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保健室の窓から舞台は見えた

第1話 第1話

第1話

第1話

四月の廊下は、靴の匂いがする。

上履きのゴムと、ワックスを塗り直したばかりのリノリウムと、それからたぶん、緊張している誰かの汗。始業式の朝、二年三組の教室に続く廊下を、僕は三十歩手前で止まった。

蛍光灯が一本、微かに明滅していた。チカ、チカ、と不規則なリズムで瞬いて、廊下の壁に薄い影を落としている。掲示板には「新学期の目標を立てよう!」と書かれた色画用紙が貼ってあった。去年もたぶん同じことが書いてあった。学校というのは、毎年同じ言葉を繰り返す場所だ。

教室のドアは開いている。中から声が聞こえる。久しぶりだの、どこのクラスだの、春休み何してただの。そういう、当たり前の会話。椅子を引く音、笑い声、誰かが誰かの名前を呼ぶ声。去年の四月には僕もあの中にいたはずなのに、今はその三十歩が海みたいに遠い。

足が動かなかった。

別に、誰かに殴られたわけじゃない。目に見える傷なんてどこにもない。ただ去年の秋から、少しずつ周りの空気が変わって、気づいたら机の中にゴミが入るようになって、LINEのグループから外されて、話しかけても誰も振り向かなくなった。最初は偶然だと思った。たまたまメッセージに気づかなかっただけ、たまたま声が届かなかっただけ。でも「たまたま」が二十回も三十回も重なれば、それはもう偶然とは呼べない。担任に相談したら「蒼井はもう少し頑張れるよ」と言われた。何を頑張ればいいのか、最後までわからなかった。頑張るという言葉が、あのとき初めて暴力に聞こえた。

廊下の窓から、桜が見えた。もう半分くらい散っていて、花びらが中庭のアスファルトに張りついている。風が吹くたびに数枚が舞い上がって、またすぐに地面に落ちた。きれいだと思う余裕はなかった。

踵を返した。来た道を戻る。自分の靴音だけが廊下に響いて、その音がやけに大きく聞こえた。階段を上がって、四階の突き当たり。保健室のドアを引くと、消毒液の匂いがした。白いベッドが三つ、窓際の机に花瓶。黄色いガーベラが二本、少しだけ首を傾げている。見慣れた景色。去年の十一月から、ここが僕の教室だった。

「蒼井くん、おはよう。始業式は——」

養護教諭の片桐先生が、眼鏡の奥でこちらを見る。右手にはコーヒーカップ。湯気がゆるく立ち上っていて、保健室の消毒液の匂いの中にコーヒーの苦い香りがかすかに混じった。

「……行けませんでした」

「そう」

片桐先生はそれ以上何も言わなかった。責めるでもなく、励ますでもなく、ただ出席簿に何か書き込んで、窓際のパイプ椅子を顎で示した。座りなさい、という意味だ。この人のこういうところが、僕はたぶん好きだった。何も聞かない。何も求めない。ただ居ていいと言ってくれる。「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。その沈黙が、この半年間で僕が受け取った言葉の中で一番やさしかった。

パイプ椅子に座ると、窓の外に校庭が見えた。体育館に向かう生徒の列。二人組、三人組、五人くらいの塊。誰もひとりで歩いていない。当たり前だ。始業式の朝にひとりでいる方がおかしい。

僕はおかしい側の人間なんだろうな、と思った。

鞄から文庫本を出した。読む気はなかったけれど、何か手に持っていないと落ち着かない。手のひらに文庫本の重さを感じていると、少しだけ地面とつながっている気がした。活字を目で追っているふりをしながら、天井の染みを数えた。十三個。去年から増えていない。

始業式が終わったらしく、下の階が騒がしくなった。新しいクラスの話、新しい担任の話。上履きが廊下を叩く音が遠い波のように押し寄せてきて、また引いていく。壁一枚向こうの世界。同じ校舎の中にいるのに、僕と彼らの間には壁よりもっと分厚い何かがあった。

昼前に、片桐先生が紙パックの牛乳を机に置いてくれた。

「お昼は?」

「今日は早退します」

「うん。気をつけてね」

先生はそう言って、少しだけ間を置いた。何か言いかけて、やめたように見えた。でもそれが優しさなのか諦めなのか、僕にはわからなかった。

靴を履き替え、正門に向かう。四月なのに風が冷たくて、制服のブレザーのボタンを上まで留めた。首筋に風が当たって、思わず肩をすくめた。校門を出て、駅までの道を歩く。商店街のパン屋の前で、見覚えのある背中が横断歩道を渡っていくのが見えた。

佐々木。去年まで一緒に昼飯を食べていたやつだ。

目が合った——気がした。けれど佐々木は一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らした。その一瞬の中に、気まずさと、面倒くささと、ほんの少しの罪悪感みたいなものが見えた。見えた気がしただけかもしれない。何事もなかったように歩き去る横顔に、僕は足を止めた。声をかけようとした。でも喉が動かない。名前すら出てこない。去年まで毎日呼んでいた二文字が、喉の奥で凍りついたみたいに出てこなかった。佐々木の背中が人混みに消えていくのを、僕はただ見ていた。信号が青に変わり、赤に変わり、また青に変わった。僕はまだ横断歩道の手前に立っていた。

帰り道の商店街は、昼時で賑わっていた。人の声、自転車のベル、焼き鳥の煙。揚げ物の油の匂いがブレザーの袖に染みつきそうだった。世界はちゃんと動いている。僕だけが止まっている。

自分の部屋に着いて、制服のまま布団に潜り込んだ。天井を見上げる。保健室の天井と自分の部屋の天井。それが僕の世界のほぼ全部だった。

明日も学校に行くのだろう。行って、教室の前で立ち止まって、保健室に逃げ込んで、早退する。それを繰り返す。何のために? わからない。ただ「高校生」というラベルだけが、かろうじて僕を社会につなぎとめている。そのラベルすら、もうほとんど剥がれかけているのに。

そんな日が三日続いた。四日目も同じだった。朝起きて、学校に行って、廊下で立ち止まって、保健室に座って、帰る。判で押したような毎日。違うのは天気だけで、僕の中身は何も変わらなかった。

五日目の午後——変わったことがひとつだけあった。

保健室の窓際で文庫本を開いていたとき、中庭から声が聞こえた。大きな声。叫びに近い。驚いて顔を上げると、窓の向こうの中庭に、ひとりの女子生徒が立っていた。

古びた木製の舞台セット。たぶん去年の文化祭の残骸だ。ベニヤ板を組んだだけの、半分崩れかけた張りぼて。ペンキが剥げて、雨染みが茶色い模様を作っている。その上に立って、その人は何かを叫んでいた。

遠くてよく聞こえない。でも全身を使っているのはわかった。両腕を広げて、空に向かって声を投げている。髪が風になびいて、スカートの裾が揺れて、それでも足元はびくともしない。まるでその崩れかけの舞台が、彼女のためだけに建てられた場所みたいに、堂々と立っていた。周りには誰もいない。昼休みの中庭を横切る生徒が何人かいたけれど、みんな見て見ぬふりをして通り過ぎていく。

変な人だ、と思った。

でも目が離せなかった。

その人は、僕が教室の前で三十歩動けなくなるような声を——一人きりの中庭に、惜しげもなく放り投げていた。誰に聞かせるでもなく。誰に求められたわけでもなく。ただ自分がそうしたいから、そうしているように見えた。その声は保健室の窓ガラスを震わせて、僕の指先まで届いた気がした。声というより、振動だった。空気を伝って、骨に響くような。

五分くらいだったと思う。その人は舞台セットから飛び降りて、鞄を拾い上げて、校舎に戻っていった。スカートについた砂を一度だけ払って、振り返りもしなかった。僕は窓枠に手をかけたまま、しばらく動けなかった。心臓が少しだけ速く打っていることに、遅れて気がついた。

夕方、片桐先生に聞いた。

「中庭で大声出してる人、知ってますか」

「ああ、桐島さんね。三年生。演劇部の部長よ」

先生は少し笑った。

「毎日やってるの。もう慣れたけど」

桐島さん。演劇部。

「……変わった人ですね」

「まあ、学校中からそう言われてるわね」

先生はそれだけ言って、保健日誌に目を戻した。ペンを走らせる音が、静かな保健室に小さく響いた。

帰り道、いつもの最短ルートを歩きながら、僕は中庭の声のことを考えていた。あの人は、誰もいない場所で叫んで、何が楽しいんだろう。何の意味があるんだろう。教室の三十歩が歩けない僕と、誰もいない中庭で叫べるあの人。同じ学校にいるのに、僕たちはたぶん、まったく違う生き物だ。

わからなかった。でも、明日もあの時間に窓の外を見てみようか、とは思った。

保健室の窓から見えるものが、白い天井以外にもうひとつ増えた。それだけのことだった——たぶん。

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