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偽装同居は契約の外側で

第3話 第3話

第3話

第3話

金曜の夜、指定された恵比寿のビストロは半地下にあった。

階段を降りるとき、ヒールの底がタイルを打つ音が妙に大きく響いた。重い木の扉を押し開けると、間接照明のオレンジ色が目を刺した。店員に名前を告げる声が、自分のものじゃないみたいに平坦だった。奥の半個室へ案内される途中、ワイングラスの縁が触れ合う音や、低い笑い声がいくつも通り過ぎていった。どのテーブルも楽しげに見えて、自分だけが水面下を歩いている気がした。案内される途中、メニューボードに書かれた今夜のおすすめの「仔羊の香草焼き」という文字を、なぜか目が何度も拾い直した。

高瀬は先に来ていた。白いシャツに、濃紺のジャケット。昔から季節の変わり目に着ていたコーディネートだった。彼は私に気づくと、軽く片手を上げた。笑顔が、二年前まで毎週末に見ていた笑顔と同じ角度で作られていて、喉の奥が小さく詰まった。

「久しぶり。急に呼び出してごめん」

「ううん、大丈夫」

向かいの椅子を引いて座る。水を運んできた店員に、「同じものを」と告げて、高瀬の手元のグラスを指した。赤ワインが少しだけ残っていた。中身を確認する間もなく注文してしまったことに、一瞬遅れて気づいた。こういう反射が、まだ体に残っている。相手が決めた選択の後ろを、確認もせずについていく癖。別れてから一年半、ちゃんと洗い落としたつもりだった。

「元気そうで、よかった」

「そう見える?」

「仕事、忙しそうだったから」

SNSも見ていたのか、と訊きかけてやめた。見ていたからこそ、婚約報告を私のタイムラインにも流したのだ。「共通の友人がいる」という保険付きで。

グラスが置かれた。赤い液体を一口含むと、思ったより酸味が強くて、舌の上で粘った。

「相談って、何」

遠回りは嫌だった。

高瀬はグラスを傾けて、少しの間、私の顔を見た。昔、何か言い出しにくいことを切り出すときの仕草だった。ネクタイの結び目を親指で軽く押さえる癖も、そのままだった。

「婚約した相手のこと、知ってる?」

「名前は、知らない」

「篠宮彩乃さん」

篠宮。

ワイングラスの縁に触れていた指が、一瞬だけ硬くなった。その名字を、私は三日前から一度も頭の中で手放せていない。偶然だ、と自分に言い聞かせた。篠宮姓の人間が日本に何人いるか分からないけれど、それでも、デスクの引き出しに入れたままの名刺の重さが、急に生々しく感じられた。

「篠宮グループの、令嬢」

「……ああ。聞いたことは、あるかも」

知っていた、と言いたくなくて、そう濁した。高瀬は私の顔の変化を読み取るように、しばらく黙った。それから店員を呼んで、小皿の前菜を二つ注文した。食べるつもりで来たわけではなかった。向こうもそれを分かっていて、間を持たせるためだけに頼んだのが分かった。

「向こうの家が、うるさくてさ」

「うるさい?」

「結婚前に、家同士の顔合わせと、婚約披露のパーティがある。篠宮の家は、体裁を気にする家でね。彩乃さんに、兄がいるんだけど」

ひとつ呼吸が落ちる。

「その兄が、三十を過ぎても独身で、恋人の気配もない。向こうの親は、妹の婚約より先に、兄の方を何とかしたい。少なくとも、パーティの場には兄の恋人を立たせたいらしい」

「……何の話、それ」

「奈緒に、その兄の恋人役をやってほしい」

私はグラスを置いた。置いたつもりが、ガラスの底がテーブルに当たる音が少し大きく鳴って、近くのテーブルの誰かがこちらを一瞬見た気がした。

「冗談でしょう」

「冗談じゃないよ。パーティまでの三ヶ月間だけでいい。パーティが終われば、自然消滅ってことにして、縁を切ってくれていい」

高瀬の声は、昔、私に「付き合おう」と言ったときとほとんど同じ温度だった。大事なことを、大事だと思わせない声の出し方。それが戦略なのか無自覚なのか、私はもう見分ける自信がなかった。

「どうして私なの」

「奈緒なら、体裁を作れる。控えめで、品があるし、余計なことを外に言わない。それに——」

「それに?」

高瀬は鞄の中から二つ折りの資料を取り出した。見慣れたロゴ——うちの会社の取引先候補として、この半年、営業がずっとアプローチしてきて、一度もテーブルに着いてもらえなかった相手のロゴだった。

「篠宮グループ傘下のホテル部門のリブランディング。来期の広告予算、うちの代理店経由で動く話になってる。その下請け、奈緒のところに降ろせる。向こうもこちらにイエスと言いたくなる条件が欲しいんだ」

指先が冷たくなるのが分かった。

頭の中で、電卓の音がした。二日前、上司の田辺部長にデスクまで呼ばれた。次の大型案件が取れなければ、下請け枠は別のプロダクションに差し替える、と言われた。言い回しは柔らかかったが、意味は一つだった。取れなければ契約が切れる。私のチームには六人いる。全員に家族がいる。真帆は去年、下の子を保育園に入れたばかりで、来年小学校の子もいるはずだった。有村さんは母親の介護が始まったと、先月の飲み会でそっと言っていた。

「……兄の、名前は」

「篠宮蓮」

名前の音が、肺の底まで落ちた。

私はテーブルクロスの皺を見つめた。白い布の上に落ちたワインの赤い粒が、指で拭いてもうっすら染みになっている。こういう消せない跡を、今夜、自分もまたつけるのだろうと思った。

「彼も、この話を知ってるの」

「知ってる。篠宮は篠宮で、家にうるさく言われて参ってるから。彼も、合意してる」

合意。

三日前のホームで、名刺を私の膝に置いて去っていった背中を思い出した。あの人が、どういう顔でこの話に「合意」と言ったのか、想像がつかなかった。ただ、あの無関心な目が、自分の家の事情に対しても同じ温度で向けられているのだろうとは、不思議なくらい鮮明に分かった。

「……三ヶ月」

掠れた声が、勝手に口から出た。

「そう。三ヶ月。同棲してもらう必要はある。外向けの体裁のために。でも、一つ屋根の下で、別々の部屋でいい。彼は、そういうことを女性に求めるタイプじゃないから」

「彼のこと、知ってるの」

「学生時代からの友人」

そこで初めて、私は高瀬の目をまっすぐ見た。友人と呼ぶその男の、乾いた手のひらの感触を、私はすでに知っていた。

言おうか。もう会っている、と。

言わなかった。なぜ言わないのか、自分でも分からないまま、グラスを両手で包んだ。ガラスが思ったより冷たくて、指の温度を奪っていった。

「考えさせて」

「もちろん。月曜までに返事もらえると助かる」

月曜。田辺部長の進捗確認と、同じ日だった。偶然ではないのだろう、と思った。高瀬は私の仕事の締め切りを知っている。付き合っていた三年間で、月末と月初の私がどれだけ追い詰められるか、見てきた男だった。

店を出た後、高瀬はタクシーを拾おうと通りに出た。私は「駅まで歩く」と断って、反対方向へ歩き出した。四月の夜風は湿っていて、ブラウスの襟の内側に汗の匂いが残っているのが分かった。信号の赤が滲んで、ようやく自分がほんの少し涙ぐんでいることに気づいた。悔しい涙ではなかった。悲しい涙でもなかった。

断れる自分でいたかった。

三ヶ月ばかし、他人の家の体裁のために嘘をつく——それだけのことで、チームの六人の仕事が守れるなら、頷く以外にどんな選択肢があるのか。正しい答えなど、もう最初から一つしかないのだった。断らない自分を、今夜ほどはっきり見たくなかった、というだけで。

ヒールの踵が歩道のタイルの継ぎ目で一度引っかかって、私は立ち止まった。鞄の中で、スマートフォンの画面がぼんやり光っている。通知には田辺部長からの「月曜朝イチで進捗確認」。短い一文が、真空パックのように胸を圧迫した。

歩き出す。

駅のホームにたどり着いたとき、電車はちょうどドアを閉めるところだった。ガラス越しに、疲れた顔の自分と目が合った。三日前、このホームで見知らぬ男の肩に倒れ込んだ自分と、同じホームに、今夜また一人で立っている。

スマートフォンを取り出し、連絡先を探そうとして指が止まった。名刺はオフィスの引き出しの中だ。電話番号を、私は覚えてはいなかった。

覚えていなかったのに、「篠宮蓮」という文字の並びだけは、瞼の裏にはっきり浮かんでいた。

月曜の朝一番で、まずあの引き出しを開けるのだと、そう決めた。頷くかどうかは、まだ決めていなかった。決めていないはずなのに、足は、もう明らかに、その方向へ歩き出していた。

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