第2話
第2話
指の腹に、布の毛羽立ちがまだ残っていた。
朝、洗面台で蛇口をひねったとき、右の親指のふちに、繊維のひっかかりのような感触がある。目を落としても、そこには何もない。昨夜、押し入れの奥から引き出した布包みの、埃を吸った目の粗さだけが、指の記憶に薄く居残っている。水で一度、二度、擦った。感触は、それでも消えなかった。
鏡は、いつも通り、正面から見ないようにした。
歯を磨く間、俺は蛇口から落ちる水の角度を見ていた。口金の縁から、水が細く割れて、排水口に吸い込まれていく。その直前のところで、水の筋が一瞬、ガラス管みたいに固くなる。固くなってから、崩れる。ずっと昔、料理学校の朝、同じように流水を見ていたことがある。思い出しかけて、やめた。やめる、というのは、もう長年、俺の体が先にやってくれる動作になっている。
家を出たのは、昼前だった。路地の水溜まりは、昨夜よりだいぶ小さくなっていた。俺はそれを、今日はまっすぐ、避けて歩いた。避ける、と決めて避けたのは、三年ぶりのような気がした。
店の裏口を開けると、煮物の匂いが一段濃くなっていた。店主がもう出ていて、大鍋の前で醤油を垂らしているところだった。湯気が、天井の蛍光灯のかさに上って、白く溜まっていた。
「おはようございます」 「おう、七尾さん、昨日ちゃんと寝たか」 「寝ました」
嘘ではなかった。ただ、眠りの底に、何度か、押し入れの布包みのかさが差し込んできた、というだけだ。
カウンターの右端に目をやった。換気扇の真下。壁の傷の、いつもの場所。椅子は机に逆さまに上がったままだった。花江さんの席は、昨夜と同じ角度で、机に預けられていた。
「今日は来るでしょうね」 「——まあな」
店主の返事が、半拍、遅れた気がした。俺はそれを、煮物の火加減の気配と勘違いすることにした。
夕方の客入りは、いつも通りだった。
サラリーマンが五人、工事現場の作業着が三人、塾帰りの中学生と母親。カウンターの端、花江さんの席には、別の初見の客が座った。細いスーツの男で、携帯をテーブルに立てて動画を流しながら、生姜焼き定食をかき込んでいる。箸先のリズムが忙しない。壁の傷には、背中が届いていなかった。
八時を過ぎて、俺が洗い場に立っていると、店主に呼ばれた。
「七尾さん、これ、席まで持っていってくれ。手が足りないんだ」
俺は布巾で手を拭いて、盆を受け取った。焼き魚定食。秋刀魚の、黒い筋目の焦げが、照明の下で鈍く光っていた。運ぶ、ということは、三年間で何百回もやってきた動作だった。水を使わない時間の、継ぎ目として運ぶ。
盆を置くとき、客が顔を上げた。四十代くらいの、眼鏡の男だった。小さな会社の役員、のような、疲れ方をしていた。
「あ、すみません」 「どうぞ」
俺は下がろうとした。下がろうとしたところで、男が、箸をつける前に、短く言った。
「ここ、美味いんだよねえ、ほんと」
別にこちらを見て言ったわけではなかった。独り言みたいな、半分は連れに、半分は空中に放った、そういう言い方だった。連れの若い男が、ええ、と相槌を打った。
美味い、という三文字が、俺の耳の奥に、一拍遅れて入ってきた。
遠い国の言葉のようだった。意味は、ちゃんと、わかる。わかるのに、その言葉の指している「ここ」が、どこのことなのか、一瞬、わからなくなった。自分が今立っている店のことなのか、昔、別の名前で立っていた店のことなのか。耳のすぐ内側で、二つの店が重なって、ぼやけた。
厨房に戻るまでの数歩、俺は盆を抱えたまま、右手を軽く握り直していた。昨夜、路地で、何度かやったのと同じ動作だった。握るものが、何もない手だ。
洗い場に戻ると、シンクの水音がいつもより大きく聞こえた。
十時前、客が途切れた。店主は表で暖簾を半分下ろし、看板の灯を落とした。俺は残った皿を洗い終えて、いつもの位置で、いつもの賄いを受け取った。豆腐と、今日は若布。だしは、昨日の引き残しに、今朝の一番を少し足したものだった。濁りが少し薄くなっている。
椀を両手で包んだ。指の熱が、また汁に吸われていく。若布の、海の匂いが、鼻の奥でゆっくりほどけた。すする音を立てないようにするのは、もう意識ですらない。舌の上で、味噌の角がほどけていくまで、俺はじっと動かない。
そのとき、店の前の歩道を、女の声が通り過ぎた。
「だから、もう少し早めに連絡くれたら——」
電話をしていた、らしい。続きの言葉は、足音と一緒に遠ざかった。
椀のふちで、味噌汁が小さく揺れた。
若い声ではなかった。かといって、老いた声でもなかった。三十代の、たぶんその後半の、疲れて、少し掠れた、女の声。花江さんの声ではない。花江さんは、いつも、カウンター越しにしか喋らない人だった。「はいよ」としか、言わない人だった。
それなのに、俺の耳の奥に、その声の余韻が、長く残った。娘らしき、という言葉が、勝手に俺の頭のなかで組み立てられていた。誰の娘、と、俺は自分に問わなかった。問えば、答えが、たぶん出てしまう。
椀を置いた。置いた拍子に、汁が一滴、縁からこぼれて、俺の親指を濡らした。指の腹の、あの毛羽立ちの感触のあった場所だった。熱くはなかった。汁は、もう、ぬるんでいた。
「——花江さん、入院したらしいぞ」
店主の声は、俺の後ろから、ごく普通に落ちてきた。
布巾を畳みながらの、畳み終わった端を揃える合間の、そういう言い方だった。重くも軽くもなかった。重さをつけないように、わざとそうしたのかもしれなかった。
俺の手が、椀のふちで、止まった。
止まった、と自分で気づくまでに、一拍あった。指先が、汁のぬるい温度のところで、動くのをやめていた。動かしたら、何かを取り落とす気がした。何を取り落とすのかは、わからなかった。
「誰に」 「さっき、蕎麦屋の親父から」
店主は、こちらを見ずに続けた。
「昨日、救急車、家の前に停まってたらしい。脱水だって。歳だからな。一週間か、十日か」
一週間、という数字が、カウンターの板目のあいだに落ちた。十日、という数字が、もう一度、別の目地に落ちた。椀の底で、若布がゆっくり沈んでいくのが見えた。
俺は、何か、言わなければいけない気がした。大丈夫ですか、とか、それは、とか、そういう、誰でも言える言葉を、口の中で探した。探したが、どれも、自分の口から出るのに似合わなかった。何百回も味噌汁を渡してきた相手について、俺は、正しい距離の言葉を一つも持っていなかった。
店主は布巾の端をもう一度揃えて、それをいつもの棚の、いつもの位置に置いた。置く音が、少し、丁寧だった。
「来週くらいには、また、あの席に座ってるよ」
そう言って、奥に消えた。消え際の背中が、三年間、俺を追及しなかった同じ背中だった。
俺は椀を、ゆっくり下ろした。下ろしてから、汁が一滴こぼれた指を、作業着の腿で拭った。拭ったあと、もう一度、その指を、見た。見てから、やめた。
裏口を開けたのは、普段より、十分ほど遅かった。
路地の空気は、昨夜より乾いていた。街灯の下に、もう、水溜まりはなかった。アスファルトの黒が、乾いた黒に戻っていた。俺は、水溜まりのあった場所の、だいたいのあたりで、一度、足を止めた。止めて、自分の右手を、左手で包んだ。左の手のひらに、右の指の冷えが、じっと伝わってきた。
家まで、歩いた。
押し入れの前で、上着のボタンを外す前に、襖に手をかけた。かけて、やめた。やめて、もう一度、かけた。襖は、昨夜、戻すときに、一枚分だけ開けっぱなしにしてあった。細い、黒い線の隙間から、布包みのかさの端だけが、こちらを向いて見えていた。
明日、花江さんの席が、今日と同じように空いていたら。
そう口に出しかけて、俺は、今夜も、言葉を止めた。言葉にすると、たぶん、何かが、もう、決まる。決まってしまった場所から、俺は、十年間、なるべく遠くにいようとしてきた。
襖は、そのままにした。
畳に座って、電気を消した。暗がりのなかで、押し入れの細い線だけが、薄く、俺のほうを向いていた。指の腹に、あの毛羽立ちの感触が、また、戻ってきていた。