第1話
第1話
誰にも見つからない場所を、俺はいつも探している。
四月の始業式が終わって、新しいクラスの教室に戻った瞬間、空気の重さが変わった。三十何人かの視線が交差して、グループができて、声が重なって——その全部が、俺の体を透過していく。教室の匂いが鼻についた。新しいワックスと、誰かの柔軟剤と、春の埃っぽさが混ざった、始まりの季節の匂い。席は窓際の一番後ろ。担任が「桐谷蓮くん」と名前を読み上げたとき、小さく手を挙げた。それだけで心臓が一回、余計に跳ねた。声が出なかった。「はい」の一文字が喉に引っかかって、結局、手だけで返事をした。
誰も俺を見ていない。それでいい。
中学二年の秋から卒業まで続いた一年半を、俺は「あの時期」としか呼べない。言葉にすると輪郭ができて、輪郭ができると中身が戻ってくる。上履きがなくなった朝。机に水をかけられた五時間目。「お前が気持ち悪いから」と言われて、反論の言葉が喉に詰まった放課後。教室の隅で息を潜めていると、自分の存在がどんどん薄くなっていくのがわかった。透明になりたかった。本当に透明になれたら楽なのに、体だけはそこにあるから、的にされる。だから考えない。思い出さない。誰とも関わらなければ、あれは二度と起きない。
窓の外で桜が揺れていた。花びらが一枚、開いた窓から入ってきて、俺の机の端に落ちた。拾わなかった。触れたら何かが始まりそうで、怖かった。
四時間目が終わるチャイムが鳴った瞬間、俺は教科書を鞄に突っ込んで立ち上がる。昼休みの教室は戦場だ。弁当を広げるグループ、購買に走る集団、廊下で固まる女子——どこにも俺の椅子はない。一人で弁当を食べるのは目立つ。目立つのは危険だ。だから食べない。昼は食べないことにしている。腹が鳴るのは我慢できるけど、誰かに「一緒に食べよう」と気を遣われるほうが、よほどきつい。
だから屋上に行く。
非常階段を上がって、重い鉄扉を押し開ける。錆びた取っ手がざらついた感触を掌に残す。四月の風が正面から吹きつけて、前髪が跳ねた。フェンスの向こうに校庭のグラウンドが広がっていて、野球部がノックの準備をしているのが見える。金属バットの甲高い音が、風に乗って断片的に届く。ここには誰も来ない。鍵がかかっているはずのドアが、なぜか二年前からずっと開いている。その理由を知っているのは、たぶん俺だけだ。
コンクリートの床に腰を下ろして、壁に背中を預ける。壁は日向の側なのにひんやりしていて、制服のシャツ越しに背骨が冷えた。鞄からイヤホンを取り出して、スマホに繋ぐ。再生ボタンを押す。
音が流れ込んできた瞬間、世界が閉じる。
ギターのイントロ。歪んだ音が低いところから立ち上がって、ドラムのキックに乗って加速していく。好きなバンドの、好きな曲。歌詞の意味なんてどうでもよくて、この音の塊が鳴っている間だけ、俺は息ができる。
——右手が動いていた。
膝の上で、指が弦を弾く形を作っている。ダウンストローク、アップストローク。ブリッジミュートの刻み。サビ前のアルペジオに切り替わるところで、左手がネックを押さえる形になる。五フレット、七フレット、開放弦に戻って——全部、体が覚えている。
ギターは持っていない。中学の入学祝いに買ってもらったストラトキャスターは、実家の押し入れに突っ込んだままだ。サンバーストの塗装に小さな傷がついていて、それが妙に気に入っていた。「あの時期」の前まで、毎日弾いていた。合唱コンクールの伴奏を任されて、練習のために音楽室に残って弾いていたら、クラスの中心にいた連中に見つかった。「調子乗ってんの?」。その一言から全部が始まった。
だからギターは弾かない。弾けば目立つ。目立てば叩かれる。その法則は、俺の体に刻まれている。
——でも、指は動く。
曲が間奏に入った。ギターソロ。速いパッセージが駆け上がって、チョーキングで頂点に達して、そこからハンマリングとプリングの連続で降りてくる。俺の左手はフレットを正確に追って、右手はピッキングの角度まで再現している。空気しか鳴っていないのに、指先には弦の感触がある。硬くて細い、あの金属の手触り。爪の先に食い込むような圧力まで、幻みたいに感じる。
目を閉じた。風が髪を揺らして、コンクリートの冷たさが腰を通じて伝わってくる。イヤホンの中ではギターが叫んでいて、俺の指は空中で同じ旋律を叫び返している。ここでは誰にも見られない。誰にも聞かれない。だから自由に動ける。
音楽は好きだ。
その気持ちだけは、どれだけ踏みつけられても消えなかった。むしろ「あの時期」を経て、音楽だけが残った。友達も、自信も、人前で笑う方法も全部なくなったのに、メロディを聴くと指が反応する。心臓が動くみたいに、止められない。
嬉しいのか、悲しいのか、よくわからなかった。
曲がフェードアウトして、次のトラックに切り替わる。少しテンポの遅いバラードのイントロ。俺は目を開けて、空を見上げた。四月の雲が白くて薄くて、風に流されて形を変えていく。あと五十分。五十分だけ、ここにいられる。五時間目のチャイムが鳴ったら教室に戻って、また透明人間をやる。
それが俺の高校生活だ。
一年間それで通した。二年目も同じだと思っていた。誰にも関わらず、誰にも見つからず、卒業まで息を殺して——。
「——へえ」
その声は、聴こえないはずだった。
イヤホンをしていた。音量は大きめだった。屋上には俺しかいないはずだった。
なのに、その一音だけが、曲の隙間を縫って耳に届いた。
反射的に振り返る。非常階段のドア——半開きになったその向こう、踊り場の手すりに肘をついて、一人の女子がこっちを見ていた。
肩にかかるくらいの髪。制服の袖を肘まで捲っていて、左手の指先がリズムを取るように手すりを叩いている。柔らかい笑い方をする目が、俺の手元——さっきまでエアギターを弾いていた、何もない膝の上を見ていた。
心臓が凍った。
見られた。
何も弾いていない手で、空気を掻いているところを。一番見られたくない姿を。カッコ悪くて、惨めで、痛々しい、音の出ないギターを。
動けなかった。喉が詰まって、言い訳も出てこない。逃げたいのに足が動かない。背中の壁が急に硬く感じて、肩甲骨が張りついたみたいに重い。中学の記憶が一瞬フラッシュバックした——「調子乗ってんの?」「気持ち悪い」「何あれ、エアギターだって」——。耳の奥で血液が脈打つ音がして、イヤホンの音楽が遠くなった。
女子は何も言わなかった。
口元に浮かんだ笑みは、嘲笑じゃなかった。たぶん。でも確信は持てない。俺にはもう、人の表情を正しく読む力が残っていない。
数秒——たぶん三秒か四秒。彼女は手すりから体を起こして、小さく何かを呟いた。聞き取れなかった。それから踵を返して、階段を降りていった。コツ、コツ、と上履きの音が遠ざかって、消えた。
俺は座り込んだまま、しばらく動けなかった。
イヤホンからはまだ音楽が流れている。バラードのサビ。ギターが切なく伸びて、ボーカルが重なる。さっきまで自由に動いていた指は、膝の上で握りしめたまま、もう動かなかった。爪が掌に食い込んでいるのに、痛みを感じない。
——誰だ、あれ。
見覚えのない顔だった。同じクラスじゃない。たぶん。でも俺はクラスメイトの顔を半分も覚えていないから、断言はできない。あの手すりを叩くリズムの取り方。均等じゃなくて、どこかシンコペーションがかかっていた。上履きの足音。何かが、普通の「通りがかり」とは違った。
考えるな、と自分に言い聞かせる。関わるな。誰であっても、俺には関係ない。見られたのは気まずいけど、忘れてくれるだろう。屋上でエアギターしてる陰キャのことなんて、明日には記憶から消える。
五時間目のチャイムが鳴った。
俺はイヤホンを外して、鞄を持って立ち上がる。鉄扉を閉めて、階段を降りる。踊り場を通るとき、さっき彼女が肘をついていた手すりに目が行った。何も残っていない。当たり前だ。
教室に戻ると、誰も俺を見なかった。
いつも通り。透明人間の午後が始まる。それでいい。それがいい。
——なのに、右手の指先がまだ、微かに疼いていた。