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家族食堂、空席あります

第1話 第1話

第1話

第1話

受理印が押される音は、思ったより軽かった。

区役所の窓口に立っている。目の前で職員がボールペンの先を走らせ、受理印を書類の所定欄に押した。インクが紙に触れるとき、何かが止まるような気がしたのは錯覚だろう。職員は慣れた手つきで書類を揃え、こちらに差し出した。

「篠崎様、こちらが届出人控えになります。ご確認をお願いいたします」

受理日、届出人の氏名、日付。すべて間違いない。間違いなく、これで三年間の婚姻関係が終了した。僕は控えを受け取り、ありがとうございますと言った。言ってから、何に対する礼なのか分からなくなった。手続きが円滑に進んだことへの感謝なのか、ただの口癖か。それを考えている自分がどこか他人のようで、窓口のカウンターに置かれた番号札の赤い文字だけがやけに鮮明だった。

四月の区役所は混んでいた。年度初めの届出が集中する時期で、待合の長椅子には何組かが番号札を手に座っている。転入届、婚姻届、出生届。僕の隣の窓口では若い男女が順番を待っていて、女性のほうが何度もクリアファイルから書類を出しては確認していた。相手の男性は膝の上で手を組み替えている。たぶん婚姻届だろう。あの二人のあいだに漂う種類の緊張と、僕が今しまおうとしている控えの意味するものとのあいだには、何年分かの距離が横たわっている。

三年間の結婚生活の最後に妻と交わした言葉は、「印鑑、そこに置いといて」だった。妻が言ったのか、僕が言ったのか。もう定かではない。ダイニングテーブルの端に朱肉の赤い染みが残って、妻がティッシュで拭いたけれど薄く跡になった。あの染みは今も残っているのだろうか。もう確かめようがない。あの部屋はもう妻の部屋で、僕が立ち入る理由はどこにもない。

控えを鞄の内ポケットにしまった。折り目がつかないように丁寧に入れたのが、自分でも分からなかった。大事にする理由などないはずだった。

区役所を出ると、四月の風がぬるかった。正面の通りに並ぶ桜が散り始めていて、花びらがアスファルトの上を風に押されて滑っていく。踏まないように歩いて、三歩ほど進んでから、踏んでも別に構わないことに気づいた。

帰りの電車は空いていた。平日の昼過ぎ、座席はところどころ歯が抜けたように空いている。僕は窓際に座った。向かいの席に、若い父親と小さな男の子が並んでいた。

三歳か四歳くらいの子どもが、自分で座席に腰かけている。コンビニの袋から出したらしいメロンパンを両手で持ち、大きな口でかじるたびにパンくずが唇のまわりについた。父親がそのたびにナプキンを取って、男の子の口元をそっと拭く。男の子は顔をしかめて首を振るが、すぐにまたパンに戻る。父親は笑わない。笑わないけれど、ナプキンを持つその手つきに迷いがなかった。何百回と繰り返してきた仕草が、もう体に染みこんでいる。そういう手だった。

僕はそれをぼんやりと見ていた。見ているうちに、ふと気がついた。自分にはもう、ああいう隣の席がないのだと。

結婚していた三年間を振り返ろうとする。妻に対して、ああいう自然な仕草をしたことがあったか。最初の一年は、あったかもしれない。妻が風邪をひいた冬、慣れない手つきでおかゆを作って枕元に運んだ。妻は一口食べて「しょっぱい」と笑った。あの笑い方が最後に見た妻の笑顔だったかもしれないと、今になって思う。二年目の冬には、妻がリビングで咳をしていても僕は書斎のドアを閉めたままだった。妻も僕のところへは来なかった。三年目には、同じ部屋に長くいることが少なくなっていた。リビングの照明がついているかどうかで、相手が家にいるかどうかを判断する。いつの間にか、それが普通になっていた。

大きな喧嘩があったわけではない。気がつけば二人のあいだから音が消えていて、そのまま静かに終わった。

電車が駅に着くたびにドアが開いて、閉まる。その繰り返しを聞きながら、自分がどこで降りるのかをしばらく忘れていた。

最寄り駅で降りて、改札を抜ける。駅前のスーパーの脇を歩くと、自動ドアの隙間から惣菜コーナーの匂いが流れてきた。揚げ物の油と、甘い煮物のにおい。以前はここで二人分の買い物をした。妻が野菜売り場でレタスの葉をめくっているあいだ、僕はカートを押してゆっくり精肉コーナーへ向かう。急ぐ理由はなくて、ただパックに並ぶ肉を眺めている。妻が追いついてきて、カートの中を覗いて、「今日はこっちにしよう」と豚肉を鶏肉に替える。何でもない土曜の昼下がりのことだった。

今は自動ドアの前を通り過ぎるだけだ。

マンションの外階段を上がる。三階の角部屋。鍵を回して、ドアを開ける。靴を脱いで、玄関の照明をつける。蛍光灯が一瞬ちらついてから白い光が廊下に伸びた。妻がいた頃は、帰ると玄関の灯りがもうついていた。今はドアの向こうはいつも暗い。

ダイニングテーブルに鞄を置いた。二人掛けの小さなテーブル。家具屋で妻が選んだものだった。「二人にはこのくらいがちょうどいいよ」。向かい側の椅子には何もかかっていない。つい先週まで妻のグレーのカーディガンが背もたれにあったが、引っ越しの日に持っていった。木の背もたれだけが残っている。

冷蔵庫を開けた。

二人分の食材が、まだ残っていた。木綿豆腐が二丁、ほうれん草が一束、卵のパックに六個、豚の小間切れが一パック。日付はどれも先週のものだった。ほうれん草の葉先が黄色く変わり始めていて、豆腐のパックの内側に水滴がついている。

これで何を作るつもりだったのか、僕は知らない。献立はいつも妻が決めていた。最初の頃は「今夜何がいい?」と訊かれて、「何でもいい」と答えているうちに、訊かれなくなった。当然だと思う。

傷む前に捨てればいい。捨てて、自分の分だけ買い直せばいい。頭ではそう思う。でもこの食材に手をかけることが、最後の痕跡を消すことのように感じられて、僕はそのまま冷蔵庫の扉をゆっくり閉じた。モーターが低く唸る音だけが、キッチンに残った。

夕食をどうするかという問題が、そこにある。

コンビニに行けばいい。弁当を一つ買ってきて、レンジで温めて、食べる。それだけのことだ。でもテーブルの前に座ったまま、体がしばらく動かなかった。腹は空いている。朝から何も口にしていない。区役所に向かう前に缶コーヒーを一本飲んだきりだ。体は食べ物を求めているのに、食べるという行為に手が伸びない。

結局、冷蔵庫から卵を二つだけ取り出した。ガスコンロの火をつけて、フライパンを温める。油を引いて、卵を割り入れた。黄身がふちのところで崩れた。妻はいつも黄身を丸いまま焼けた。何かコツがあるのだろうが、訊いたことはなかった。

目玉焼きだけを皿に載せて、テーブルに置いた。白米もない。パンもない。箸を手に取り、ふと向かいの椅子を見る。

誰もいない。

食卓というものは、向かいに人がいることで初めて食卓になるのだと、三十二年生きてきて初めて知った。

箸をつけた。塩は振った。口に入れて、噛んで、飲み込む。味はあるはずなのに、その動作のどこにも手応えがなかった。ただ何かを体の中に入れている、というだけの時間が過ぎていく。

皿を流しに運んだ。洗わなかった。蛇口の先から水が一滴落ちて、シンクの底で小さく弾けた。その音がやけに大きく聞こえた。

ソファに座る。テレビはつけない。窓の外で少しずつ日が落ちていく。向かいのマンションの窓に灯りが一つ、また一つと点いた。あの窓の向こうには、それぞれの夕食がある。テレビの音、家族の声、箸が皿に当たる音。何かしらの音のある食卓が、あの灯りの数だけ並んでいる。

この部屋には、何もなかった。

時計の秒針だけが、暗くなっていく部屋の中を刻んでいる。

どれくらいそうしていたか分からない。気がつくと、窓の外が白み始めていた。

結局、一晩眠れなかった。シャワーも浴びずベッドに横たわり、ずっと天井を見ていた。この天井を妻と並んで見上げた夜が何度かあったはずなのに、そのとき何を話していたのか、まるで思い出せない。

カーテンの隙間から朝の光が差し込んで、枕元に畳んで置いた離婚届の控えを白く照らしている。

そのとき、玄関のほうでかすかな音がした。

郵便受けの蓋が持ち上がって、何かが滑り込む音。

重い体を起こして、廊下を歩く。郵便受けに手を入れると、白い封筒が一通あった。やや厚みがある。表には僕の名前と住所が、見覚えのある筆跡で書かれていた。

裏返す。差出人の欄。

手が止まった。

それは——三年前に亡くなった、母の名前だった。

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