第3話
第3話
東京駅の八番線ホームで、識合符の熱が一段上がった。
俺は文庫本を鞄のサイドポケットに収めた指先を、そのまま制服の胸の内側へ滑らせる。紙一枚。朝よりも明確に、それは俺の肋骨の内側でぬるんでいた。人間の体温より半度低く、しかし朝のホームの空気より二度高い。西へ向かう新幹線が減速しながら入線してくるその風圧に、符の温度がまた僅かに揺れた。
「白石ー、こっちこっち」
ホームの端で手を振っていたのは三班の班長、桐生だった。俺は眼鏡の奥で「ああ、うん」と一拍遅れの返事をして、足をそちらへ向ける。五月の朝陽が、コンクリートの継ぎ目に落ちた誰かのレシートを一枚、黄色く変色させていた。
班は六人。男子三人、女子三人。桐生、赤羽、高部、そして——、
「白石くん」
茶席の所作で、声が重ねられた。鳳条姫花は、列の一番後ろで腰まである髪を一度だけ肩の後ろへ払い、小さく頷く仕草で挨拶を返した。視線は、俺の顔を一度、胸ポケットを一度、鞄の口を一度。順番に、瞼の動きだけで辿っていく。俺は眼鏡のレンズで視界を半歩濁らせたまま、彼女の瞳の底を覗き込まないように、視線を二センチだけ下げた。
車両に乗り込む列が動き始める。
俺の席は四号車、通路側の8Dだった。指定席のシール番号を確認してから、頭上の棚に鞄を上げる。その瞬間、通路を挟んだ8Cの席に、絹の擦れる音が腰を下ろした。
——ここで偶然があるか。
姫花は、俺の真横だった。
「窓側、譲ろうか」
桐生が自分の席から声を掛けたが、姫花は「いいえ、通路側で」と茶席の浅い笑みで応じた。窓外の景色は、この五月の午前の光では眩しすぎる——とでも言いたげな所作で、彼女は鞄を膝に乗せ、背筋を座席の背もたれより一センチ前に保った。
新幹線が動き出した。
品川を過ぎ、新横浜の白い屋根が朝陽を返し始めた頃、通路を挟んだ右側で、姫花が文庫本を開いた。同じだ、と俺は気づく。カバーこそ違うが、版形と背の厚みが俺の鞄のサイドポケットの文庫本と同じ出版社のものだった。彼女はページをめくる指を、一度だけ止めた。
「白石くんは、何の本?」
通路の空気が、半畳ぶん動いた。
俺は「歴史もの」とだけ答えた。普通の陰キャの、普通の返事として。
「歴史の、何?」
追撃が、茶席の浅い息で来る。
「——戦国」
「どの国? 関東、それとも関西?」
俺は、眼鏡のレンズで世界の輪郭を二歩ぶん遠ざけてから、「東北です」と答えた。嘘ではない。だが本当でもない。鞄のサイドポケットの文庫本は、陸奥の山に関する古い記録集で、祖父の書庫から持ち出したものだった。父が最後に入って戻ってこなかった山の名前が、その本の三章に出てくる。
姫花は、それ以上追わなかった。ただ、視線の先を自分の文庫本に戻す所作が、ほんの半拍だけ遅れた。
新横浜を出て、富士が左側の窓外に薄く姿を見せ始める頃、彼女は二度目の矢を放った。
「白石くんのお家、ご家族は——何人?」
——来た。
俺は「父は……いないです」とだけ答えた。これも、嘘ではなかった。
「そう」
彼女の返事は、ただ一文字だった。
茶室で茶を点てる時の、湯と湯気の間に落ちる沈黙のような、短い一文字。俺はその沈黙の底に、一瞬、同業者の気配を確かに感じた。識合符が、胸ポケットの内側で、今度は人間の呼吸とは別のリズムで、微かに脈打った。
小田原を過ぎた辺りで、姫花は三度目の話題を振ってきた。今度は、京都のしおりを膝に広げて、観光地の名前を指でなぞりながら。
「清水寺、楽しみね」
俺の背骨が、鉛筆半本ぶん硬くなった。
「——音羽の滝、並ぶのかな」
「多分、並ぶと思います」
「清水の舞台、私、一度だけ小さい頃に行ったことがあるの。夜だったのよ。父の仕事で」
俺は、ページをめくる指を止めた。
「——夜」
「ええ。昼間は人が多すぎて、父が苦手だったから」
姫花は、しおりの「清水寺」の四文字の上を、爪の先で一度だけ撫でた。その爪の先に、この一週間、俺の胸ポケットで止まった視線と同じ、絞られた光が宿っていた。
俺は眼鏡の蔓を、人差し指で一度だけ押し上げる。そうすることで、レンズの歪みの位置を僅かにずらし、視界の中で姫花の表情の輪郭を、一歩ぶんだけ近づけた。
彼女は、笑っていた。
茶席の笑みではない。もっと古い、もっと奥にしまわれていた、同業の者にだけ分かる笑みだった。
——この女、気付いている。
いや、気付いている、どころではない。確信している。少なくとも、白石の家のことを、俺が何者であるかを、胸ポケットに何が入っているかを。
俺は、何も言わなかった。言えば、擬態が崩れる。黙れば、姫花の読みに余白を残すだけだ。どちらに転んでも俺は一段階ずつ不利になる。だから俺は、ただ文庫本のページをもう一枚めくり、眼鏡の奥の視線を、彼女の瞳の底から、三センチだけ下の——車内のテーブルの縁——に移した。
新幹線は、名古屋を過ぎた。
車内販売のワゴンが通路を押されていき、姫花はコーヒーを、俺は何も頼まなかった。彼女が紙コップを両手で包み、湯気の向こうで瞼を伏せた時、俺は初めて、彼女の睫毛が震えているのを見た。茶室で客を迎え続けた睫毛が、名古屋と米原の間の、一駅ぶんの沈黙の中で、微かに、しかし確かに、震えていた。
京都駅のホームに新幹線が滑り込んだのは、昼の十二時過ぎだった。
扉が開く。
その瞬間、胸ポケットの識合符が、朝から三段目の熱を一息に立ち上げた。紙一枚の温度が、急に、人肌と並んだ。
それだけではなかった。
ホームに降り立った足の裏から、コンクリートの冷たさとは別の、もっと細い、もっと古い、石畳のような冷気が、靴底の縫い目を抜けて踵の皮膚に届いた。空気の粘度が、東京の朝と、桁違いに違う。湿度でも気温でもない、この街にだけ澱んでいる、千年ぶんの記憶の重みだった。
鼻の奥に、鉄錆の味が立った。
それは、昨夜墨田の堤で祓った煤の塊の、十倍か二十倍か、あるいは桁違いに古い、別種の鉄錆だった。祖父の書庫で一度だけ嗅いだ、慶長期の封印札の裏に滲んでいた匂いに、酷似している。
俺は、半歩、足を止めた。
前を歩く桐生が、「早く早く」と手を振る。後ろから赤羽が俺の肩を押す振りをする。俺はそれに応じるように一歩足を出しつつ、視線だけを——眼鏡の下の、本来の視力で——京都駅十五番線の天井の梁へと走らせた。梁の陰に、細い、ごく細い、糸のような影が、一本だけ揺れていた。
——いる。
一本だけではない。
二本目、三本目。柱の影、看板の裏、エスカレーターの手すりの継ぎ目。京都駅という空間の、人間が気付かない継ぎ目継ぎ目に、糸のような影が、一本ずつ、留め縫いの糸のように、伏せられていた。
それらが、千年のものの、手の先だった。
俺は、口の中で、ほとんど声にならない声で呟いた。
「——何か、いる」
呟いた俺自身に、呟いたのか独り言かの区別もつかない小ささだった。ホームの雑踏、遠くのアナウンス、同級生たちの笑い声、修学旅行生を誘導する教員の声——それらに掻き消されて、俺の声は、自分の胸ポケットにしか届かないはずだった。
はずだった。
通路の三歩前、俺より半歩先を歩いていた姫花が、振り返った。
ホームの光を背に、腰まである黒髪が、新幹線の起こした余風に一度だけ、大きく揺れた。その髪の流れの向こうで、彼女の黒い瞳が、今朝のホームで見た時の二倍の絞りで、俺を射抜いていた。
もう、茶席の笑みはなかった。
「——白石くん」
彼女の声は、車内で三度も矢を放った時の、浅い、柔らかい抑揚とは、まったく別の層から出てきていた。喉の奥で、芯の固い一筋の糸を、真っ直ぐ引き抜くような声だった。
「今、何て言ったの」
答える時間は、三秒もなかった。
桐生と赤羽と高部が、前方の改札で手を振っている。教員の笛が、遠く、集合を促している。ホームの雑踏は、俺たち二人のいる半径一メートルだけを置き去りにして、流れ続けている。
俺は、口を動かそうとして、動かさなかった。
代わりに、胸ポケットの内側の識合符を、人差し指の腹で、一度だけ、押した。
押した、その瞬間。
姫花が、制服の袖の内側で、何か——小さな、紙一枚ぶんの温度——を、同じく一度だけ、押し返すのが、俺の指の神経に伝わった。
紙一枚ぶん、距離にして二メートル。
俺の符と、彼女の何かが、京都駅十五番線のホームの空気の中で、はっきりと呼応した。
姫花の唇が、ほんの僅かに動いた。声にはならなかった。だが、唇の形は、確かにこう言っていた。
——やっと、喋ってくれたのね。
俺の足の裏で、京都の石畳の冷気が、もう一段、温度を下げた。