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陰キャ転校生は竹刀を握る

第3話 第3話

第3話

第3話

指先の震えが、一晩経っても抜けなかった。

朝、箸を持つときに、親指の第一関節が、ほんの一拍、遅れる。卵焼きの端を掴み損ねて、一度、箸が空を切った。母が「新しい学校、疲れた?」と聞いてきたので、俺は「うん」とだけ答えた。疲れた、の中身が、母の想定しているものと、たぶん違う。

昼休み、俺は南校舎を迂回した。北側の階段を二階まで上がり、渡り廊下の手前でわざと立ち止まって、窓の外の雲を数えた。雲は七つあった。数え終わったら、また下りて、教室に戻った。木刀の音が届かない距離を、俺は正確に知っていた。

放課後のチャイムが鳴る前、隣の席の男子が、こちらを見ずに言った。

「靴箱、見とけよ」 「……なんで」 「いや、知らない。三年の人が、何か挟んでるの、見かけたから」

男子はそれだけ言って、英語の教科書をバッグに詰めた。興味のなさそうな横顔だった。興味のなさそうな横顔で、俺のために情報を一つ渡したことになる。どう受け取っていいか分からないまま、俺は「サンキュ」と小さく言った。男子は軽く手を上げて、先に教室を出た。

下駄箱の、俺の靴の上に、茶封筒が一枚、斜めに置かれていた。宛名はない。裏返すと、ボールペンで一行だけ書いてある。

『放課後、道場に。お願いします。藤堂』

「お願いします」の五文字が、他の文字より、少しだけ、濃い。書きながら、ボールペンの先を、強く押しつけた跡だった。

坂を降りるか、道場に行くか、下駄箱の前で、俺は三十秒だけ立ち止まった。桜は、昨日より花びらが少ない。下駄箱のスチールの扉に、夕陽が斜めに反射して、俺の制服の影だけが、床のタイルに長く伸びていた。影の長さを、俺は指三本分、確認した。確認して、結局、影の向きと反対に、歩き出した。

道場の引き戸は、半分だけ開いていた。

昼間の白い光ではなく、西の窓から、蜂蜜色に近い夕陽が、板張りの奥まで届いている。床の黒ずみの上を、光の帯が一本、斜めに横切っていて、その帯の上に、三人分の影があった。

一番奥に、藤堂先輩が正座していた。稽古着ではなく、制服のスラックスと、白いワイシャツの袖をまくった格好だった。膝の前に、何も置いていない。両手を、太ももの上で、軽く握っている。その握り方が、竹刀を握っていない時間の長い人の、握り方ではなかった。

その左隣に、鳴海先輩が、胡座で座っている。こちらは稽古着の袴姿のまま。面を外した髪が、耳の上で汗にまとまっていて、腕を組んでいる。腕の組み方で、もう機嫌の悪さが、はっきり見えた。

そして、もう一人。

藤堂先輩の右、少し離れた場所に、小柄な男子が、正座していた。一年生の体格だった。白い稽古着の袖が、手首まで届ききっていなくて、骨の細い手首が、袖口から二センチほど覗いている。顔を上げたときの目が、子犬が初対面の人間を見上げるときの目と、同じ角度だった。

「来てくれたんだ」

藤堂先輩が、顔を上げずに言った。声が、昨日より、一段、静かだった。

「……封筒、読みました」 「そこ、座って」

俺は、靴下のまま、板張りに足を下ろした。昨日と同じ冷たさが、かかとから脛まで上がってくる。正座の足の組み方を、身体が、また勝手に決めた。膝と膝の間、握りこぶし一つ分。背中、まっすぐ。顎、引く。——これも、台本にない動きだった。

「紹介。一年の守谷。四月からの新入部員」 「……は、初めまして、守谷です」

小柄な男子が、頭を、垂直に下げた。下げ方が、深い。深すぎて、額が板張りに触れそうだった。慌てて顔を上げたとき、前髪の生え際に、まだ汗が乾き切っていない。稽古をしていたのだ、三人とも。俺が坂で雲を数えている間に。

「如月くん」

藤堂先輩が、そこで、手をついた。

両手を、板張りに。

「夏の県大会、団体戦に、あと一人、足りない。頼む」

頭が、下がった。

先輩の頭頂部が、俺の目線のすぐ下に来た。汗で湿った黒髪の、つむじの渦が見えた。渦が、ほんの少しだけ、右に巻いていた。それが、俺の心臓の、一番嫌な場所を、軽く押した。

「主将!」

鳴海先輩が、組んでいた腕を解いた。

「やめてくださいよ、昨日今日の転校生に、頭下げるの」 「鳴海」 「こいつ、素性も知らないんですよ。ブランクあるって自分で言ってたじゃないですか。県大会の舞台、そんな軽い気持ちで立たれたら——」 「鳴海」

二度目の、藤堂先輩の呼び方は、さっきより、硬かった。鳴海先輩が、唇を嚙んだ。嚙んだまま、俺の方を、睨んだ。睨みながら、目の奥が、少しだけ、揺れているのが、見えた。怒りではない揺れ方だった。何か、別の、先輩自身の中にある痛みが、俺を通して漏れている、そういう揺れ方だった。

「お願いします」

藤堂先輩の声が、床の一点に、落ちた。

「一年の守谷、一人じゃ、団体戦、組めない。先鋒、中堅、大将。最低、三人。俺と鳴海で二人、残り一人」 「……二人、足りないんじゃ」 「ひとり目は、去年の秋、辞めた。二人目の穴を、埋めたい」

先輩は、まだ顔を上げない。つむじの渦を、俺はずっと、見ている。そのつむじに、夕陽の帯が、薄く、橙色の膜を張っていた。

断る言葉を、俺は持っていた。「無理です」でも「考えさせてください」でも、どちらでも、三秒以内に口から出せた。二年半の間、俺は、そういう言葉の出し方だけは、磨いてきた。磨いてきた、はずだった。

喉のどこかで、その言葉が、引っかかった。

袖口が、引かれた。

守谷だった。小柄な一年生が、いつの間にか、俺の左隣まで、膝でにじり寄っていた。稽古着の袖の端で、俺の制服の袖を、親指と人差し指で、つまんでいた。つまむ、というより、掴まる、という握り方だった。

「先輩、お願いします」

声が、少し、濡れていた。

「先輩のこと、昨日、見てました。引き戸の、磨りガラス越しに。小手、あれ、俺、何回見ても、見えないくらい、速かった」

守谷の指先が、俺の袖の布を、さらに強く、握った。袖口のボタンの裏側が、一年生の骨っぽい指の関節に、押し返されて、ほんの少し、軋んだ。

「俺、先輩たちが辞めたら、一人になります。一人だと、団体戦、組めないから、廃部、決まります。藤堂先輩の引退が、それで終わります。……それは、俺、嫌です」

守谷の目が、俺の目を、まっすぐ見上げていた。子犬の目ではなかった。もう、子犬の目ではなかった。

俺は、声を出せなかった。喉の真ん中が、塞がっていた。

藤堂先輩が、顔を、ゆっくり上げた。上げた顔の、目の下に、薄い隈があった。昨日の蛍光灯の下では、見えなかった隈だった。

「如月くん。一つだけ、聞きたい」

先輩の声は、お願いの声ではなくなっていた。

「俺が頭下げたから、やる、っていうのは、やめてほしい。それだと、夏が終わった後、君が、自分を恨む」

質問の向きが、逆だった。 俺が答える質問ではなかった。先輩は、俺の、昨日からの指の震えの方を、先に、見ていた。

「先輩」

俺は、唇が震えるのを、こらえた。

「先輩は、勝ちたいんですか」

言った瞬間、俺は、自分の声に驚いた。見学だけ、と言っていた俺の声ではなかった。二年半、口にしなかった種類の声だった。腹の底の、小さな石を、久しぶりに、抱え直した声だった。

藤堂先輩は、二拍、置いた。

「勝ちたい」

即答だった。 付け足しも、飾りもなかった。勝ちたい、の四文字の後に、何も続けなかった。

鳴海先輩が、ふっ、と短く息を吐いた。組んでいた腕が、自分の膝に落ちた。守谷が、俺の袖を、まだ掴んでいた。

三人の「勝ちたい」が、形は違うのに、同じ方向を向いていた。 同じ方向を向いている、ということを、俺は、生まれて初めて、自分の外側で、目撃していた。

——俺は、三回の転校の間、一度も、自分で何かを選んだことが、なかった。父が選んだ場所に、母が詰めた荷物を持って、母が詰めた弁当を食べて、父が決めた三年を、過ごそうとしていた。今日の昼も、俺は坂を降りるか、道場に行くか、迷ったつもりで、本当は、靴箱に夕陽が差した時点で、決めていた気がする。決めていた、のかもしれない。だけど、それは、俺が決めたのではなく、俺の指先が、昨日、覚えていたから、決まっていた。

今、この瞬間に、選ぶなら。 初めて、俺の意志で、選ぶのなら。

「……やります」

口が、勝手に開いた。勝手に開いたのに、今度は、俺の意志だと、分かった。

「県大会まで、やらせてください」

守谷が、袖を、離した。離した指先が、宙で、少しだけ、震えていた。

藤堂先輩が、ゆっくり、両手を、板張りから上げた。

指の跡が、板の上に、汗で残っていた。五本指分の、薄い染み。その染みが、夕陽の帯の中で、ほんの数秒だけ、濃く見えて、すぐに乾いて、消えていった。

「……ありがとう」

先輩の「ありがとう」は、笑っていなかった。笑わずに、頷くだけの、ありがとう、だった。

鳴海先輩は、立ち上がっていた。何も言わずに、竹刀立ての前に行って、自分の竹刀を、一本、握った。握って、素振りを、一回した。素振りの風が、俺の頬を、薄く撫でた。認めた、という合図ではない。認めていない、という意思表示でもない。ただ、稽古が、再開した、という音だった。その音が、俺の袖口の、守谷の指の震えを、かき消すには、ちょうど良い大きさだった。

明日からは、教室で、俺は、たぶん、また少し、浮く。

三度目の転校で、陰キャの台本は、今日、自分の手で、破った。

破った、ということの意味を、俺はまだ、半分も分かっていない。

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