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エアギターの少年と、屋上で見つけた音

第3話 第3話

第3話

第3話

ドアの向こうのベースが、俺を引きずり込もうとしている。

廊下に立ったまま、もう何分経ったかわからない。西日が傾いて、窓から差し込む光の角度が変わった。オレンジだった床が赤みを帯びて、俺の影が長く伸びている。ベースは止まらない。曲が変わっても彩音の指は弦の上を離れないらしく、フレーズとフレーズの間に一瞬の沈黙があって、すぐに次の旋律が始まる。その沈黙のたびに、俺の心臓が一回跳ねる。次は何を弾くんだ。次はどの曲だ。

知っている曲だった。二曲目も、三曲目も。俺のプレイリストと趣味が近いのか、それとも高校生のバンド好きが聴く曲なんて似たようなものなのか。どちらにしても、頭の中でギターパートが自動再生される。ベースラインの上に、聴き慣れたギターのリフが重なる。リフだけじゃない。カッティングのリズム、サビのコード進行、間奏のソロ——全部、体が覚えている。右手のポケットの中で指が動いていて、もう止める気もなくなっていた。

四曲目のイントロが始まった瞬間、左手が反応した。

これは——俺が一番好きな曲だ。

ベースラインが不穏に這い回って、八小節かけてじわじわとテンションを上げていく。原曲ではここにギターのフィードバックノイズがかぶさって、ドラムのフィルインが爆発して、全楽器が一斉に雪崩れ込む。彩音のベースは、その雪崩の予兆だけを延々と繰り返している。他のパートが入る直前で止まって、また最初から。繰り返しているうちに、フレーズが少しずつ変わっていく。アレンジを試しているのだ。同じ進行の上で、リズムを変え、音の長さを変え、スラップを混ぜたり抜いたりしている。

限界だった。

ドアノブを掴んだ。冷たい金属の感触が掌に伝わって、指が白くなるほど握りしめていた。押すか引くか一瞬迷って、横にスライドさせた。引き戸だった。ガラガラという音が廊下に響いて、ベースが止まった。

音楽室の空気が、一気に顔を打った。

防音が甘い音楽室特有の、少しこもった匂い。グランドピアノの黒い蓋が西日を反射して、譜面台が列を作って並んでいる。その奥、窓際の椅子に腰かけた彩音が、紺色のジャズベースを膝に乗せたまま、こっちを見ていた。

驚いた顔はしなかった。

「来ると思ってた」

その一言に反論する余裕もなかった。視線が音楽室の中を走る。壁際のロッカーの上に、アンプが二台。マイクスタンドが一本。そして——部屋の隅に、ギターが立てかけてあった。黒いストラトキャスター。スタンドもなく、壁にもたれかけるように置かれている。弦は張ってある。誰かの私物か、備品か。どちらでもよかった。

目が離せなかった。

「座ったら?」

彩音の声が遠くに聞こえた。俺の足はもうギターのほうに向かっていた。意志じゃない。磁力だ。三歩で辿り着いて、ネックに手を伸ばす。指がネックを握った瞬間、全身に電流が走った。木の振動。弦の硬さ。フレットの金属が指先に食い込む感触。全部覚えている。押し入れに封印したはずの記憶が、掌から一気に逆流してくる。

重い。エアギターより、ずっと重い。そして——ずっと、いい。

ストラップをかけた。アンプを見た。彩音が顎でしゃくった。「繋いでいいよ」。シールドが床に転がっていて、それを拾ってジャックに差し込んだ。アンプのスイッチを入れる。ブーンというハムノイズが低く唸って、弦に触れた指先からノイズが消えた。

彩音が何も言わずにベースを構え直した。

さっきの曲のイントロ。あの不穏なベースラインが、今度は俺の目の前で鳴っている。空気の振動が違う。ドア越しに聴いていた音とは別物だ。彩音の左手が指板の上を滑るのが見える。薬指と中指の動き方に癖があって、フレーズの頭で必ず薬指から入る。その一瞬の溜めが、グルーヴの正体だった。

八小節。ベースが予兆を繰り返す。原曲なら、ここでギターが入る。

右手が弦に触れた。

最初の一音は、小さかった。ブリッジミュートで押さえた、くぐもったパワーコード。ズン、と短く切る。二拍目。三拍目。四拍目でミュートを外して、弦を開放する。音が広がった瞬間、彩音のベースが反応した。俺のリズムに合わせてフレーズの切り方を変えた。会話だ。言葉じゃない、音の会話。

二小節目。俺のストロークが強くなった。三小節目で左手がポジションを移動して、コードにテンションを加えた。ナインスの響きがベースの上に乗って、空気の色が変わった。自分でも驚いた。こんな音、出すつもりじゃなかった。指が勝手に選んでいる。彩音のベースラインが次にどこへ行くか、なぜかわかる。わかるから、その半歩先に音を置ける。

四小節目。彩音が顔を上げて、初めて俺と目が合った。口元が動いた——「嘘でしょ」と読めた。ベースの音量が上がった。応えている。俺の音に応えて、もっと弾けと言っている。

五小節目から、抑えが外れた。

ピッキングが速くなって、左手がフレットの上を駆け始めた。中学の頃に必死で練習したスケール。動画を何百回も巻き戻して覚えたフレーズ。押し入れにしまう前の最後の夜、泣きながら弾き続けた旋律。全部が指先から溢れ出す。二年分の沈黙が、音になって噴き出している。

ベースとギターが絡み合って、音楽室の空気が震えた。

「——なにそれ」

別の声が聞こえた。ドアの方を向くと、男子が一人、入り口に立っていた。短い髪、日焼けした腕。ドラムのスティックを右手にぶら下げて、目を見開いてこっちを見ている。その背後に、もう二人。楽器ケースを持った生徒が、廊下で足を止めていた。

彩音のベースが止まった。俺のギターも止まった。音が消えた音楽室に、アンプのハムノイズだけが残った。

「めちゃくちゃ上手いじゃん」

ドラムの男子が——たぶん、バンドメンバーの一人だ——スティックで自分の肩を叩きながら、半笑いで言った。半笑いだけど、目は笑っていなかった。驚きで固まっている目だ。

俺は、自分が何をしたのか理解するのに数秒かかった。

ギターを弾いた。人前で。しかも即興で。見知らぬ人間の前で、二年間封印していた音を出した。

首の後ろが一気に冷えた。心臓がうるさい。ギターを持つ手が、今さら震え始める。衝動が引いた後に残ったのは、剥き出しの恐怖だった。見られた。聴かれた。目立った。中学の法則が頭の中で赤く点滅している——目立てば叩かれる。目立てば壊される。

ストラップを外そうとした。指がもつれて、うまく外れない。

「ちょっと待って」

彩音が立ち上がった。ベースを椅子に置いて、こっちに一歩近づいた。

「逃げないで」

静かな声だった。命令じゃない。懇願でもない。ただ事実を述べるように、「逃げないで」と言った。

「今の、たった数小節だったけど。私のベースと合った瞬間、わかったでしょ」

わかった。わかってしまった。

誰かと音を合わせるということ。自分の音が別の音と混ざって、一人では絶対に出せない響きになるということ。ベースの低音が足元を支えてくれる感覚。自分のギターが宙に浮かないで、地面に根を張れる感覚。あれは——。

あれは、二年間の空白を全部吹き飛ばすくらい、気持ちよかった。

否定できなかった。だから余計に怖い。

「……名前」

声が掠れた。自分でも何を言おうとしているのかわからないまま、口が動いた。

「ドラムの、名前」

「北条翔太」

ドアの横に立った男子が、少し面食らった顔で答えた。

俺はギターのネックを握ったまま、床を見ていた。逃げたい。帰りたい。でも右手が弦を離さない。指先にまだ振動が残っている。さっきの数小節の残響が、骨の中でまだ鳴っている。

消えない。

あの感覚が、消えてくれない。

彩音が何かを言いかけて、やめた。代わりに椅子に戻って、ベースを持ち上げた。チューニングを確認するみたいに、開放弦をぽん、と一回鳴らした。それだけ。何も強要しない。ただそこにいて、ベースを抱えて、俺が何を選ぶか待っている。

北条がドアの横でスティックを回している。くるくると指の間を滑るスティックの動きが、妙に落ち着いていた。

音楽室の窓から、西日が最後の赤を投げ込んでいた。埃が光の柱の中を漂って、グランドピアノの蓋がぼんやり光っている。どこかで部活の終わりを告げるホイッスルが鳴った。

俺はギターを壁に戻さなかった。

ストラップを、もう一度肩にかけ直した。

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