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昼は陰キャ、夜は最強退魔師

第2話 第2話

第2話

第2話

家の玄関の錆びた南京錠を解く音は、俺にとって祓いの鈴の音に近い。

校門を出て駅まで徒歩二十分、電車を二本乗り継いで二十五分、そこから石段を七十三段——祖父の代に建て直した白石家の離れは、都心からわずか外れた斜面の中腹にある。門扉に刻まれた家紋は擦れて半分読めなくなり、その下の郵便受けには、もう誰も読まない月刊誌のダイレクトメールが三日ぶん突き刺さっていた。

鍵穴に鍵を差し込んだところで、俺は振り返らない動作のまま、背後の石段を視界の端で確認する。尾行はない。夕暮れの気配に紛れた式神の残滓もない。蝋梅の木の影から伸びる葉の角度も、今朝出た時のまま三度ずれていない。

——問題ない。

扉を開け、三和土に靴を脱ぐ。奥の座敷から、壁掛けの古い黒電話がじりりと鳴り始めた。着信音ではない、本当の呼び出しベルだ。受話器の上で銅の金具が振動する音を、俺は正確に三回数えてから出る。四回目を鳴らすと、本家の老女は「急かしおった」と機嫌を損ねる。

「——はい、白石でございます」

「澪か」

受話器の向こうで、数珠の玉が一つ鳴った。

「京都は、気を抜くな」

俺はいつもの「はい」を言う前に、ほんの半拍だけ黙った。黒電話のコードが、壁紙の古い染みの上で緩くカーブを描いている。そのカーブの先で、老女の声は続いた。

「千年のものが、ひとつ、寝返りを打ちかけとる」

数珠の玉が、また一つ鳴った。その音は、電話線の遠さを一瞬だけ忘れさせるほどに近かった。耳の奥で、古い寺の鈴のような残響が、ひと呼吸ぶん尾を引く。

受話器を握る指の腹に、教室で残った呪符の紙粉がわずかに触れた。

「——場所は」

「清水の舞台の下。慶長の頃に一度封じたが、縁起物の外気入れで封が緩んだ。先月の三日、奈良の本家筋から文が届いた」

老女は息継ぎをしない。白石家の電話はいつも、情報を氷の塊のようにそのまま落としてくる。こちらが受け止めるか、足の甲で砕かれるか、それだけだ。

「お前の叔父が京の伏見に詰めている。呼べば来るが、学徒の身には目立たせぬほうが良かろう」

「分かっています」

「それより、今夜」

受話器の向こうで、畳を擦る衣の音がした。

「墨田の堤の下に、小さいのが一匹。通学路の子供に憑きかけておる。祓っておけ。京都までの足慣らしじゃ」

「はい」

「——澪」

三度目の「はい」を言わないように、俺は息を止めた。喉の奥が、乾いた砂を噛んだように固まる。老女が名前だけを呼ぶ時は、必ず後ろに一本の刃が隠れている。

「眼鏡は、外して行け」

通話は切れた。

時計は二十二時四十分を指していた。俺は制服のまま、床の間の奥に敷いた古い桐箱を開ける。中には祖父の墨で刷った呪符が百二十枚、銀線を撚った式神の芯が三本、そして竹の鞘に収めた小柄の小札が一振り。それぞれに指の腹を一度だけ当て、呼吸を合わせる。呪符は墨の匂いを、銀線は油の匂いを、竹鞘は削ったばかりの青い匂いを、指にうっすらと移した。三つの匂いは、混ざりそうで混ざらず、俺の指先で別々の層を保っている。祖父は「匂いを混ぜるな、混ざった符は効かぬ」と、幼い俺の手首を掴んで言ったものだった。

家を出るとき、玄関の鏡で眼鏡を外した。

度の合わない分厚いレンズが外れると、世界の輪郭が半歩ぶん近づいてくる。街灯の光輪が縮み、遠くの看板の文字まで読める。鏡の中の俺は、昼の「眼鏡の白石」より目つきが二歩ぶん鋭い。この顔をクラスで晒したら、もう三日と擬態は持たない。

墨田の堤に着いたのは、二十三時半を過ぎた頃だった。

河川敷の遊歩道を、犬を連れた中年男が一人、足早に通り過ぎていった。犬の毛が逆立っていたのを、俺は見る。人間の方は、何も感じていない。けれど犬の鼻は、堤の下の橋桁の影にわだかまる気配を、確かに掴んでいた。

小物だ。背丈は子供ほど、輪郭は滲んで、煤の塊が両腕を垂らして座り込んでいるように見える。誰かの古い怨みか、溺れかけた子供の記憶の残りか——俺は分類しない。分類するのは京都で数十年仕事をしている叔父の役目だ。俺の役目は、ただ、祓うこと。

呪符を一枚、指の腹で挟む。紙の縁が、夜風に含まれた水気をほんの少しだけ吸って、しっとりと重くなっている。

「南無——」

祖父に仕込まれた最も短い一節を口の内で繋げ、呪符の一隅に爪で印を切る。墨が、夜気の中で一瞬、青白く浮いた。

「——急々如律令」

呪符を投げる。煤の塊は、抵抗する間もなく、薄い膜のように夜の橋桁から剥がれ落ち、川面に触れる前に消えた。水面に一輪、小さな波紋が立って、すぐに消える。犬の遠吠えが、二軒向こうから一度だけ返った。

所要、二十二秒。足慣らしとして、きっちり祖父の基準を満たす速度だった。

帰り道、俺は普段と違う道を選んだ。

いつもの橋を渡らず、一本下流の歩道橋を使った。京都前の最後の夜に、自分の動線を一箇所だけずらす——それも祖父の教えだった。「同じ水は二度渡るな」と、祖父は言った。意味は教えてくれなかった。

家に戻った時、玄関の柱時計は午前一時を回っていた。

俺は制服を脱ぎ、冷たい水で手を三度洗う。一度目で墨、二度目で銀、三度目で竹の匂いを落とす。祓いのあとの手を、そのまま家の中に持ち込まない。それは母が生きていた頃の、家事としての作法だった。蛇口から落ちる水は、指の節を通るたびに一つずつ温度を下げていくようで、最後の一度を終えた時、俺の指先は冬の朝の畳よりも冷たくなっていた。

学生鞄を、畳の上に開いて置く。

修学旅行のしおりを端にずらし、真ん中に折り畳んだ呪符の束を置く。十枚ずつを和紙で挟み、五束。計五十枚。清水、伏見、嵐山、祇園——立ち寄る予定の場所を、俺は頭の中の地図に沿って一度なぞる。各所に三枚ずつ、宿坊に十枚、予備二十一枚。叔父に連絡を取る緊急の分を、胸ポケット用に一枚。

その一枚を指の腹で摘み上げたとき——。

鳳条姫花の横顔が、瞼の裏をよぎった。

夕陽の中で、睫毛が一本ずつ光を捕まえていた、あの角度。黒い瞳の底の、井戸のような深さ。「楽しみね——修学旅行」と言った時の、茶室仕込みの口角の上がり方。俺の胸ポケットの膨らみで、一瞬だけ止まった、彼女の視線の絞り方。その視線が止まった瞬間、教室の空気の密度だけが、半畳ぶん違っていた気がする。今になって、その違和感が背骨の付け根にじわりと沁みてくる。

——なぜ、今、彼女が。

俺は呪符を一枚、鞄の内ポケットに滑り込ませる手を止めた。指先で摘んだまま、呪符の重さが急に二倍になったように感じる。

祓いを終えた直後の夜に、人間の顔が浮かぶのは普通のことではない。祖父は「祓いの後の半刻は、心の水面に小石を落とすな」と言っていた。何故か、と尋ねた時、祖父は「その小石が、一番深く沈むからじゃ」と答えた。意味は、当時は分からなかった。

今、分かりかけている。

鳳条姫花。

学年一位。茶道部部長。鳳条——その苗字。本家の老女が一度、電話口で口にしたような、しなかったような、家名。耳の底に、どこかで掠れた羽音のようにそれは引っかかっている。思い出そうとすると、逆に遠ざかる。夢の終わりに見た顔の輪郭のように、輪郭だけが残って名前が逃げていく。

俺はもう一枚、呪符を取り出した。

今度は、胸ポケット用でも宿坊用でもない、もう一枚。念のための、念のための、もう一枚。それを畳に置き、指先で折り目を付け直す。二つ折りにして、十字に折り返して、さらに一度、斜めに。祖父に教わった、識合符——同業の気配を互いに感知する符だ。これを懐に入れておくと、一定の距離まで近づいた「同じ水を飲む者」の存在を、心拍の上に薄く感じ取れる。指先で折り目を整えるたび、紙の繊維が小さく軋む音がして、その軋みが、胸の奥で鳴る自分の鼓動と、不揃いに重なった。

しまいながら、俺は自分を笑いそうになった。

——気のせいに、備えて。

念のために、念のために。

鞄のチャックを半分閉めた時、廊下の奥の、閉め切ったはずの硝子戸が、一度だけ、かたんと音を立てた。風ではない、と俺の指が分かる。家の結界が、軽く、震えただけだ。何かが、遠くで、動いた余韻。千年のものが、寝返りを打ちかけている余韻。

俺は鞄を枕元に置いて、灯りを落とした。

眠れるとは思っていなかった。案の定、天井の木目の節を三つ数え終わる頃には、明け方の電車の音が、斜面の下を走り始めた。

朝が来た。

制服の胸ポケットに、識合符を一枚、折り畳んで滑らせる。内ポケットに呪符の束。学生鞄の底には、竹鞘の小札。玄関の鏡で、いつもの度の合わない眼鏡をかけ直す。世界の輪郭が、また半歩ぶん遠ざかる。鏡の中の俺は、昨夜より一歩ぶんだけ、眠たそうな顔をしていた。

——鳳条、姫花。

名前を、口の中で一度だけ転がす。舌の上で、紙粉の味とも墨の味とも違う、少しだけ甘い音がした。

石段を下り、駅へ向かう。始発一本目の電車に乗り換える直前、ホームの端で、指先がかすかに震えた。識合符が、胸ポケットの奥で、わずかに温度を上げている。紙一枚ぶんの熱。人の肌より低く、しかし確かに、周りの朝の空気とは違う温みだった。

方角は——西。京都、の方角だった。

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