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二度目の戦国、軍師は老いた若者

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、玄蕃は懐に銀一両を忍ばせて、隣村への道を歩んでいた。

 父・源左衛門から借り受けた銀である。前夜、遅くまで囲炉裏の火を見つめていた父に膝を折り、「堆肥の種銭に」と頭を下げ、「半年の後、米の実りが例年より三割増しと成らざれば、この銀は倍にして返しまする」と約を結んだ。父はしばし黙したまま火箸で灰を掻き、やがて「三割、な」と短く呟いて、銭箱の奥から麻紐で括った銀塊を取り出し、玄蕃の掌に落とした。銀の冷たさは、夏の夜気より遥かに鋭く、掌の肉を通して、十六の指の節まで痺れさせた。

 ――戻るは、倍どころではござらぬ。

 道は白土に灼かれ、草鞋の裏から熱が這い上がる。隣村の鍛冶場まで、一里半の道のりである。汗が首筋を伝い、麻の単衣の襟を湿らせ、脇の下が粘ついた。腰の帯の後ろには、一巻きの油紙を差している。昨夜、厩の灯の下で引いた寸法図だ。内径六分五厘、全長二尺二寸、尾栓は捻じ込み式、銃身肉厚元二分五厘、先端一分八厘。前世の老いた指が百度も千度も撫でた諸元を、若い筆で、息も継がずに一気に引き写したものである。紙の端が腰骨に擦れ、軽く汗で湿り始めていた。

 道端の田では、早苗が膝丈に伸び、風に揺れて銀緑の波を立てている。畦の泥には、農夫の素足が残した跡が幾つも連なり、そのどれもが、玄蕃の今の歩幅より一回り小さい。村の百姓が田植えの人足で稼ぐ一年分が、掌の銀一両に等しい――その重みを、玄蕃は歩調の一歩ごとに噛み締めた。父が黙って灰を掻いた夜の横顔が、瞼の裏に浮かんでは消える。火箸の先が灰の中に引いた一筋の線。あれは、期待か、諦念か、或いは、倅を試す武士の眼であったか。定かならぬまま、玄蕃は足を速めた。遠くで鵯が一声鳴き、杉の梢を揺らして飛び去った。

 隣村の辻を折れ、杉の木立を抜けると、鉄を叩く音が風に乗って流れてきた。

 ――鎚の音、打ち換え四打、合間に焼き直し一打。

 耳が自然と拍子を取る。前世の陣中、幾度となく鍛冶の仕事場を検分した玄蕃の耳には、鎚音の節で、その鍛冶の腕と、今打っている鉄の温度までもが見える。軽快だが、芯が浅い。鉄を叩くというより、鉄に媚びる鎚。鋤鎌を打つには十分だが、銃身を巻くには、まだ焦がれが足りぬ――玄蕃は、そう値踏みしながら、仁左衛門の鍛冶場の戸口をくぐった。

 土間の奥で、赤銅色の胸板を剥き出しにした男が、鞴を踏んでいた。炉の中は橙から白へと移ろう炎が渦を巻き、鉄棒の先が、赤々と熟した柿の色に染まっている。男の額には汗が玉を成し、眉の先端に雫となって光っていた。

 土間には炭の粉と油煙が層を成し、踏み込んだ草鞋の裏から黒い跡が浮いた。炉の口から漏れる熱気は、夏の陽を凌いで肌を刺し、玄蕃の単衣の前身頃が、乾いたばかりの汗でまた湿り始める。壁には鉄製の鋏や鑢、鏨の類が隙間なく掛けられ、そのどれもが使い込まれて柄に油染みを作っていた。梁に吊るされた藁苞からは、打ち終えた鋤の刃先が三つ、銀灰の光を静かに放っている。鼻を突くのは、鉄滓と松炭と、水桶に沈めた焼き鉄の立てる湯気の匂い――前世、幾百の鍛冶場で嗅いだのと、寸分違わぬ匂いであった。

「おやっさん、お客じゃ」

 奥から若い娘の声が飛んだ。十三、四ばかりの、日焼けした頬に飯粒を一つ張り付けた娘である。あれが、と玄蕃は胸の内で合点した。永禄七年に流行り病で没したはずの仁左衛門の娘――今はまだ、父の仕事場で飯を運び、鞴を手伝い、兄弟のように駆け回っている。

「ほう、見ぬ顔じゃの」

 仁左衛門は鎚を下ろし、鉢巻の端で額を拭うと、炉の火越しに玄蕃を見た。眉の濃い、鼻の広い、赭ら顔の男である。年の頃は四十半ば。腕は太く、肩の筋が毬のように盛り上がっている。視線は、野良犬の毛並みを見定めるような、値踏みの眼だ。

「拙者、北村の源左衛門が倅、玄蕃と申す」

 玄蕃は戸口で頭を下げ、そのまま懐から油紙の巻物を抜き、土間の縁に広げた。仁左衛門の眉が、眼に見えて歪んだ。

「……鉄砲、か」

「如何にも」

「小僧、南蛮渡りの筒を、見たことがあるか」

「ござる」

 玄蕃は即答した。仁左衛門の鎚を持つ手が、一瞬、宙で止まった。炎の赤を浴びた老獪な眼が、十六の若造の面を刺し貫くように凝視する。

「……堺で、か」

「ある、御仁から」

 玄蕃は詳細を伏せた。伏せることもまた、技のうちである。仁左衛門の眉が、さらに深く寄った。鎚を鉄床の縁に置き、男は赤熱した鉄棒を水桶に浸した。じゅう、と白い湯気が立ち、土間に鉄と灰の匂いが満ちた。

「寸法が、おかしいの」

 油紙に描いた墨の線を、仁左衛門の節榑立った指が、一寸ごとに辿った。指の先が、銃身の肉厚を記した数字の上で止まる。

「元が二分五厘、先が一分八厘。――南蛮の筒は、確か、肉厚を元から先まで等しく造るはずじゃ」

「さよう」

「ならば、何故、先を細くする」

 仁左衛門の眼が、鋭く玄蕃に向いた。試している。知で威かせば、銀は要らず、職人の矜持で引き受けるやも知れぬ。知らずに図面を引いたと悟れば、その場で追い返すつもりであろう。玄蕃は腰を下ろし、両の掌を膝に置いた。

 胸中には、前世の陣で、先込めの筒を肩に食い込ませて一里を走った足軽たちの姿が過る。半里を越えた辺りから腕が下がり、鉄砲の先が地に擦れ、砲列の間隔が崩れていく。筒の重さは、兵の疲労を左右し、疲労は連射の速さを左右する。戦は、詰まるところ、一挺の筒の目方の差で崩れる。その一両を、玄蕃は今、この鍛冶場の土間で、銀一両と引き換えに買い戻しに来ている。

「先を細くすれば、筒の先の肉が軽うござる。担いで走る足軽の腕が、長く保つ。また、先の肉が薄ければ、銃口の内側を磨く折に、鑢の入りが早うござる」

「ふむ」

「加えて、元の肉を厚うする所以は、装薬の爆発の衝撃を、尾栓の際で受け止めんがため。尾栓が破裂すれば、撃ち手の顔が半ば吹き飛ぶ。されば、元厚は二分五厘を下回ってはならぬ。先の肉は、弾の飛翔に耐えれば足る一分八厘にて事足りる」

 仁左衛門は、一言も発さなかった。ただ、節榑の指が油紙の上で止まったまま、男の口の端だけが、ひくり、と小さく動いた。娘が鞴の脇から首を伸ばし、父の表情を窺っている。炉の炎は、既に白熱を過ぎて、橙の落ち着いた色に戻っていた。

 娘は鞴の柄に手を置いたまま、息を詰めて父と玄蕃の間を見比べている。壁の鏨の列が、揺らめく炎の光を受けて、黒い影を一斉に傾けた。梁の藁の匂い、鉄滓の匂い、水桶から立ち上る湯気の匂いが、一度に玄蕃の鼻腔に流れ込む。仁左衛門の喉仏が、一度だけ、ごくりと上下した。それは、職人が己の生涯で初めて出会った図面を前に、唾を呑み下す音であった。

「尾栓は、捻じ込みにござる」

 玄蕃は続けた。

「鉄の雄ねじを、筒の尻に切った雌ねじに捻じ込み、焼き嵌めにて締める。ねじ山は八分半の深さ、螺旋の幅は一分。これにて、装薬十匁を仕込んでも、尾栓は飛ばぬ」

「……小僧」

 仁左衛門の声が、初めて低く掠れた。

「誰に、習うた」

 玄蕃は答えなかった。答えれば、前世の、まだこの世には届かぬ和蘭の兵書の名を挙げねばならぬ。代わりに、懐から麻紐で括った銀一両を抜き、油紙の上に、ことりと置いた。

「先払いにござる。此れ一つ、一月の内に鍛えていただきたい。成れば、更に二両、後金にてお渡し申す」

「……一両の先払い、と申したか」

「如何にも」

 仁左衛門の赭ら顔が、炉の火よりも深い色に染まった。この村の相場で鋤一挺を打てば、銀にして二匁と少々。一両は、鋤五十挺に相当する。子飼いの注文が、土間に音を立てて転がっている。男は鎚を握り直し、油紙の上の銀塊を見下ろし、それから、もう一度、十六の若造の面を、今度はじっくりと眺めた。

「小僧、お主」

 仁左衛門の唇が、ゆっくりと開いた。

 男の眉間の皺が、鉄を見る時の皺に戻り、それから、束の間、人を見る時の深い皺に移った。赭ら顔の奥で、値踏みの眼は既に消え、代わりに、鍛冶としての血が、ひくりと蠢く気配があった。炉の炎が、ごう、と一瞬だけ背を伸ばし、また収まる。鎚を握る指の節が、白くなるほど力んで、そしてふっと緩んだ。

「ただの小倅では、ござらぬな」

 玄蕃は目を伏せ、口の端を、わずかに吊り上げた。

「一月にござる」

 仁左衛門はそう短く言うと、銀塊を鞴の脇の木箱に仕舞い、油紙を丁寧に畳み直した。娘が父の肩越しに玄蕃を見ている。その眼差しは、好奇とも、畏れとも、定かならぬ色を帯びていた。

「玄蕃殿」

 男は初めて、玄蕃を「殿」と呼んだ。

「一月後、出来上がりの筒を、お主の眼で検められよ。寸法に一厘の狂いも無きと、儂が保証する」

 玄蕃は深々と一礼し、鍛冶場の戸口を出た。杉の木立の上に、夏の白い雲が流れている。帰りの一里半を踏み出した玄蕃の草鞋の下で、白土が乾いた音を立てた。腰には、もう油紙も、銀も、無い。あるのは、一月後に受け取る一挺の銃身と、その銃身を握らせる若き足軽たちの影――十二の面影が、既に頭の中で、畦の間に隊列を組み始めていた。

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