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窓際最後列から、舞台袖の光へ

第1話 第1話

第1話

第1話

名前を呼ばれるのは、一日に一回だけだ。

「——桐谷」

 出席簿の順番が回ってきて、担任の声が教室に落ちる。俺は右手を軽く上げて「はい」と返す。それだけ。担任の視線はもう次の名前に移っていて、俺の返事が届いたかどうかも怪しい。声が小さかったのかもしれない。でも聞き返されたことはないから、たぶん最低限の音量は出ているのだろう。存在を確認するだけの儀式。出席番号順に処理される名前のひとつ。それが俺の一日の始まりだった。

 五月の風が、開け放した窓から入ってきた。カーテンの裾がふわりと膨らんで、また萎む。グラウンドから野球部の掛け声が聞こえる。廊下では誰かが笑いながら走っていく。教室の中は昼休み前の気だるさに包まれていて、あちこちで小さな話し声が弾けている。

 窓際、最後列。それが俺の定位置だ。

 前の席の背もたれに貼られたシールの剥がし跡を、俺はもう何十回も見ている。去年もこの席だった。正確に言えば、席替えのたびに余った場所が回ってくるだけで、自分で選んだことは一度もない。でも結果的にいつも端になるから、もう自分の席みたいなものだった。

 窓の外では、中庭の桜がとっくに葉桜に変わっている。花びらが散るのを見ていたのがついこの前のような気がするけれど、あのとき隣に誰かがいた記憶はない。当たり前だ。俺はいつだって一人で窓の外を見ていた。

 チャイムが鳴る。昼休みだ。

 教室のあちこちで椅子が引かれ、机がくっつけられていく。四人、五人、六人。弁当箱やコンビニの袋を広げて、笑い声が重なる。俺はカバンから購買で買った菓子パンを取り出して、席を立った。

 誰も声をかけない。俺も声をかけない。

 もう慣れた——と思う。慣れたというのは、痛くなくなったという意味じゃない。痛いことに飽きた、というほうが近い。毎日同じ場所を同じようにぶつけていると、そのうち青痣の色も気にならなくなる。それと同じだ。最初の頃は、輪に入れないことが怖かった。話しかけるタイミングを計って、結局何も言えなくて、トイレの個室で弁当を食べた日もあった。今はもうそんな真似はしない。怖くなくなったんじゃなく、怖がることに体力を使い果たしただけだ。

 廊下を歩いて、階段を上がる。三階の図書室。カウンター横の、窓に面した小さなテーブルが俺のもうひとつの定位置だった。司書の先生は俺の顔を覚えているはずだけど、名前は知らないと思う。「いつもの子」くらいの認識だろう。それでいい。名前で呼ばれなくても、ここには俺の椅子がある。誰かに取られることもない。誰も欲しがらないから。

 菓子パンの袋を膝の上で開ける。かさかさという音がやけに大きくて、一瞬だけ周囲を窺う。図書室には俺以外に二人しかいない。一人は居眠りしている男子で、もう一人は分厚い参考書を開いたまま動かない女子。どちらも俺のほうを見ていなかった。窓の向こうでは、昼休みのグラウンドが陽光に白く光っている。ここからだと、歓声もくぐもった振動みたいにしか聞こえない。

 パンをかじりながら、棚から抜いてきた文庫本を開く。チョコレートの甘さが口に広がって、ページの活字に目が慣れるまでの数秒間だけ、窓の外の喧騒が耳に残る。でもすぐに消える。文字が世界を塗り替えていく。

 物語の中に入ると、教室の空気が遠くなる。今読んでいるのは、旅の仲間と竜を追う冒険譚で、主人公には気のいい相棒がいて、行く先々で出会いがあって、誰かのために剣を抜く理由がある。ページをめくるたびに世界が広がって、俺の知らない感情が文字の向こうに並んでいる。

 ——物語の中でなら、俺にも居場所がある。

 そう思った瞬間、少しだけ惨めになる。でもページをめくる手は止まらない。ここにいる間だけは、窓際最後列の空気を忘れていられるから。

 五時間目が始まった。

 担任が教壇に立って、プリントを配り始める。文化祭の準備についてだった。十月の本番まであと五ヶ月。気が早いと思ったけれど、去年は準備不足でクラスの出し物が散々だったらしい。俺は去年もこのクラスにいたはずだが、そもそも何をやったのか覚えていない。たぶん、何もしなかったんだと思う。

「じゃあ、班分けするぞー。文化祭実行委員、前出てきて」

 実行委員の女子二人がホワイトボードの前に立つ。片方は学級委員の長谷川で、もう片方は名前を知らない。いや、知っているはずなのに出てこない。たぶん向こうも俺の名前は出てこないだろう。おあいこだ。

「出し物はクレープ屋に決まったから、調理班、装飾班、会計班、宣伝班に分かれまーす。希望出して」

 ホワイトボードに四つの枠が書かれ、マーカーのキャップが外される。インクの匂いがかすかに漂ってくる。教室がざわつく。あちこちで目配せが飛び交い、グループごとに相談が始まった。

「調理やろうよ」「会計楽じゃない?」「宣伝はポスター描けるし——」

 声が重なる。班が埋まっていく。教室のそこかしこで、名前が呼ばれている。「ねえ一緒の班にしよ」「お前も来いよ」。軽い声。当たり前みたいに交わされる誘い。あの輪の中に入っていける人間と、入っていけない人間の間には、目に見えない膜がある。俺はその膜の外側にいて、ずっと前からそこにいる。

 俺はプリントに目を落としたまま動かなかった。希望なんて出したところで意味がない。どの班にも俺の居場所はない。仲のいいグループ同士が固まって、枠が埋まって、最後に余ったところに突っ込まれる。いつものパターンだ。

「はい、じゃあまだ決まってない人ー」

 長谷川の声が飛ぶ。手を挙げたのは三人。俺と、風邪で先週まで休んでいた男子と、遅刻してきたばかりの女子。

「えーと、装飾があと一人だから……」

 長谷川の視線が三人を順に見て、最後に俺で止まった。止まったというか、残った、というほうが正しい。他の二人は小声で「会計がいい」「宣伝にして」と主張していて、黙っている俺だけが行き先未定のまま浮いている。声を出せばよかったのかもしれない。何か希望を言えば、違う結果になったのかもしれない。でも喉が動かなかった。いつもそうだ。言葉にする前に、「どうせ同じだ」という諦めが先に来る。

「桐谷くん、装飾でいい?」

 いい、も何もない。選んでいるのは俺じゃなくて、俺以外の全員だ。

「……はい」

 頷いた。長谷川がホワイトボードに俺の名前を書き足す。四文字。きりたにゆうま。黒いマーカーで、他のメンバーの名前よりも少しだけ小さく。それだけの存在感で、俺の文化祭が決まった。

 装飾班のメンバー表を見ると、知らない名前が四つ並んでいた。知らないというか、知っているけれど話したことがないだけだ。向こうも同じだろう。たぶん最初の集まりで挨拶して、適当に作業を振り分けて、俺は段ボールでも運ぶことになる。去年もそうだった。力仕事だけ任されて、完成した出し物を眺めて、打ち上げには呼ばれない。それが俺の文化祭だ。

 放課後。

 俺は人が減った教室に残って、カバンから文庫本を取り出した。さっきの続き。冒険譚の主人公は仲間と合流して、次の街を目指している。街には彼を待っている人がいる。名前を呼ぶ人がいる。

 五月の風が、もう一度窓から入ってきた。カーテンが揺れる。グラウンドの掛け声も止んで、教室は静かだった。遠くの廊下で、文化祭の看板を運ぶらしい音がガタガタと響いている。

 俺は文庫本のページをめくった。

 物語の中の主人公は、次の冒険に胸を躍らせている。俺はそれを読みながら、窓際最後列で息を殺す。この温度差を、惨めだとは思わないようにしている。思ったら負けだから。

 でも——ほんの少しだけ。

 俺にも何か起きないかな、と思うことがある。小説みたいに。誰かが突然現れて、名前を呼んで、「お前が必要だ」とか言ってくれる。そんな都合のいい展開、現実にはありえない。わかっている。わかっているから、俺はページをめくる。

 文庫本の向こう側では、主人公が仲間と笑い合っている。

 窓の外では、五月の空がどこまでも青い。

 文化祭まで、あと百五十二日。俺はまだ、何も知らない。

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