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季節を届ける弁当屋

第3話 第3話

第3話

第3話

幸田が退院したのは、三日後の昼過ぎだった。

冬馬はその日の朝、アパートの廊下を掃いている管理人から「幸田さん、今日戻るらしいですよ」と聞かされた。聞かされただけだ。自分から尋ねたわけではない。ただ、その日は午前中からずっと落ち着かなかった。冷凍弁当を温めたが、電子レンジの前で四分二十秒を待つ間、立ったまま壁のほうを見ていた。幸田の部屋がある側の壁を。

午後一時を少し回った頃、廊下にタクシーのドアが閉まる音が聞こえた。それからゆっくりとした足音。以前より間隔が長い。一歩ごとに止まるような歩き方だった。冬馬はドアの覗き穴から見た。幸田が手すりを掴みながら、廊下を歩いていた。右手にコンビニの袋を提げている。退院の帰りにコンビニに寄ったのだろう。袋の中身はたぶんペットボトルのお茶と、パンか何か。病院で栄養失調と言われた人間が、退院した足でコンビニに寄っている。

幸田の部屋のドアが閉まる音がした。鍵を回す金属音。それから、静かになった。

冬馬はテーブルの上のパンフレットを見た。「高齢者向け食事・生活支援サービスのご案内」。三日間ずっとここに置いてある。角が少し反っていた。これを渡せばいい。それが正しい対応だろう。隣人としての義務はもう果たした。救急車を呼び、病院に同行した。あとは行政の仕事だ。

パンフレットを手に取って、玄関に向かった。幸田の部屋に渡しに行く。それだけのことだ。

廊下に出て、幸田のドアの前に立った。ノックしようとした手が、降りなかった。パンフレットの紙が指の間で少しだけ湿っていた。

あの冷蔵庫が見えた。頭の中に。萎びた春キャベツ。賞味期限の切れた豆腐。干からびた味噌汁の鍋。パンフレットを渡しても、あの冷蔵庫の中身は変わらない。支援サービスが届くまでの数日、幸田はまたコンビニのパンとペットボトルのお茶で過ごす。

冬馬は自分の部屋に戻った。パンフレットをテーブルに置き、幸田の部屋の鍵を下駄箱の上から取った。あの夜、鍵をかけて預かったままだった。

幸田の部屋のドアをノックした。

「幸田さん。鍵を預かっていたので」

しばらくして、ドアが開いた。幸田は退院着のまま、顔色はまだ良くなかったが、目には力があった。冬馬の手の中の鍵を見て、小さく頷いた。

「ああ。——すまなかったな」

冬馬は鍵を渡した。それから、自分でも予想していなかった言葉が出た。

「冷蔵庫の春キャベツ、まだ使えますか」

幸田は怪訝な顔をした。冬馬自身も怪訝だった。なぜそんなことを訊いたのか分からない。ただ口が先に動いた。

「……さあ。もう駄目だろう」

「見せてもらっていいですか」

幸田の台所は三日前と変わっていなかった。冬馬が閉めた冷蔵庫を再び開ける。春キャベツは外葉がさらに茶色くなっていたが、芯に近い部分はまだ生きていた。外側を三枚剥がせば使える。新玉葱が一個、網の袋に入ったままキッチンの隅に転がっていた。芽は出ていない。

使える。

冬馬は幸田の台所を見回した。包丁がない。正確には、引き出しの中に果物ナイフが一本あったが、刃がこぼれていて研ぎ直す気にもならない代物だった。まな板は薄いプラスチック製で、反っている。

「——少し待ってください」

自分の部屋に戻った。押し入れの前に立った。

襖の取っ手の金具が錆びている。三年間、一度も開けていない。開けなくても中身は分かっている。柄の木目の手触りも、刃を蛍光灯にかざしたときの青い光り方も。だから開けなかった。

開けた。

襖が軋んだ。中は乾燥した空気が溜まっていて、かすかに桐の匂いがした。包丁のケースは布に包んであった。妻の弥生が選んでくれた紺色の風呂敷。結び目を解くと、黒い革のケースが現れた。ジッパーを開ける。五本の包丁が並んでいた。牛刀、ペティナイフ、柳刃、出刃、薄刃。どれも柄が手に馴染む角度で収まっている。

牛刀を抜いた。刃は曇りもなかった。三年間密封されていたおかげで、錆びてもいない。蛍光灯の下に刃を翳すと、薄い青が走った。

手が震えていた。

右手の指が、柄を握ったまま細かく振動している。力を入れているわけではない。むしろ力は抜けていた。体が覚えていることと、体が拒否していることが、同時に起きている。この柄を握って何万回と野菜を切った手が、同時に、この柄を握った先にある記憶を恐れている。包丁を持つ自分は料理人で、料理人だった頃の自分には妻と娘がいて、妻と娘はもういない。刃物を握るという行為が、失ったものの輪郭をなぞる行為になる。

震えは止まらなかった。止まらないまま、冬馬は包丁ケースから薄刃も取り出した。まな板は自分のものを使う。これも押し入れの奥にあった。檜の一枚板で、表面は三年分の乾燥で少し痩せていたが、まだ使える。

幸田の台所に戻った。まな板を流しで軽く水に通し、春キャベツの外葉を剥いた。芯に近い葉は淡い黄緑色で、水分をまだ十分に含んでいた。巻きが緩い。春キャベツ特有のやわらかさ。冬キャベツとは繊維の走り方が違う。

薄刃を構えた。手は震えている。

刃を入れた。

最初の一太刀で、体のどこかが切り替わった。震えは消えなかった。指は相変わらず微かに振動していた。けれど刃の軌道は震えの影響を受けていなかった。手首から先が独立した精密機械のように動いている。キャベツの千切りが、まな板の上に積み重なっていく。繊維を断つのではなく、繊維に沿って均等に分かれていく。すべての断面が同じ厚さで、光に透かせば向こうが見えるほど薄い。

手が覚えていた。三年のブランクなど存在しないかのように、手だけが完璧に仕事をした。

新玉葱は皮を剥いて薄切りにした。水にさらさない。春の新玉葱は辛みが少ないから、水にさらすと甘みまで逃げる。そのことを頭で考えたのではなく、手が勝手にボウルを避けた。

幸田の台所にはろくな調味料もなかった。塩と醤油と味噌。それだけあれば十分だった。フライパンを火にかけ、春キャベツと新玉葱をさっと炒める。塩だけ。火を入れすぎない。キャベツの水分が出て、甘い匂いが立った。春キャベツ特有の、青くてやわらかい香り。冬馬の鼻がそれを捉えたとき、一瞬だけ、台所の空気が変わった気がした。

皿に盛った。幸田の食器棚にあった白い丸皿。縁が少し欠けている。キャベツの淡い緑と、新玉葱の透き通った白が、欠けた皿の上で静かに湯気を立てていた。

幸田は居間の座布団の上に座って、ずっと黙っていた。冬馬が台所で包丁を使い始めたときから、一度もこちらを見なかった。テレビもつけず、ただ座っていた。

皿を幸田の前に置いた。箸を添えた。

幸田は皿を見た。それから冬馬を見た。何かを言いかけたように唇が動いたが、声にはならなかった。箸を取り、キャベツをひと口つまんだ。

口に入れた。

咀嚼している間、幸田の表情は動かなかった。飲み込んだ。もうひと口、つまんだ。また咀嚼して、飲み込んだ。冬馬は幸田の向かいに正座したまま、何も言わずにいた。

長い沈黙があった。幸田は三口目を飲み込んだ後、箸を持ったまま動かなくなった。皿の上のキャベツを見ている。何を見ているのか、冬馬には分からなかった。キャベツを見ているのか、皿を見ているのか、それともここにはないものを見ているのか。

「……春の味がする」

幸田の声は小さかった。独り言のようだった。冬馬に向けて言ったのではないかもしれない。ただ、口から出てきた言葉がそれだった。

冬馬は何も返さなかった。返す言葉が見つからなかったのではなく、返さないほうがいいと思った。幸田はそのまま、皿の上のものを全部食べた。最後のひと切れまで、箸で丁寧にさらった。

冬馬は皿を下げ、幸田の台所で洗った。流しの水音だけが響いた。洗い終わった皿を伏せて、自分の包丁とまな板を持って部屋に戻った。押し入れにしまおうとして、やめた。包丁ケースを台所の調理台の上に置いた。しまう場所を変えただけだ。それ以上の意味はない。

手を見た。もう震えていなかった。

翌朝、ゴミを出しに廊下へ出たとき、冬馬の足が止まった。

幸田の部屋のドアの前に、白い丸皿が置いてあった。昨日キャベツを盛った、縁の欠けた皿。きれいに洗ってあった。水滴ひとつ残っていない。皿の上には何も載っていない。メモも、言葉も。ただ洗われた空の皿が、ドアの前の冷たいコンクリートの上に、まっすぐに置かれていた。

冬馬はしばらくその皿を見下ろしていた。拾い上げて、幸田のドアをノックしようかと思った。しなかった。皿をそのまま残して、階段を降りた。ゴミ捨て場への道で、桜の木が目に入った。もう葉桜だった。緑の葉が朝の光を透かしている。見えた。今日は、見えた。

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