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錆びていたのは、包丁ではなかった

第3話 第3話

第3話

第3話

朝、襖の隙間は、昨夜のまま残っていた。

布包みのかさの端が、畳の目の延長みたいに、まっすぐ俺のほうを向いている。座ったまま、手を伸ばせば届く距離だ。伸ばさなかった。持ち上げかけた指を、膝の上に戻した。戻した拍子に、関節が、硬く鳴った。

台所で湯を沸かした。薬缶の底の焦げが、青い火のさきで、昨日より少し色濃く見えた。茶葉は切らしていた。湯を、湯のまま、湯呑みに注いだ。舌の裏に、水道の金気が薄く残った。その金気を、押し返すように、もう一口飲んだ。

——花江さん、入院したらしいぞ。

店主の声の角度が、台所の壁に、まだ貼りついている気がした。重くも軽くもない、畳んだ布巾の端のような角度で。湯呑みを流しに置いた。置く音が、少し、丁寧になった。自分で気づいて、嫌になって、次に鍋を置くときは、わざと雑にした。雑にすれば、昔に近づく気がした。昔の、音を立てて歩いていた頃に。

開店まで、三時間あった。上着を羽織って、路地に出た。昨夜の水溜まりがあった場所は、乾いた黒に戻っていた。足の裏のゴム底が、アスファルトの凹みを一つずつ拾っていった。拾いながら、俺は、自分の右手を、もう一度握り直していた。握るものが、今日も、何もない。

裏口ではなく、表の路地から、一度だけ暖簾の前を通った。硝子戸の中、カウンターの右端が、光の筋の縁に沈んで見えた。椅子は、今朝もまだ、机に逆さに上げられたままだった。壁の傷のところだけ、影の端が、わずかに欠けていた。

夕方、客入りは、半分だけ埋まった。

雨の予報が外れて、少し蒸した。俺は洗い場で、冷水に指を浸す時間を、いつもより長く取っていた。シンクのふちに、茄子の皮が一枚、黒い色のまま張りついていて、剥がそうとして、指の腹で三度こすった。三度めで、ようやく落ちた。落ちた皮を、燃えないゴミの角に、そっとすべり込ませた。

七時を回った頃だった。

暖簾をくぐる音が、ひとつ聞こえた。

「いらっしゃいませ」

店主の声。いつもの、低く、短い、間延びしないやつだ。俺は振り向かなかった。返事の気配が、普段の客より半拍、遅れた。遅れた、というより、返事そのものが、なかった。椅子が引かれる音。ひとつ。

「あの、すみません」

女の声だった。

「ここ、今、厨房に、年配でない方は、いらっしゃいますか。母が、お世話になっていたはずで」

耳の奥で、昨夜、路地を通り過ぎた電話の声が、もう一度、薄く、重なった。三十代後半の、疲れて、少し掠れた声。今日の声は、それより、やや低い。泣き止んだあとの低さだった。泣き止んだあとの、という比喩が頭のなかで勝手に組まれて、俺は、すぐに打ち消した。比喩は、俺には、許されない。

「七尾さん、ちょっと」

店主の呼ぶ声に、俺は、布巾で手を拭いた。指の股が、まだ湿っていた。拭き切らないまま、暖簾を分けて出た。

カウンターの右端ではなかった。二つ手前の、真ん中あたりに、黒いカーディガンの女が座っていた。髪は、肩のあたりで、疲れた切り口で揃えられていた。膝の上に、布の袋を一つ、抱えていた。袋の口から、小さな封筒の端が、白く覗いていた。

目が合った。

合った、と言うほど、きちんとではなかった。女の視線は、俺の顔の中心に、一度だけ、短く当たって、それから、カウンターの板目のほうへ、そっと降りた。

「——母が」

それだけ言って、女は、布袋の口を、指で揃え直した。揃え直す、というより、揃え直すことで、言葉の次を探している、そういう手だった。

「母が、今、入院していまして」

「……はい」

俺の声は、自分でも、遠かった。

「二日前の、深夜に、意識が、一度、戻りまして。たぶん最期に近いときだと思います、と、先生に、言われて」

女は、言葉の終わりを、一度ずつ、区切っていた。区切らないと、続かないのだと思った。俺は、カウンターの内側で、両手を、前掛けの前で重ねていた。重ねた手の、右の親指の腹に、昨日の布の毛羽立ちの感触が、また、薄く戻っていた。

「その、戻ったときに、母が、少しだけ、喋ったんです」

女の目は、俺の作業着の、胸のあたりを見ていた。顔は、見ていなかった。それで、良かった。

「——あの店の、あんたの卵焼きが、食べたい、と」

カウンターの板目の、木の節の一つが、俺の目の焦点の真ん中に入った。節は、年輪が途中で止まって、黒い円を作っていた。

「あんたの、という言い方を、母は、しました」

女は、もう一度、ゆっくり、繰り返した。

「あんたの、と」

指先が、冷えていった。

冷水で長く浸していたせいだ、と思った。思おうとした。思えないまま、俺は、カウンターの内側で、右手を、左手で包んだ。昨夜の路地でやったのと、同じ動作だった。違うのは、今、俺の左の手のひらに、厨房の湯気と、女の声の残りの温度が、わずかに混じって入ってきたことだった。

「あの、失礼ですが、お名前、伺ってもよろしいですか」

女が、布袋の口を、もう一度、揃えた。

「花江の、娘です」

花江、という名前を、誰かの口から聞いたのは、久しぶりだった。俺の口から出したことは、三年間、一度もない。店主すら、「花江さん」としか呼ばなかった。娘、と名乗ったその人は、苗字を付け足さなかった。付け足す必要を、たぶん、感じなかった。

「母は、おたくのお店のことを、ただ、“あの店”、と呼んで、あんたの卵焼き、と、言うんです。お名前を、一度も、教えてくれなかった」

女の口元が、少し、笑いの形になった。笑いではなかった。笑いの形を借りた、別の形だった。

「名乗ってもらった覚えも、たぶん、母のほうにも、ない、そうで」

俺は、そう、と、小さく相槌を打った。打った声は、喉の奥で、半分、かすれた。

名乗ったことは、ない。

三年間、一度もない。履歴書の職歴欄を、店主が一度も見返さなかったのと、同じだった。カウンター越しに、「熱いよ」、「はいよ」、それだけを、何百回、積み重ねただけだった。卵焼きを、定食の小鉢のかわりに、切れ端を一切れ添えた夜が、いつだったか、あった。あった、と思う。鍋の端の、ぱりっとした焼きつけの音を、指の先が、勝手に思い出した。

思い出すな、と体に言い聞かせるより先に、別の温度が、指先に、静かに乗ってきた。

古い、通夜の膳の、温度だった。

どこで覚えていたのか、一瞬、わからなかった。わからないまま、しかし、指の、第二関節の内側に、煮物の皿の縁の、わずかな熱が、輪郭だけ、乗っていた。十何年前の、どこかの家の、畳の匂い。線香の、甘くて、やや煤けた匂い。座布団の、端のほつれ。白い割烹着の袖口を、俺は一度だけ、絞った。絞った水の、冷たさ。

思い出すことを、俺は、許していなかったはずだった。

「——あの日、母が言っていたのは、これだけじゃないんです」

女は、布袋から、封筒の端を、ほんの少しだけ、俺のほうに押し出した。押し出しただけで、カウンターには、置かなかった。

「でも、今日は、ここまでで、帰ります」

女は、席を立った。立った動作は、慣れた動作だった。病院の廊下を、何度も立ち上がってきた人の動作だ、と思った。

「ご迷惑を、おかけするつもりは、ありません。ただ、——伝えないと、いけない気がして」

女は、カウンターの縁に、指先を、軽く置いた。置いただけで、会計の話はしなかった。注文も、していなかった。俺は、何も、言えなかった。

「ご馳走さま、と、母が、言っていたそうです。先週の、夜に。お味噌汁を、飲みながら」

そう言って、女は、もう一度、俺の胸のあたりに視線を置いて、それから、暖簾のほうへ、静かに向き直った。

暖簾の下を、女の背中が、くぐっていった。

くぐり終えるまでの、三歩のあいだ、店主は、俺の横で、ずっと、布巾の端を揃え直していた。同じ端を、何度も、同じ角度で。俺は、カウンターの板目の、黒い節の円から、目を動かせなかった。動かしたら、指の第二関節に乗っていた古い温度が、逃げていきそうだった。

「——七尾さん」

店主の声が、横から、来た。

「明日、店、開けたいか」

俺は、返事をしなかった。返事のかわりに、前掛けの結び目を、右手で、確かめた。結び目は、三年前と、同じ位置で結ばれていた。位置は同じなのに、結び目の芯の固さが、少しだけ、違って触れた。

裏口を出て、路地の乾いた黒を、ゆっくり歩いた。

家に帰って、電気をつける前に、押し入れの襖に、手をかけた。

今夜は、指が、止まらなかった。

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