くなっていた。血が滲みかけているのに、痛みの感覚が、遠い。
——止まれ。
自分に命令するのに、左手が言うことを聞かなかった。弦を押さえる指先が、もう一小節、もう一小節、と欲しがっている。封印していたはずの三年が、指の神経の一本一本から、溢れ出してくる。
サビの最後の一音を、しゃん、と叩き落として、俺はようやく息を吐いた。スタジオの空気が、一拍ぶん、凍ったように静止する。エアコンの送風音だけが、天井の隅で細く鳴っていた。
三宅がスティックをシンバルの縁にそっと置いた。柊先輩が、ベースの弦を左手で軽くミュートした。二人とも、俺を見ていなかった。お互いの顔を、見ていた。視線の受け渡しが、打ち合わせみたいに素早く、しかし何も決めずに終わる。
灯が、口に当てていた手を、ゆっくり離した。
「……やばい」
小さく、彼女の唇が動く。声にはなりきっていなかった。
「やばい、これ——」
続きは、言わせなかった。柊先輩が、初めて自分から口を開く。
「三宅」
「……はい」
「こいつ、中学で何してた」
三宅は、スティックの先で、ライドシンバルの縁を、こつん、と一度鳴らした。波紋が、スタジオの湿った空気を、二拍ぶんだけ撫でる。
「俺と、同じバンドです」
柊先輩が、ふ、と短く笑った。笑ったのに、目はまったく笑っていなかった。品定めの目だった。刃物の裏で、指の腹を確かめる職人のような目つき。
「佐伯」
「はい」
「もう一回、同じの、最初から」
俺は、頷くより先に、もう一度左手を弦に置いていた。親指の腹が、擦り切れた箇所を押さえるみたいに、きゅっと弦を噛む。
灯がミキサーの前で、録音ボタンに指をかける。赤いランプが、ひとつ、点いた。