第2話
第2話
あの日から三日が経っても、屋上の一件は消えなかった。
教室で、廊下で、階段で——すれ違う女子の顔を無意識に確認している自分に気づくたびに、腹の底が冷えた。探しているわけじゃない。警戒しているだけだ。あの瞬間を誰かに言いふらされていないか。「屋上でエアギターしてるやつがいる」と笑い話にされていないか。中学の時はそうだった。一つの隙が、一つの噂になって、噂が集団の空気になって、空気が暴力になった。教科書に落書きされた。上履きが消えた。給食の時間に机を離された。あの連鎖の入り口が、いつも「誰かに見られた瞬間」だった。
でも、何も起きなかった。
三日間、誰も俺を指さして笑わなかったし、すれ違いざまに「エアギター」と囁かれることもなかった。そもそも俺のことを認識している人間がこのクラスにどれだけいるのか怪しい。透明人間には噂すら立たない。安心していいはずだ。なのに体はまだ臨戦態勢を解かない。毎朝教室に入るとき、一瞬だけ空気を読む癖が消えない。笑い声の方角を確かめて、自分に向いていないことを確認してから席につく。三日間、ずっとそうだった。
木曜日の昼休み。いつものように教室を抜け出して、非常階段を上がる。鉄扉を開けた瞬間、反射的に踊り場を確認した。誰もいない。当たり前だ。あれは偶然で、二度は起きない。
屋上のコンクリートに座って、イヤホンを耳に押し込む。再生ボタン。ギターのリフが脳に流れ込んで、世界が狭まる。でも今日は、右手が動かなかった。指が膝の上で硬くなったまま、弦を弾く形を作ろうとしない。見られた記憶が、無意識にブレーキをかけている。あの時の視線が、皮膚の下にまだ残っている。手すりの向こうから、じっとこちらを見ていた目。暗がりの中で、俺の左手のポジションを正確に読み取っていた目。
舌打ちが出た。
たった一人に見られただけで、唯一の自由まで奪われるのか。
五時間目のチャイムが鳴るまで、俺はイヤホンで音楽を聴きながら、ただ空を見ていた。指は最後まで動かなかった。四月の空は高くて青くて、見上げているとどこまでも落ちていきそうで、かえって息が詰まった。
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六時間目が終わった放課後、帰り支度をしていたら声をかけられた。
「桐谷くん、だよね」
心臓が跳ねた。俺の名前を呼ぶ声を、このクラスで聞いたのは出席確認以外で初めてだった。顔を上げると——いた。あの時の女子。肩にかかる髪、袖を捲った制服。教室のドアの横に立って、鞄を肩に引っかけたまま、まっすぐこっちを見ている。
「あ、やっぱり。二組の高瀬彩音。覚えてないよね」
覚えているに決まっている。屋上で俺のエアギターを目撃した人間の顔を忘れるわけがない。でも答えなかった。鞄のジッパーを閉める手が止まっただけだ。
「単刀直入に言うね」
彩音は一歩、教室の中に入ってきた。周りの生徒が数人、ちらりとこっちを見た。注目されている。それだけで首の後ろが熱くなる。視界の端で、隣の席の男子が興味なさそうにスマホを見ているのが救いだった。全員がこっちを見ているわけじゃない。でも一人でも見ていれば同じだ。噂は一人から始まる。
「文化祭でバンドやるんだけど、ギター弾けるでしょ」
息が止まった。
「……は?」
「ギター。弾けるよね、桐谷くん」
声が明るいのに、目が笑っていなかった。正確に言うと、笑ってはいるけど、その奥に切迫した何かがあった。余裕のある冗談じゃない。本気で探している目だ。
「弾けない」
反射で出た。嘘だった。でも嘘をつくしかない。
「屋上で見たよ。左手のポジション、全部合ってた。エアギターであのフィンガリングできる人、弾けないわけないでしょ」
血の気が引いた。やっぱり見ていた。しかもちゃんと見ていた。ポジションまで確認していた。こいつは——楽器をやる人間だ。素人があの距離でフレットの位置なんか見えない。
「……あれは」
「言い訳はいいから。ギター、うち足りてないの。文化祭まであと二ヶ月半で、募集かけても来なくて、正直めちゃくちゃ焦ってる」
彩音は早口だった。焦りを隠そうとして隠しきれていない。言葉の端が少し上ずっていて、息継ぎのタイミングが浅い。追い詰められた人間の喋り方だった。
「俺には関係ない」
鞄を掴んで立ち上がった。帰る。この会話を一秒でも長く続けたくない。教室で目立っている。誰かが見ている。「桐谷ってギター弾けるの?」という囁きが今にも聞こえそうで、背中が粟立った。
「一回だけ」
彩音が俺の横を通り過ぎざまに言った。
「一回だけ音楽室来てくれない? 弾かなくていい。見るだけでいいから」
振り返らなかった。早足で廊下に出て、下駄箱に向かう。後ろから足音はついてこなかった。追ってこない。その事実にほんの少しだけ拍子抜けしたのが、自分でも意味がわからなかった。
下駄箱で靴を履き替える間、手が震えていた。怒りなのか恐怖なのか、自分でもわからない。ギターを弾ける。それが知られた。たった一人にだけど、知られた。中学の時と同じだ。目立つ入り口は、いつもこうやって——。
校門を出て、帰り道を歩く。四月の終わりの風がぬるくて、生温い空気が首に絡みつく。イヤホンを耳にねじ込んで、音量を上げた。ギターの轟音で頭を埋めたかった。
「一回だけ音楽室来てくれない?」
彩音の声が、音楽の隙間に残っている。
断った。断った。ちゃんと断った。もう終わりだ。
——なのに、足が遅くなっている。
立ち止まった。住宅街の路地の真ん中で、スマホの画面を見つめる。プレイリストの曲名が並んでいる。全部ギターが主役の曲ばかりだ。毎日聴いて、毎日エアで弾いて、それで満足していたはずだった。ギターは弾かない。弾けば目立つ。目立てば壊される。その法則は——。
「弾かなくていい。見るだけでいいから」
見るだけ。
頭の中で言い訳が組み上がっていく。見るだけなら弾いたことにはならない。音楽室に行くだけなら目立たない。断るにしても、ちゃんと面と向かって断ったほうが後腐れがない。こうやって廊下で追いかけられるより、一回行って「やっぱり無理」と言ったほうが、確実に終わる。
全部、嘘だとわかっていた。
本当は、知りたかった。あの時、彩音が手すりを叩いていたリズム。シンコペーションのかかった、ただのリズムじゃない叩き方。こいつは何を弾くんだろう。どんな音を出すんだろう。
その好奇心が、三日間で膨らんで、今、足を止めている。
「……最悪だ」
呟いて、踵を返した。
学校に戻る道は、来た時より短く感じた。下駄箱で上履きに履き替えて、二階の音楽室に向かう。廊下には帰宅する生徒がまばらにいて、俺とすれ違っても誰も気にしない。透明人間は便利だ。どこに行っても怪しまれない。
音楽室は校舎の端にある。近づくにつれて、廊下が静かになった。部活の掛け声も遠くなって、自分の上履きのペタペタという音だけが響く。窓から差し込む西日がリノリウムの床をオレンジに染めていて、埃が光の中をゆっくり漂っている。
音楽室のドアの前で、足が止まった。
——聴こえる。
低い音。太くて丸くて、空気を内側から押すような振動。ベースだ。エレキベースの、指弾きの音。ドアの向こうから、旋律が漏れ出している。ドアの薄い鉄板を通してもなお、腹の底に届く低周波。床から靴底を伝って、骨で聴いているような感覚。
知っている曲だった。俺のプレイリストに入っている曲のベースライン。原曲ではギターの陰に隠れてほとんど聞こえないパートを、彩音は——たぶん彩音だ——一人で弾いている。正確で、でも機械的じゃない。音の一つ一つに微妙な強弱があって、フレーズの切れ目で息継ぎするみたいに間が空く。
指が疼いた。
右手がジーンズのポケットの中で、無意識にピッキングの形を作っている。このベースラインの上に、ギターが乗る。頭の中で音が重なった。ここにカッティングを入れて、サビ前でアルペジオに切り替えて、ソロの入りはハンマリングからの——。
ドアノブに手が伸びかけて、止まった。
握りしめた拳を、無理やり体の横に戻す。息を吐いた。音楽室の前の廊下で、ベースの音に包まれたまま、俺は立ち尽くしている。
帰れ、と頭が言う。
聴いていたい、と指が言う。
ベースが次のフレーズに移った。テンポが上がって、弦を叩くようなスラップが混じる。彩音の指が弦に当たるパチッという音が、ドアの隙間から漏れる。
俺の右手が、ポケットの中で動き始めた。
今度は止められなかった。