第3話
第3話
翌日、渡り廊下を通ったとき、彼女はいなかった。
中庭の植え込みの前には誰もいなくて、五月の風だけが草を揺らしていた。がっかりした、とは思わない。思わないようにした。段ボールの追加分を倉庫から運ぶだけの、いつもの放課後だ。腕の擦り傷がまだひりつく。昨日の跡。それだけが、あの出来事が本当にあったことの証拠みたいに残っている。
段ボールを二枚抱えて教室に戻ると、装飾班の佐々木とすれ違った。「おー、サンキュ」といつもの軽い声。俺は頷いて、段ボールを教室の隅に重ねた。五回目の往復の途中で、廊下の窓から中庭が見えた。やっぱり誰もいない。
——別に、探しているわけじゃない。
六回目の往復を終えて、汗を拭いていたとき、背後から声をかけられた。
「ねえ、桐谷くん」
振り向くと、装飾班の女子——名前は、たしか村田——が少し遠い位置に立っていた。目線が泳いでいる。
「あの三年の人と話してたでしょ。昨日」
心臓が一拍跳ねた。見られていたのか。段ボールを拾ってもらっただけだ。話した、というほどの会話でもない。
「段ボール落として、拾ってもらっただけ」
「あの人、氷室凛だよ」
村田の声が少しだけ低くなった。名前を口にするだけで空気が変わるような、そんな言い方だった。
「演劇部の。知らない?」
「……知らない」
「やばいよ、あの人。学校で一番怖いって言われてる三年。去年の文化祭で演劇部の舞台に出てたんだけど、それ観た子がみんな震えたって。演技がっていうか、存在が」
村田は小声なのに、内容は大声で叫んでいるみたいだった。壁の向こうに聞かれるのを恐れているのか、それとも怖い話を共有する興奮なのか。
「先輩に逆らった後輩が泣かされた話とか、部活の顧問と真正面からぶつかって顧問が折れた話とか。ほんとかどうか知らないけど、近づかないほうがいいよ」
俺は何と返せばいいかわからなかった。あの人は段ボールを拾ってくれた。それだけだ。怖いかどうかなんて、判断できるほどの接点がない。でも村田は親切のつもりで教えてくれたのだろうから、「わかった」とだけ言った。村田はほっとしたように頷いて、小走りで教室を出ていった。
氷室凛。
名前を頭の中で繰り返す。あの低い声と、温度のない目と、段ボールを叩いて埃を落とす手つき。怖い。そう言われてみれば、そうかもしれない。でも俺の記憶にある彼女は、一人で中庭に立ってセリフを繰り返していただけだ。語尾の震えを何度もやり直していただけだ。その姿を「怖い」と呼ぶのは、何か違う気がした。
段ボールの運搬は、その日で終わった。明日からは模造紙の裁断やテープ貼りの作業に移るらしい。佐々木からLINEで指示が来て、俺の担当は「模造紙のサイズ合わせと仮止め」だった。一人で黙々とできる作業。相変わらず、俺にちょうどいい仕事が回ってくる。
木曜日の放課後。模造紙をカッターで切り分ける作業をしていたら、教室のドアが開いた。
空気が、変わった。
比喩じゃなくて、本当に変わったのだ。装飾班の四人の手が止まり、佐々木がカッターを持ったまま固まり、女子二人が揃って顔を伏せた。誰かが小さく息を吸い込む音が聞こえた。
ドアの前に立っていたのは、氷室凛だった。
赤いリボン。長い黒髪。姿勢のいい背中。中庭で見たときと同じだ。ただ一つ違うのは、彼女がこちらを——正確には、俺を見ていたことだった。
「段ボールの子」
凛がそう言った。教室が静まり返った。凛の視線が俺を捉えて離さない。クラスメイトの視線が俺に集まる。二重の圧力で、空気が薄くなった気がした。
「あ——」
「二年三組の装飾、ここ?」
「はい」
答えたのは佐々木だった。声が少しだけ上ずっている。凛は佐々木をちらりと見てから、すぐに俺に戻った。
「あんた、名前は」
「桐谷……悠真、です」
「桐谷。ちょっと来て」
有無を言わさない声だった。命令ではないのに、拒否という選択肢が最初から存在しないような響き。凛は身を翻して廊下に出た。俺はカッターを置いて、反射的に立ち上がっていた。後ろで佐々木が「え——」と声を漏らしたけれど、止める者はいなかった。
廊下に出ると、凛は窓際に寄りかかっていた。西日が差し込んで、長い影が廊下のリノリウムに伸びている。すれ違う生徒が、凛の姿を認めた瞬間に歩調を速める。避けている。露骨に。目を合わせないように、進路を変えて通り過ぎていく。
村田の言葉が頭をよぎった。学校で一番怖い三年。
凛はそれを気にする様子もなく、窓の外を見ていた。中庭が見える位置だ。あの植え込みが、ここから見下ろせる。
「演劇部の裏方、やってくれない」
前置きなし。世間話なし。凛は窓の外を見たまま、淡々と言った。
「え——」
「文化祭の舞台。照明とか音響とか、裏で動く人間が要るの。一人抜けて、足りてない」
俺の頭が追いつかない。なぜ俺なのか。段ボールを運んでいただけの、名前も覚えられていなかったはずの二年に、なぜ声をかけるのか。
「あの、俺は演劇部じゃ——」
「知ってる」
凛がこちらを向いた。黒い瞳が、西日の中で少しだけ透けて見えた。
「うちの裏方、一人足りないの。あんた暇でしょ」
暇。その一言が、正確すぎて何も言い返せなかった。教室で余って、段ボールを一人で運んで、放課後は図書室で本を読むだけの人間。暇だろう、と言われたら、そうだとしか答えようがない。忙しいふりをする嘘さえ、とっさに出てこなかった。
「演劇のこと何も知らないです」
「知らなくていい。言われたことをやればいい」
凛の声には、励ましも優しさもなかった。事実を述べているだけだ。足りない。だから埋める。それ以上の意味はない、という声。
断ればいい。俺には装飾班の仕事がある——と言えば、それで済む。凛だって無理強いはしないだろう。たぶん。俺が断れば、別の誰かを探すだけだ。
でも、断る言葉が出てこなかった。
いつもなら「どうせ同じだ」が先に来る。何を選んでも変わらない、という諦めが喉を塞ぐ。なのに今、喉を塞いでいるのは諦めとは別の何かだった。あの中庭で聞いた声。嘘のないセリフ。段ボールを拾い上げる手。
俺は——。
「……はい」
頷いていた。
考える前に。選ぶ前に。声が勝手に出ていた。掠れた、小さな声。でも凛はちゃんと聞こえたらしい。表情は変わらなかった。驚きも喜びもない。当然だとも思っていないだろう。ただ「そう」と言っただけだった。
「明日の放課後、第二音楽室。演劇部の部室」
それだけ言って、凛は廊下を歩いていった。西日の中に長い髪が揺れて、角を曲がって消える。すれ違った下級生が壁際に身を寄せていた。凛はそれにも気づかない——いや、気づいていて、何とも思っていないのかもしれない。
俺は廊下に一人で立っていた。
何を、引き受けたんだろう。
頭の中で自分の返事を反芻する。「はい」。たった二文字。装飾班の仕事は? 模造紙の裁断は? 佐々木に何て言えばいい? 演劇部の裏方って、何をするんだ?
わからないことだらけなのに、胸の奥で何かが鳴っていた。恐怖じゃない。期待——でもない。もっと原始的な、腹の底がざわつく感覚。高いところから下を覗き込んだときの、あの感じに似ている。
教室に戻ると、四つの目が俺に向いた。佐々木が口を開きかけて、やめた。村田が怯えた顔で俺を見ていた。
「桐谷くん、大丈夫? 何か言われた?」
「……大丈夫。ちょっと、頼まれごとしただけ」
それ以上は聞かれなかった。聞きたくないのだろう。氷室凛に関わることを、これ以上掘りたくないのだ。
俺はカッターを拾い上げて、模造紙の続きに戻った。
手が動く。紙を切る。仮止めする。でも頭の中では、凛の声がずっと繰り返していた。
——うちの裏方、一人足りないの。
足りない、と言われた。必要だとは言われていない。ただ数が合わないから、穴を埋めろと言われただけだ。それでも俺は頷いた。図書室の定位置でも、教室の窓際でもない場所に、自分の足で行くことを選んだ。
明日の放課後。第二音楽室。
帰り道、自転車のペダルを踏みながら、五月の空を見上げた。夕焼けが屋根の向こうに滲んでいる。チェーンの軋む音だけが、静かな住宅街に響く。
怖い人だと、みんなが言う。近づくな、と村田は言った。
でも俺は明日、その人の場所に行く。段ボールを拾ってもらった借りがあるから——なんて理由じゃない。自分でもわからない。ただ、あの声を近くで聞いてみたい。舞台の裏側で、あの声がどう響くのかを知りたい。そんな気持ちが、胸の奥に小さな棘みたいに刺さっている。
抜けない棘。抜きたくない棘。
ペダルが軽い。五月の風が、背中を押すように吹いていた。