第3話
第3話
五月の連休が明けた朝、上履きの右踵の痛みは、僕の中からすっかり消えていた。皮膚が硬くなったのか、ゴムのほうが靴下の形に合わせて曲がったのか、もう区別はつかない。ただ、昇降口で上履きに足を入れるとき、何の抵抗もなく踵が収まることだけは、確かに分かった。慣れる、というのは、こういう静かな抜け方をするものらしい。
手帳は、ポケットから鞄の内ポケットに移していた。革の表紙の端が、指でこすれるせいで少しだけ白っぽくなっている。表紙を開くと、ページは、十二行まで埋まっていた。
一行目、窓際の、鳥の子——いまだに名前は、書かない。二行目、西崎。
そのあと、三行目から十二行目までの十行は、この一ヶ月で書いた。書くたびに、僕の筆圧は少しずつ弱くなっていた。強く押しつけなくても、シャーペンの芯は、ちゃんと紙に跡を残してくれる。そういうことだ、と思った。
三行目は、連休前の英語の授業で書いた。教師の発音に、教室の誰もが律儀に「近い音」を返していた。ただ一人、後ろから二列目の男子が、母音の伸ばし方をほんの半拍だけ遅らせていた。舌の先の位置が、教師より精確だった。英語の音を、英語の音のまま保っていた。誰にも気づかれなかった。手帳には、「英語、後方の男子、t音の歯列」と書いた。
四行目は数学。答え合わせのとき、黒板の前に呼ばれるのはいつも同じ三人の誰かだった。けれど、僕の斜め後ろの女子は、教師が途中式を書いているあいだ、ノートに別解を書いていた。二つ、三つ。そのどれも、最後まで書き切らないうちに、消しゴムで静かに消していた。消したあとの紙は、少しだけ毛羽立って、午後の光に白く浮いていた。
五行目は体育。跳び箱の着地で、誰よりも早く足を揃える男子がいた。跳んだ瞬間の音ではなく、着地の音が——しなかった。体育館の板張りを一度だけ鈍く鳴らして、それきり、音は消えた。拍手は起きなかった。教師も、次の生徒の名前を呼ぶだけだった。六行目は古典のルビ。板書のふりがなが、ほんの一字だけ古い読みになっていることに、僕の斜め前の女子だけが気づいていた。彼女はノートの端に、正しい読みを鉛筆で小さく書き直し、そのページごと、指の腹で静かに折って隠した。折り目の縁には、消しかすが薄く残っていた。七行目は家庭科の包丁の持ち方。同じ班の男子が、左手の猫の手の第二関節を、教科書の図より一段だけ浅く曲げていた。刃が滑ったときの、逃げ道を先に確保する持ち方だった。家で、何度も繰り返してきた角度だった。誰も、それを褒めなかった。八行目は昼の放送室——放送委員ではないはずの誰かが、スピーカーの「雑音」を、毎日十秒だけ短くしていた。気づいた瞬間、僕はスプーンを止めた。給食のコッペパンの、ちぎったところの白い繊維が、皿の上でしんと震えた気がした。
九行目、十行目、十一行目。十二行目。
書き進めるうちに、気づいたことがある。
気づかれない才能は、たいてい、場を成り立たせるほうに働いている。目立たないように、誰かの前のめりを引き戻すように、誰かの音を滑らかにするように——教室という厚い床板を、下から一枚ずつ、違う指で支えている。それが、西崎の合唱のときに感じた、あの「支え方」と、同じ骨をしていた。
僕は、手帳を閉じた。閉じる前に、表紙の裏に鉛筆で、小さく「十二」と書いた。意味はない。ただ、今日まで十二行になったという、しるしだった。
連休前の金曜日、放課後。僕は自分の席で、手帳を開いていた。教室にはもう三人しか残っていなくて、そのうち二人は廊下で何かを叫びながら出ていった。残ったのは、僕と、黒板の前の席の女子——鳥を描いた、あの人だった。
彼女は、自分の机の上にスケッチブックを広げていた。鞄を椅子に置いたまま、描いていた。僕の席からは、スケッチブックの中身までは見えない。ただ、彼女の右手の動き方だけが、あの日のチョークの指と、完全に同じだった。ためらいなく、線を伸ばす。伸ばしたあと、一度だけ息を止めて、次の線の始まりを、指先で確かめる。
声をかけようか、と思った。
喉の奥の、声を出さないための小さな蓋が、いまも外れない。外そうとすると、蓋の縁に、自分の声のかたちが引っかかる。
「——絵、うまいね」
その一言が、頭の中で、何度、組み立てられて、何度、崩れたか。
彼女は、五時十分に立ち上がった。スケッチブックを閉じ、鞄に入れて、出ていった。僕に、一度も気づかなかった。気づかれなかったことに、僕は少しだけ安心した。安心した自分を、ほんの少しだけ、情けないと思った。
連休明けの月曜日、一時間目が始まる前のホームルームだった。
「はい、静かに。今日、連絡が一つある」
担任が、黒板の端を指の関節で軽く叩いた。四月の鳥の、そのすぐ横だった。掃除当番は、もう一ヶ月、日付を綺麗に避けて消し続けている。一度、誰かが「この鳥、なに?」と聞いたらしいが、描いた本人が笑って「知らない」と答えた、という話を、僕は廊下で偶然聞いた。彼女は今朝も中央の輪にいて、スマホ画面を覗き込んで笑っていた。
「文化祭実行委員、今年もクラスから選ぶ。例年通り、出し物はステージ劇だ」
教室のざわめきの温度が、一段だけ上がった。
「まじかよ、今年も劇かよ」 「主役は——決まってんだろ、あの三人のうちだって」
中央の輪の、よく通る声の男子が、そう言って笑った。周りの女子たちも笑った。彼の隣で、さっきまでスマホを覗いていた彼女も、うん、と頷いた。まるで最初から決まっている配役みたいに、誰もが自然に、その配分を飲み込んでいた。
「で、委員は——」
担任は、言葉を切って、教卓の下から紙箱を取り出した。箱の表面には「1組」とマジックで書かれていた。字が少しだけかすれていた。去年のものだろう、と思った。箱の底が、教卓に置かれた瞬間、紙の中身が互いに擦れあう乾いた音を立てた。くじは、もう折られた状態で、中に入っている。そう分かった。誰かが去年、同じ教卓の前で、同じ紙を畳み、同じ音を立てていたのだ、と思った。
「今年も、くじ引きだ。明日のホームルームで引かせる。役職は、主演、脇役、演出、衣装、音響、宣伝、それから——」
担任は、黒板に白いチョークで、役職名を書きつけた。粉がふっと舞って、鳥の翼の端に、少しだけ落ちた。
「——何でも係、一名」
「なに、それ」 「雑用ってことじゃね」 「そんなの誰が引くんだよ」
笑い声が起きた。笑った側の顔は、たいてい、明日自分が引くかもしれない役について、あまり考えていない顔だった。
僕は、机の下で、鞄の内ポケットの手帳に指を触れた。革の角は、今朝もちゃんと、指の腹に硬く当たってくれた。
明日、くじを引く。
引いた紙が、何であっても、たぶん僕は黙って畳んで、机の角に置くのだろう。西崎がノートの隅を、そっと折るような手つきで。そうして、また手帳の名前を、一つずつ、静かに増やしていくのだろう。
そう思った自分の心臓が、いつもより少しだけ、早く鳴っていた。
「役職、明日までに各自、考えとけよ。引いたあとの立候補制じゃないから、引いたら即決な」
担任がそう言って、黒板の端を、もう一度、指の関節で叩いた。鳥の翼の、すぐ隣で。
放課後、誰もいない教室で、僕は黒板の前に立った。鳥は、まだそこにいた。翼の端に、担任のチョークの粉が、ほんのわずか、白く積もっていた。僕は黒板消しを取らなかった。払ったら、鳥の骨まで薄くなってしまう気がした。
手帳を開いた。十二行目の下、十三行目は、まだ空白のまま残っていた。開いたページは、夕方の光の中で、少しだけ青みがかって見えた。ページの角に、今日の黒板の粉が、ごく細かく、白く一粒だけ付いていた。払わなかった。
明日の僕が、その一行を自分の名前で埋めることは、ない。けれど、紙の余白に、何か別のかたちで、何かが書き足されることは、あるかもしれない。
上履きのゴムは、もう踵を擦らない。
廊下の遠くで、今日もまた、あの低い声が、一小節だけ鳴ったような気がした。