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錆びていたのは、包丁ではなかった

第1話 第1話

第1話

第1話

霜が爪の間に入ってきた。 指の腹でスクレイパーを押すと、冷蔵庫の壁に張りついた白い膜が薄い板になって剥がれる。ひとかけら、またひとかけら。爪の先がかじかんで感覚が遠くなり、それでも次の角を探している。深夜二時の業務用冷蔵庫は、耳の奥で低く唸っている。唸る、というより、息を詰めたまま吐き損ねているような音だ。 この手で、昔、三つ星を背負っていた。 そう書くと、どこかの遠い国の話のように読める。実際、遠い国の話だ。十年も経てば、自分の過去でも他人事になる。 スクレイパーの金属が霜のなかで硬い芯に当たって、砂のようなざらつきが手首まで伝った。コツ、と短く音が鳴って、それから粉雪が落ちるみたいに霜が崩れる。床のタイルに白いものが散る。明日の朝、バイトが掃除機をかければ消える。 深夜の定食屋は、厨房の換気扇だけが回っている。油と煮物の、どこかで煮詰まったような匂い。客席の蛍光灯は三本のうち一本だけ点けっぱなしで、その下で椅子が逆さまに机に上げられている。四十二席。今日、埋まったのは三十一席。満席でもなく、空席でもない、そういう店だ。 窓ガラスに、作業着の男が映っている。 前屈みで、冷蔵庫に頭を突っ込んでいる。その姿が、ガラスの汚れのなかでぼやけて、輪郭のどこまでが自分でどこからが向こう側の街灯かわからない。髪のあたりは、もう街灯の光に溶けている。誰のものでもないような輪郭だ、と思う。

「七尾さん、まだ霜やってんの」 暖簾の奥から、店主の声がした。 七尾、というのは、今の俺の名前だ。本名の下二文字と、賄い三食を合わせた雇用契約のときに、そう名乗った。店主は詮索しなかった。履歴書の職歴欄を一度も見返さないまま、洗い場とまかないと深夜の戸締りを割り当てた。それで三年が過ぎた。 「もう少しで終わります」 「終わったら味噌汁、残しといた。飲んで帰れ」 返事の代わりにスクレイパーを置いた。指先が、自分の指ではないような重さになっている。熱い湯で洗うと、感覚が戻るのに少し時間がかかる。関節の奥に、ひとつずつ温度が灯るようにして戻ってくる。 厨房の隅で味噌汁の椀を受け取った。豆腐と油揚げ。だしは昨日の引き残しで、少し濁っている。唇に近づけると、塩気より先に、油揚げの甘い匂いが来た。すする、という動作を、俺はいつのまにか、音を立てないようにやる癖がついていた。昔は、客に背を向けて、わざと音を立てていた時期もあった。「美味そうに食ってくれ」と料理長に言われた日のことを、たまに思い出す。思い出すだけだ。 「今日、花江さん、来なかったな」 店主が、裏口の鍵を確かめながら言った。 花江、というのは、常連の老婆の名前だった。カウンターの右端、換気扇の真下の席。壁の傷が一か所、ちょうど背もたれのあたりに凹んでいる。何年もの間、同じ角度で背を預けてきたせいだ。俺はその傷のことを、誰にも話したことがない。 「雨だったからかな」 「そんなの、あの人には関係ないよ。杖ついて、ほぼ毎日来る人だ」 「……そうですね」 椀のふちで、味噌汁が小さく揺れた。俺は椀を両手で包んで、揺れを止めた。指の熱がすぐに汁に吸われていく。 店主は流しの脇で布巾を畳んでいた。背中が小さく丸まっていて、その背中から、何も追及しないという意思のようなものが、薄く立ちのぼっている。三年間、その背中に、俺は何度救われたかわからない。豆腐を噛むと、舌の上で、出汁が一拍遅れて広がった。引き残しの濁りが、かえって角をなくしていて、夜更けの胃に、ちょうど沈んでいく重さだった。喉を通るときに、油揚げの甘さが少し遅れてついてくる。それを追いかけるように、俺は二口目を含んだ。 「明日は来るでしょう」 「来なけりゃ、明後日来るよ」 店主はそう言って、俺の肩を軽くたたいた。肩の骨の位置が、たたかれた場所だけ少し下に沈んだ。痩せた、と言われ慣れていたが、自分でもそう思った。 厨房の壁に、俺の包丁は掛けていない。 ここへ来て三年、一度も刃物を握っていない。握る必要がない。人参を切るのは店主で、鶏を捌くのも店主で、俺は洗い場と冷蔵庫と戸締りだ。ときどき、まな板の端に置き忘れられた文化包丁を、水に漬けてから拭く。そのときの、柄の乾いた感触を、手の記憶からなるべく早く追い出すようにしている。

賄いを終えて、ゴミをまとめて、裏口を開けた。路地裏のアスファルトは、夕方降った雨の続きで、まだ薄く濡れている。街灯の下で、黒い水溜まりが一つだけ、鈍く光っている。 俺は、その水溜まりのふちに、立ち止まった。 花江、という名前を、もう一度、口の中で転がしてみる。三年間、俺は一度もその名前を呼んだことがない。老婆のほうも、俺を「おにいさん」としか呼ばなかった。カウンター越しに味噌汁を渡すとき、「熱いよ」と言うと、「はいよ」と返ってきた。それだけのやりとりを、何百回繰り返したか覚えていない。 杖の先のゴムが、入り口のタイルで、いつもキュッと鳴る。店主がそれを聞きつけて、「花江さん、いらっしゃい」と言う。俺はそのとき、厨房の水場に顔を向けたままでいることが多い。いるのだ、あの席に。そう思うだけで、俺の深夜は、少しだけ次の日に繋がっていた。 今夜は、その音がなかった。 店主が言った通り、雨だったせいかもしれない。杖を濡らすのを嫌って、一日休んだだけかもしれない。明日になれば、また、キュッと鳴る。俺は自分にそう言い聞かせて、水溜まりを避けて歩き出そうとした。 歩き出そうとして、足が動かなかった。 理由は、自分でもよくわからない。ただ、水溜まりの中に、俺の顔が映っていた。街灯を背にしているから、表情までは見えない。見えない輪郭だけが、こっちを見上げている。窓ガラスに映っていたのと、同じ顔だった。 誰のものでもないような輪郭。 俺はしゃがみ込んで、手のひらで水面を崩した。波紋が広がって、顔が一度消えて、またゆっくり戻ってきた。指先に、雨の冷たさより深い冷たさが残った。冷蔵庫の霜とは違う、外の水の冷たさだ。生きている水の、重さのある冷たさ。 波紋がもう一度、ゆっくり静まっていく。映った輪郭が、また同じ場所に、同じ角度で戻ってくる。俺はそれを、目を逸らさずに見ていた。逸らせなかった、と言うほうが正しいかもしれない。雨の匂いが、襟の内側まで降りてきた。アスファルトと、どこかの家から漏れた米の匂いが、雨に薄く溶けている。耳の奥で、店の換気扇の音が、まだ続いているような気がした。 この手で、昔、俺は人を泣かせた。 料理で泣かせたのではない。俺が閉ざしたいくつもの店のことで、誰かの父親が、誰かの夫が、誰かの息子が、厨房の床にへたり込んで立ち上がれなくなった。「あいつの舌は厄介だから、気をつけろ」と業界で囁かれた。気をつけろ、というのは、つまり、逆らうな、という意味だった。俺は逆らわなかった人間を、腕一本で何人も押しつぶした。そしてある日、自分が押しつぶされた。妻が、娘を連れて、玄関の鍵を置いていった。 娘の顔は、忘れようと決めた。 決めた、というのは便利な言葉だ。その言葉のおかげで、俺は十年間、鏡を正面から見ずに済んでいる。窓ガラスも、水溜まりも、できるだけ横目でしか見ない。今夜は、たぶん、雨のせいで油断した。 立ち上がると、膝の関節が固く鳴った。 路地の出口まで歩く間、俺は無意識に、右手を何度か握り直していた。握るものが、何もない手だ。十年間、何も握らないで済むように、俺は自分の指をしつけてきた。それなのに、今夜に限って、掌に馴染みのある重さが、薄く残っていた。包丁の柄の重さだ。忘れたはずの重さだった。

家に帰って、流しで手を洗った。 冷たい水を出したつもりが、先にお湯の方を回していたらしく、湯が指の皮をじわっと焼いた。俺はそのまま、手を引かなかった。赤くなっていく指先を、蛇口の下でじっと見ていた。 冷蔵庫の霜を剥がすのと、肉を捌くのとでは、指にかかる角度が違う。 ふと、そんなことを考えた。考えてしまった、と言うほうが近い。流しの端に置いた腕時計が、二時四十分を示している。明日の開店まで、九時間ある。 電気を消す前に、押し入れの奥に手を伸ばした。 奥から、布に包んだものを一つ、引き出した。布は埃を吸って、色が変わっていた。包みの中身には、まだ触らなかった。ただ、それを畳の上に置いて、しばらく眺めた。 布の繊維が、押し入れの湿気を吸ってわずかに毛羽立っている。畳の目の上で、その包みだけが、十年前の重みのまま、止まっている。指先がまだ熱を帯びていた。流しのお湯のせいか、それとも別の何かのせいか、自分でも判別がつかなかった。 明日、花江さんの席が、また空いていたら。 そう口に出しかけて、やめた。言葉にすると、たぶん、何かが決まる。今夜はまだ、何も決めたくなかった。

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