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窓際最後列から、舞台袖の光へ

第2話 第2話

第2話

第2話

装飾班の初回打ち合わせは、翌日の放課後だった。

 教室の隅に五つの椅子が寄せ集められて、俺を含めた五人が顔を合わせる。自己紹介なんて形式は省略された。そもそも同じクラスなのだから、名前くらいは知っているという前提なのだろう。俺は三人の名前が出てこなかったけれど、黙っていた。

「じゃ、とりあえず分担決めよっか」

 リーダー格らしい男子——たしか佐々木——がスマホのメモを見ながら言った。クレープ屋の装飾に必要な資材リスト。模造紙、カラーテープ、看板用のベニヤ板、それから大量の段ボール。

「看板のデザインはあたしとミキでやるね」

 女子二人が即座に手を挙げた。佐々木が頷いて、もう一人の男子に「じゃあ俺らで材料の買い出し行くか」と声をかける。LINEのグループが作られ、ホームセンターの場所が共有される。テンポよく、手際よく、話が進んでいく。

 俺だけが、何も言わないまま座っていた。

「あー、桐谷は……」

 佐々木が少し困ったように俺を見た。残りの仕事を頭の中で探している顔だ。俺はその視線に慣れている。余りものを、どこに押し込むか考えている顔。

「資材置き場から段ボールとか運んでもらっていい? 体育館裏の倉庫にあるらしいから。結構な量みたいだし」

「……わかった」

 一人でできる仕事。誰とも組まなくていい仕事。俺にちょうどいいと思われたのか、それとも他に回す仕事がなかっただけか。どちらでも同じだ。佐々木は「サンキュ」と軽く言って、もうスマホに視線を戻していた。

 打ち合わせは十分で終わった。四人は連れ立って教室を出ていき、俺だけが椅子の上に残された。窓の外では、五月の日差しが中庭のコンクリートを白く焼いている。

 翌日から、俺の文化祭準備が始まった。

 体育館裏の資材倉庫は、校舎の端にある。教室から行くには渡り廊下を二本通って、特別教室棟を抜けて、さらにその裏手に回らなければならない。遠い。近道はあるのかもしれないけれど、この学校の地理を熟知するほど俺はどこかに通い詰めていない。図書室までの最短ルート以外、ろくに把握していなかった。

 段ボールは思った以上に多かった。

 倉庫の奥に積み上げられた平たい束を引っ張り出して、一度に三枚ずつ抱える。それ以上は腕が回らない。両手で段ボールを抱えると、前が見えなくなる。視界の上半分が茶色い紙で塞がれて、足元だけを頼りに歩くしかなかった。

 渡り廊下は屋根付きだけれど、壁がない。右手が中庭、左手が特別教室棟。五月の風が段ボールの隙間を抜けて、紙がばたばたと鳴る。腕の中で暴れるそれを押さえながら、俺は一歩ずつ進んだ。すれ違う生徒はいない。この時間、この場所を通る理由がある人間なんて、倉庫から荷物を運び出す俺くらいだ。

 教室に段ボールを置いて、また倉庫に戻る。往復。また往復。三回目のあたりで、腕が痺れ始めた。段ボールの角が二の腕に食い込んで、擦れた皮膚がひりひりする。汗が額に浮いて、制服の襟に染みた。

 四回目の往復。渡り廊下の途中で、ふと足が止まった。

 中庭から、声が聞こえた。

 段ボールの縁から目だけを出して、声の方向を覗く。中庭の隅、植え込みの前に一人の女子が立っていた。制服のリボンの色は——赤。三年生だ。

 長い黒髪が背中の半分を覆っている。姿勢がいい。演劇の舞台に立つ人間みたいだと、妙に思った。比喩じゃなくて、本当にそう見えたのだ。立っているだけで、空気の質が違う。

 彼女はセリフを繰り返していた。

「——あなたがいなくなったら、この街には何が残るの」

 声が中庭の壁に反射して、少しだけ響く。低くて、よく通る声だった。感情を押し殺すような、でもどこかで震えているような。彼女は同じセリフを二度繰り返し、三度目は語尾だけ変えて、首を小さく振った。納得がいっていない、という仕草。

 一人きりの練習。観客は俺しかいない——しかも段ボール越しの、のぞき見だ。

 俺は見てはいけないものを見ている気がして、静かにその場を離れようとした。段ボールを抱え直す。そのとき、腕の角度が変わって、上に載せていた一枚が風に煽られた。

 ばさっ、と音がした。

 段ボールが一枚滑り落ちて、残りのバランスも崩れた。支えようとして体勢が傾き、抱えていた三枚がばらばらに散った。渡り廊下の手すりにぶつかり、跳ねて、中庭の方へ転がっていく。

 一枚が、彼女の足元で止まった。

 世界が静まり返った気がした。実際には風が吹いていたし、どこかで部活の声もしていたはずだ。でも俺の耳には何も入ってこなかった。彼女がゆっくりとこちらを向く。目が合った。

 黒い瞳。温度のない、真っ直ぐな視線。

 俺は棒立ちのまま、何も言えなかった。ごめんなさいとも、すみませんとも。喉に言葉が詰まって、声帯が錆びた機械みたいに動かない。教室で班分けの希望を言えなかったときと同じだ。いつだってそうだ。一番大事な瞬間に、俺の声は出ない。

 彼女が、足元の段ボールを見下ろした。それから、渡り廊下の俺を見た。散乱した段ボールと、空っぽの両手と、汗だくの制服。状況を三秒で把握したらしい。

 何か言われる。怒られるか、呆れられるか。あるいは無視されるか。どれでもいい。早くこの時間が終わってほしかった。

 彼女は段ボールを拾い上げた。

 足元のそれだけじゃなく、中庭に転がったもう一枚も。長い髪が揺れて、すらりとした背中が一瞬だけ丸くなる。拾った二枚を軽く叩いて埃を落とし、渡り廊下に上がってきた。

「ほら」

 一言だけ。段ボールが俺の前に差し出された。

「あ——ありがとう、ございます」

 声が出た。掠れていて、自分でも聞き取れるか怪しいくらい小さかったけれど、出た。両手で段ボールを受け取る。指先が少し震えていた。情けない。段ボールを拾ってもらっただけで、こんなに動揺している自分が情けない。

 彼女は俺を見ていた。品定めするような目ではなかった。かといって優しい目でもない。ただ見ている。それだけ。風が彼女の髪を攫って、黒い筋が夕方の光に透けた。

「装飾?」

「え——あ、はい。クラスの、文化祭の」

「一人で運んでるの」

「……はい」

 彼女は何も言わなかった。眉ひとつ動かさなかった。でもほんの一瞬、その目に何かが過ったように見えた。同情ではない。もっと乾いた、でも冷たくはない何か。砂が風で動くみたいな、微かな揺らぎ。

 それから彼女は背を向けて、中庭に戻っていった。植え込みの前の元の位置に立ち、何事もなかったように目を閉じる。

「——あなたがいなくなったら、この街には何が残るの」

 同じセリフが、もう一度響いた。今度は語尾が震えなかった。さっきより深くて、暗くて、でも芯がある。段ボールを拾う前と後で、声の色が変わったように聞こえたのは、たぶん俺の気のせいだ。

 俺は散らばった段ボールを集めて、もう一度抱え直した。腕はまだ痺れていたけれど、さっきとは違う感覚が胸の奥に残っていた。名前も知らない三年生。セリフを繰り返す横顔。温度のない瞳と、段ボールを差し出す手。

 渡り廊下を歩く。段ボールの隙間から見える空は、夕焼けの手前のうすい橙色に変わり始めていた。中庭の方角から、もう声は聞こえない。

 五回目の往復を終えて、ようやく段ボールの山が教室に揃った。装飾班のメンバーは誰も残っていなかった。LINEに「段ボール揃いました」と打って、既読がつくのを待たずにスマホをしまう。

 帰り道、校門を出て自転車に跨いだとき、あのセリフが頭の中で反響した。

 ——あなたがいなくなったら、この街には何が残るの。

 俺がいなくなっても、教室には何も起きない。席がひとつ空くだけだ。出席簿の一行が斜線で消されて、班分けのホワイトボードから四文字が消えて、段ボールは別の誰かが運ぶ。それだけ。

 ペダルを踏みながら、彼女の声を思い出していた。あの声には、嘘がなかった。セリフの中身は作り物のはずなのに、響き方だけが本物だった。

 明日も段ボールを運ぶ。渡り廊下を通る。

 彼女がまたあそこにいるかどうかは、わからない。いてほしいとも思わない——と、自分に言い聞かせた。自転車のチェーンが軋んで、五月の夕風が首筋を撫でた。

 帰り道は、いつもより少しだけ短く感じた。

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