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はるかの厨房

第1話 第1話

第1話

第1話

朝五時に目が覚めた。

カーテンの隙間から青白い光が差している。まだ夜と朝の境目にいるような時間だ。布団の中で天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。薄い掛け布団の下で、自分の体温だけがこもっている。冬が終わったはずなのに、背中がうっすら汗ばんでいた。寝返りを打った拍子に、シーツの皺が肌に食い込む感触があった。隣の部屋から物音がするような気がして耳を澄ませる。何も聞こえない。三ヶ月前から何も聞こえないのに、体がまだ覚えている。母が目を覚ましたかもしれない、起き上がれなくて困っているかもしれない、水が欲しいと呼んでいるかもしれない——そういう十年分の回路が、消えてくれない。耳の奥で、あのか細い声の残響がまだ鳴っている気がする。「せいちゃん」という声。最後の二年はもう名前すら呼べなくなっていたのに、脳はいちばん古い記憶のほうを再生する。

藤原誠一は布団を出て台所に向かった。廊下のフローリングが素足に冷たい。スリッパは玄関に揃えたまま、もう何日も履いていなかった。蛇口をひねり、手を洗う。水の音だけが台所に響く。爪の間に何も詰まっていないきれいな手を、しばらく眺めた。かつてはこの手に油がはねた痕や、包丁だこや、ささくれがあった。鯛をおろした日は、鱗が手首のあたりまで貼りついていた。夏場は火傷が絶えず、冬はあかぎれで指先が割れた。今はただ乾燥して荒れているだけだ。何も作っていない手だった。

冷蔵庫を開ける。庫内灯の白い光が顔を照らした。コンビニの幕の内弁当が二つ、サンドイッチが一つ。賞味期限を確認する。一つはすでに昨日で切れていた。それでも捨てる気にならず、そのまま扉を閉めた。扉に貼ってあった母の通院スケジュールのメモが、まだ剥がせていない。日付は半年以上前のものだ。

料理人だった。小さな店だったが、カウンター八席と四人がけのテーブルが二つ、それだけの店を一人で回していた。十年前までは。

台所の隅に、茶色い革の表紙が見えている。母のレシピノートだ。遺品整理のとき、段ボール箱の底から出てきた。あのときは中身を確かめる余裕がなく、とりあえず台所に置いた。それからずっとそこにある。触れていない。革の表面には細かい傷がいくつもあって、角が丸くなっている。長い年月、誰かの手が何度も開いた痕だった。ページをめくれば、母の字が並んでいるはずだ。あの丸みのある、少し右に傾いた字。そこに母の気配が残っていることが、分かっているから開けない。開けたら何が溢れるか分からなかった。悲しみなのか、懐かしさなのか、それとも十年を費やした介護の日々への、自分でも認めたくない感情なのか。

誠一は湯を沸かし、インスタントのコーヒーを入れた。砂糖もミルクも切れていた。黒い液体をすすりながら窓の外を見る。向かいのアパートのベランダに、誰かの洗濯物が干しっぱなしになっている。昨日の夜から雨が降ったはずだから、濡れているだろう。他人のことなのに、気になった。十年、母のことばかり気にしてきた習慣は、対象を失うとこういう形で残るのだと思った。

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葬儀には七人が来た。

親戚が四人、近所の人が二人、あとは母が通っていたデイサービスの職員が一人。誠一の友人は一人も来なかった。来なかったというより、知らせる相手がいなかった。介護が始まった頃はまだ連絡を取り合う人間がいたが、飲みの誘いを五回断れば、六回目の連絡は来なくなる。それを恨む気持ちはない。自分でも同じ立場なら、そうしただろう。

四十五歳。貯金はほぼ尽きていた。母の年金と介護保険でぎりぎり生活は成り立っていたが、それも終わった。ハローワークには二度行った。調理師免許はある。ただ、十年のブランクを説明するたびに、相手の表情が曇るのが分かった。「介護をされていたんですね」という言葉の後に続く沈黙を、誠一は何と埋めればいいのか分からなかった。面接官の指がボールペンを回す音だけが、狭い相談ブースに響いていた。「ご事情はお察しします」——その言い回しが、断りの前置きだと二回目で学んだ。

包丁は台所の引き出しにある。自分の店をたたんだとき、一本だけ持ち帰った。柳刃包丁。刃渡り二十七センチ、柄は朴の木。開店のとき、母が金を出してくれた。「いい道具だけは持っときなさい」と言って。それも、もう二年以上握っていない。母の食事はとうに刻み食からペースト食に変わっていたし、最後の一年は胃瘻だった。包丁の出番は消え、そのまま引き出しの奥に沈んだ。引き出しを開ければ、新聞紙にくるまれたまま横たわっているはずだ。錆びていないだろうか。研ぎに出すべきだろうか。そんなことを考える自分がまだいることに、少し驚く。

時々、自分の手を見る。魚をおろすとき、野菜を刻むとき、出汁を引くとき。それぞれに違う力の入れ方があった。指先に残っているはずの感覚が、薄い膜の向こうにあるように感じる。思い出せるのに、再現できない。頭と手が、繋がっていない。

夕方、期限の切れた弁当をレンジで温めた。電子音が鳴るまでの数十秒、台所に立って待つ。かつて同じ場所で、鍋の前に立っていた。出汁の香りが部屋中に広がり、味噌汁の湯気が天井に昇っていった。今はレンジのモーター音だけが回っている。蓋を開けると、甘い醤油の匂いがした。母はこの匂いが嫌いだった。「甘ったるい」といつも言っていた。砂糖の多い煮物を嫌い、出汁の味がちゃんとする料理を好んだ。誠一が料理人を志したのは、母のその舌があったからだ。認知症が進んでからも、コンビニ弁当だけは口をつけなかった。何を忘れても、味覚の好き嫌いだけは最後まで残る——担当医がそう言っていたのを思い出す。

弁当の半分を食べて、残りを冷蔵庫に戻した。米粒が喉を通りにくかった。

茶色い革のノートが、台所の隅で沈黙している。誠一はそれを見ないようにしてリビングに戻り、テレビをつけた。何かのバラエティ番組が流れている。出演者が笑っている。何が面白いのか分からなかった。笑い声が部屋の空気に溶けて、余計に静けさが際立つ。音量を下げて、ソファに横になった。

眠るまでの時間が、一日で一番長い。介護をしていた頃は、横になれば数秒で意識が落ちた。二時間ごとに起こされることが分かっていたから、体が自動的に眠りに入った。今は八時間でも十時間でも眠れるはずなのに、天井の染みを数えている。三ヶ月前まで隣の部屋にいた人の呼吸の音を、まだ耳が探している。

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翌朝も五時に目が覚めた。その翌朝も。

三日目の朝、顔を洗っているとき、ふと鏡を見た。頬がこけている。髭が伸びている。目の下の隈は、介護中から変わらない。四十五には見えない顔だと思った。五十を過ぎた人間のようにも、あるいは年齢という尺度から外れてしまった人間のようにも見えた。それが悲しいとか悔しいとかではなく、ただ事実としてそこにあった。他人の顔のように見えた。水滴が顎から落ちて、洗面台に小さな音を立てた。

台所に戻ると、レシピノートが朝の光を受けている。革の表紙が少しだけ明るく見えた。窓から差す光の角度が変わって、表紙の傷が影を作っていた。誠一は手を伸ばしかけて、止めた。指先がノートの五センチ手前で止まった。触れたら最後、何かが動き出してしまう気がした。そのまま冷蔵庫からサンドイッチを取り出し、封を切った。パンが少し乾いていた。レタスの端が茶色く変色していて、それを見て母の声が聞こえた気がした。「しなびた葉は取りなさい。見た目で味が変わるんだから」——そんなことを言う人だった。

食べ終わって、皿を——皿は使っていなかった。コンビニの包装をゴミ箱に入れて、手を洗う。蛇口の水が冷たかった。春だというのに、この部屋はいつも冷えている。日当たりが悪いせいもあるが、人の体温が一つ減ったことのほうが大きい気がした。

午前十時、玄関のチャイムが鳴った。

誠一は居間のソファから腰を上げた。宅配か、あるいはまた近所の回覧板か。ドアスコープを覗くと、見知らぬ老女が立っていた。七十代だろうか。小柄で、紺色のカーディガンを着ている。髪をきちんと後ろで束ねていて、手に紙袋を提げていた。紙袋の底が少し膨らんでいて、何か重さのあるものが入っているようだった。

ドアを開けると、老女は誠一の顔をじっと見た。何かを確かめるような目だった。皺の奥にある瞳が、鋭いのに温かい。どこかで見たことがある気がしたが、思い出せなかった。

「はるかちゃんの——」

老女の口から出たのは、母の名前だった。

「はるかちゃんの息子さんでしょう。誠一さん」

誠一は答えられなかった。母を「はるかちゃん」と呼ぶ人間に、ここ十年、会ったことがなかった。その呼び方は、母がまだ元気だった頃の、誠一の知らない時間に属している。喉の奥が詰まるような感覚があった。

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