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書類上の婚約、期限は三ヶ月

第1話 第1話

第1話

第1話

差し戻しの赤字が並んだPDFを開いた瞬間、胃の奥が小さく軋んだ。

二十二時四十七分。フロアに残っているのは、課長席の御園生さんと、私——佐倉真琴だけだ。蛍光灯はやたら白くて、さっき空調が切れた音さえ耳に張りついている。キーボードに指を戻すと、爪の先がうっすら冷えていた。自分の体温なのか、フロアの温度なのか、もうよく分からない。

『該当箇所の根拠、再確認して差し替え』

画面に並ぶコメントは、毎度のように淡々としている。感情のない赤。けれど、見落としを見つける精度だけは異常に高くて、どこに穴があるかを一発で見抜かれる。入社三年目の私は、三十三歳の直属上司から、今日で七回目の差し戻しを食らったばかりだった。

「佐倉」

低い声が背中から落ちてきて、肩が一度だけ跳ねる。振り返ると、御園生さんはパソコンから目を上げないまま、淡々と続けた。

「先に帰れ。終電、まだ間に合う」

「……課長は」

「俺は残る」

たった十五音で終わる会話。整った横顔には、いつものように疲労の影が落ちている。ワイシャツの第一ボタンだけ外した喉元が、妙に無防備に見えて、私は慌てて視線を画面に戻した。差し戻しの二十七箇所、どれも今夜中には終わらない。

帰れと言う人は、自分は絶対に帰らない。

小さく息を吐いて、キーボードに指を置き直す。最初の一字を打ち込むまでに、三秒かかった。眠気じゃない。差し戻しを受けた指が、自信を一枚ずつ削がれていくみたいに、動き出すまで時間がかかるのだ。デスクの端では、コンビニで七時過ぎに買った梅のおにぎりが、ラップのまま冷えていた。

御園生さんの赤字は、いつも同じ順で指摘が入る。データ出典、出典年、単位の整合。最初は理不尽だと思った。けれど二年も隣で働けば、赤字の順序がこの人の思考の順序だと気づく。データを信じるときは、その順にしか信じない人。だから、順番を守って直せば、一発で通る。

——それが分かるまでに、私は入社してから何回泣いただろう。

一年目の春、給湯室の隅で声を殺して泣いた夜のことを、今でもときどき思い出す。あのときの私は、赤字の意味すら読み解けなかった。今は読み解ける。読み解けるからこそ、自分の浅さも一緒に見えてしまう。

十一時を過ぎた頃、給湯室でインスタントコーヒーを淹れた。マグを両手で挟むと、手のひらにじわりと熱が戻ってくる。湯気の向こうで、自販機のランプが一つ落ちていた。昨日は点いていたのに。会社の細かいものが一つずつ切れていくのを、私はいつも終電前のこの時間にだけ目撃する。

ポットの湯を注ぐ音が、やけに大きく響いた。粉が湯の表面で渦を作り、ふっと黒く沈んでいく。冷蔵庫のモーターが低く唸り、その向こうで、自販機の落ちたランプの残像だけが、瞼の裏に焼きついていた。マグをもう一つ、無意識に棚から取り出している自分に気づいて、少しだけ動きが止まる。御園生さんは、ブラックを二口分の濃さで淹れる。それを覚えてしまったのは、いつ頃だったか。

席に戻ると、御園生さんのデスクにも湯気が立っていた。私が淹れたのと同じ、給湯室の粉っぽい匂いのやつ。こちらをちらりとも見ずに、カップを口に運んでいる。

「課長、金曜の会食の件ですが」

「……別件が立て込んでる。動かす。月曜にまた話す」

会話は短く、刻まれるように返ってくる。冷たくはない。けれど、必要以上の音は出さない人だ。三年目の私がもう一歩踏み込もうとすると、言葉は静かに途切れる。御園生さんの視線は、常にモニターの向こう、私の知らない数字の森に向かっている。

それでも、私が淹れたと気づいて飲んでいるのか、気づかずに飲んでいるのか。それだけは、どうしても聞けないまま、今夜もまたキーボードに戻る。

トイレに立った帰り、廊下の窓に映る自分の顔に足が止まった。頰がこけているというほどじゃない。ただ、目の下の影が、先週より一段濃い。営業の同期はもう結婚して、SNSには週末のカフェの写真が並ぶ。私のタイムラインに並ぶのは、コンビニのおにぎりと、終電のホームの写真ばかりだ。

鏡の中の私に、小さく笑いかけてみる。頬が少しこわばっているのが、自分でも分かった。眉の上に、ファンデーションでは隠しきれない疲れが薄く滲んでいる。前髪を指先で整えてみても、整えた分だけ余計にくたびれて見える気がして、すぐに手を下ろした。窓の外、向かいのオフィスビルにも、ぽつぽつと遅い明かりが残っている。同じように差し戻しと向き合っている誰かが、きっとどこかにいる。それが少しだけ慰めで、少しだけ怖い。

それでも、この職場にしがみついているのは、たぶん、御園生さんがいるからだ。同期には言えない。友達にも言えない。自分にすらうまく説明できない。恋、なんていう言葉を当ててしまうと、何かが崩れる気がする。ただ、赤字の順番を覚える速度だけが、他の人より少し早い自分を、ずっと持て余している。

時計が二十三時四十八分を指したとき、私は最後の一項目に辿り着いた。指が震えるほどではない。ただ、肩甲骨の間に岩が挟まっているみたいに重い。

「……終わりました」

声がかすれた。御園生さんはこちらを見ないまま、マウスを数回クリックして、ファイルを開いたのだろう。画面をスクロールする音が聞こえる。沈黙は長かった。スクロールの間隔が、二十七箇所を一つずつ確かめているのが分かった。途中で一度だけ手が止まり、私の心臓もそこで一拍、置いていかれる。

「通った」

それだけ。

「あ、……ありがとうございます」

「礼を言うところじゃない」

御園生さんはようやく顔を上げて、初めて私の目を見た。眼鏡の奥の目は、想像以上に疲れていた。レンズの縁に、私の白いブラウスがほんの一瞬だけ映って、すぐに消えた。

「次は、差し戻さないように組み立てろ」

「はい」

「帰れ。タクシー拾っていけ」

「終電、もう——」

言いかけて、スマホを見る。二十三時五十一分。乗り換え駅まで全力で走っても、最後の一本には間に合わない。私は小さく首を振った。

「大丈夫です。ネットカフェで始発待ちます」

御園生さんは一瞬、口を開きかけて、やめた。何か言おうとして、飲み込んだ。そんな顔だった。喉仏が一度だけ上下して、視線がふっと自分のキーボードへ落ちる。私はその沈黙の意味を、いつものように読み取れないまま、頭を下げる角度だけを丁寧に作った。

鞄を肩にかけて、フロアを出る。エレベーターの中で、ようやくおにぎりのラップを剥いた。梅の匂いが狭い箱に広がって、なんだか泣きたくなる。泣かないけれど。泣いたら、この一日を認めてしまう気がする。

ビルを出た瞬間、夜風が首筋を撫でた。十月の夜は、もう手袋が欲しい冷たさだ。駅前のコンビニの前で、私はスマホを構えた。半分だけ齧った梅のおにぎりを一枚、撮る。

『今日のごほうび』

たった六文字を添えて、SNSに投稿する。いいねは、明日の朝にはいくつか付いているはずだ。同じように終電を逃した誰かが、寝る前にぼんやりタップしてくれる。顔も名前も知らないその誰かのために、私は今日も写真を上げている気がする。

スマホが振動したのは、その直後だった。不動産会社からの着信。こんな時間に、と首を傾げながら、私は画面を滑らせた。

「佐倉さまですか。夜分遅くに申し訳ありません——お部屋の件で、至急ご連絡を」

声色が、明らかに何かを言いづらそうにしていた。電話口の向こうで、紙をめくる音と、誰かの足音が遠く重なる。深夜に動いている人間が、私の他にもいる。その当たり前の事実が、なぜか今夜はやけに胸に刺さった。

「上の階から、水漏れが発生しておりまして。天井とフローリングに広範囲の損傷が確認できまして、本日、お部屋にお戻りになるのは、その、難しい状況でして」

梅の匂いが、まだ指先に残っていた。明日もまた、同じ朝が来るはずだった。ただそれだけのはずだったのに。

ビルを振り返ると、二十三階の窓にだけ、まだ明かりが灯っていた。御園生さんの席。帰れと言いながら、自分は絶対に帰らない人。

私はもう一度、受話器を耳に押し付けた。

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