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鋳る者——薩摩幕末奴隷譚

第2話 第2話

第2話

第2話

馬蹄の音は、風を裂いて近づいた。

少女は枯れ枝を握ったまま、松林の向こうに視線を走らせた。四騎、いや五騎。砂を蹴る蹄の律動が波音を呑み込み、野犬の唸りをかき消していく。先頭の一匹が耳をそばだて、喉の奥で小さく啼いた。群れの動きが一瞬、揺らいだ。

松の間を縫って、黒毛の駿馬が姿を現した。乗り手は黒羽織に袴。鞘を払う前から、その鍔鳴りが微かに響いた。続いて白鉢巻の従者が二騎、遅れて二騎。皆、腰に打刀を帯び、背には弓を負った者もある。少女は息を詰めた。知らぬ装束。知らぬ髷。だが、纏う気配だけは分かった。戦う者の気配。命を奪うことに慣れた者の、抑えつけた息遣い。

「畜生が、この浜まで下りてきおったか」

先頭の騎馬武者が声を上げた。少女の耳にはただの響きでしかなかったが、その声音には迷いがなかった。続く所作もまた、無駄がない。男は片手綱のまま、鞍脇から短弓を引き抜いた。矢筈が番われる音は、風の中でなお鋭く聞こえた。

弦音がひとつ、松の葉を揺らした。

先頭の野犬が砂を噛んで崩れた。喉に矢が深々と刺さっている。血が噴き、白い砂を黒く染めた。二匹目の牙が剥かれたそのとき、別の騎馬が疾風の如く割り込み、馬上から一閃——刃の光が弧を描き、獣の首が宙を舞った。少女は枝を握る指を動かせなかった。目の前で行われたのは、元の世界の魔術師たちが炎で生き物を焼き払うのとは違う、金属と筋肉だけで完結する殺生だった。手際が、余りにも静かだった。

残りの野犬は牙を鳴らしながら退き、やがて松林の奥へと消えた。砂に残ったのは二つの骸と、血溜まりと、小刻みに震える少女の膝だけ。

黒羽織の騎馬武者が、少女の数歩手前で馬を止めた。降りる気配。革足袋が砂を踏む音。近づいてくる男の背丈は存外低く、しかし肩幅は広く、目元には若さと老成が同居していた。歳の頃は四十前後か。眉の太く整った、色の浅黒い顔。袴の裾に薩摩紋の透かしが入っているのを、少女は見逃さなかった。

男は少女の前でゆっくりと膝を折った。

「おはんは、何処ん者じゃ」

【展開】

言葉は通じなかった。だが、声音には怒気も侮りもなかった。少女は枝を握ったまま、ただ男の顔を凝視した。男もまた、少女の面貌を穏やかに見つめ返している。襤褸を纏った異貌の娘。金に近い髪。瞳の色は灰緑。焼けた砂のように白い肌。薩摩の浜にはありえぬ容姿であった。

男は従者に目配せをした。従者のひとり——背の高い、顎の張った壮年の武士——が馬を降り、水筒を外して差し出した。「飲め」と言ったのだろうか。男が竹筒の栓を抜き、少女の口元に傾けてみせた。少女は咄嗟に身を引こうとしたが、渇ききった喉が先に動いた。震える指で枝を捨て、両手で竹筒を受け取る。ひと口、ふた口。冷えた真水が咽喉を流れ落ちた瞬間、視界が滲んだ。

男は少女の首筋に目を留めた。

焼印。掠れた襤褸の襟元から、紅く爛れた痕が覗いている。円の中に三叉の文様。元の世界で「所有」を示す印。男は眉を寄せ、ほんの束の間、瞳の奥に別種の光を灯した。好奇ではない。怒りでも同情でもない。——これは何だ、という、静かな問いの光だった。

男は従者に向けて低く告げた。

「鹿児島んまで連れて帰る。誰にん見せぬよう、駕籠ば用意せえ」

「お忍び巡察の帰路にござりますれば、他人目を避くるが肝要かと」

「分こうちょる。されば尚のこと、この娘ば放りては置けぬ」

言葉のやり取りは少女には届かなかった。ただ、男が自分を指差し、次に松林の奥を指し、最後に自らの馬を指したので、連れて行く意があるのだと察した。少女は身構えた。連れ去られる。また鎖か。また炉の前か。逃げようとして、しかし脚が動かぬ。四半刻前まで野犬に喰われかけていた身体は、もう立っているだけで精一杯だった。

男は少女の警戒に気づいたらしい。懐から手拭いを出し、自分の帯刀を鞘ごと引き抜き、従者に預けた。丸腰になった掌を、ゆっくりと少女の眼前に広げて見せる。

「斉彬じゃ」

男は自身の胸を指し、そう告げた。

「な・り・あ・き・ら」

三度、区切って繰り返した。それから少女の胸を指して、軽く首を傾げてみせる。——おぬしは、何と申す。

少女は口を開きかけて、閉じた。与えられた名はなかった。呼ばれていたのは「器」とか「四番」とか、それだけだった。少女は自分の咽喉元に指を当て、横に振った。男——斉彬という名の男——は、それ以上問わなかった。ただ頷き、羽織を脱いで少女の肩にかけた。温もりが背中の鞭痕に触れ、少女はびくりと身を震わせた。痛みではなく、その羽織の質量に、だった。覚えのない重さだった。護られることの重さというものを、少女は知らなかった。

【転機】

駕籠の揺れは、波に似ていた。

板と竹で組まれた粗末な駕籠の中で、少女は膝を抱えていた。従者たちは浜辺近くの漁村で一挺の駕籠を調達したらしかった。二人の担ぎ手が前後に立ち、斉彬と従者が騎馬で随伴する。簾の隙間から覗く景色は薩摩の郊路だった。松並木、麦畑、茅葺の家々、遠く煙を上げる桜島の影——少女の頭の中の知識が、その円錐形の山を見た瞬間、ひとつの時代、ひとつの地図の上に、この浜辺を位置づけた。

嘉永。十九世紀半ば。東アジア極東の島国の、最南の藩。

頭蓋の内側で歯車が噛み合う音がした。元の世界で叩き込まれた歴史の知識——あの魔術師たちが「他の世界の技術史」として少女に詰め込んだ雑多な情報の中に、確かにこの国の、この時代の名が記されていた。黒船が来る前夜。攘夷と開国の狭間。そして薩摩藩——島津家——集成館事業。

島津斉彬。

少女は膝の上で指を震わせた。胸を指されて告げられた、あの名。那利阿伎良。おそらくその名。もし、万が一、合致しているのなら——この国を倒幕へと傾ける手前で毒殺される、あの英邁の藩主その人なのだ。

駕籠は夕刻に鹿児島城下へ入った。門番の誰何を斉彬が低い一声で退け、屋敷の裏門を潜る。玄関ではなく、離れの土間口に駕籠が着けられた。他人目を避けるためと知れた。案内されたのは、庭の奥まったところにある三間続きの離れの一室であった。障子。畳。蒲団。行灯。すべてが少女の知らぬものだったが、頭の知識がそれぞれの名を告げた。紙と木と藁で構成された、燃えやすい建築。

「血と砂ば、まず落とさせ申せ」

斉彬の声に従い、下女が二名、盥と手拭いを運んできた。下女らは少女の異貌を見て一瞬息を呑んだが、目線を伏せ、口を閉ざした。湯は程よく熱く、布は清かった。背中の鞭痕を拭われるとき、少女は歯を食いしばって声を殺した。だが下女の手は雑ではなかった。傷を避けるように、あるいは傷を労るように、丁寧に、塩を落としていった。少女の記憶の中で、誰かに触れられてこれほど痛まぬということは、一度もなかった。

麻の襤褸は取り上げられ、代わりに木綿の寝巻きが与えられた。汁物と粥が膳に運ばれた。食せと身振りで示され、少女は警戒しながら箸を取ろうとして、握り方が分からず、結局指で粥を掬った。下女らは何も言わなかった。梅干の酸味が舌の奥を刺し、塩気が沁み、喉を通った粥の温みが腹の底でゆるりと広がった。食い終えたのち、少女は椀を置いた指先が震えていることに気づいた。毒は、盛られていなかった。

やがて行灯が一つだけ残され、障子が閉められた。

静かな夜だった。

少女は蒲団には入らず、畳の隅に膝を抱えて蹲った。蒲団の柔らかさが怖かった。いつ剥ぎ取られるか分からぬものに身を任せることが、どうしてもできなかった。遠くで夜鴉が鳴き、庭の竹が風に鳴り、見張りらしき足音が廊下の端を一度だけ通った。

誰も、部屋に入ってこなかった。

誰も、鎖を掛けに来なかった。誰も、鞭を持って現れなかった。誰も、知識を注ぎに来なかった。少女は障子に映る行灯の明かりを見つめたまま、夜更けまで膝を抱え続けた。背中の鞭痕が、布団の白い綿と擦れて、少しだけ、痛んだ。痛んだ。それが、痛みだけであることが、信じられなかった。

瞼が落ちる寸前、少女は声にならぬ息を吐いた。殴られぬ夜が、この世にあるということを、少女は生まれて初めて知った。

【引き】

暁の薄明かりが障子を白く染める頃、少女は目を覚ました。

一睡か、二睡か。それ以上は眠れなかった。身体は強張り、背の傷は熱を持っていたが、頭だけは冴え冴えと澄んでいた。嘉永。薩摩。島津斉彬。集成館。反射炉。——昨夜、駕籠の中で繋がり始めた糸が、一晩で一本の縄に撚り上がっていた。

少女は足音を立てぬよう、部屋を出た。廊下を抜け、土間口へ降りる。竃の脇、昨夜の薪の燃え残りが白い灰となって溜まっていた。少女は屈み込み、右の人差し指で、灰の上に線を引いた。

一本、縦。その上に、半円の丸天井。片側に煙道を伸ばし、対する側に溶解室と焚口を配する。燃焼室の底は傾斜をつけ、熔けた鉄が自ずと鋳型へ流れるよう描き込む。指先が灰を刻むたび、かつて魔術師に刻まれた図面が、少女自身の意思として甦ってくる。

背後で、微かな衣擦れがした。

少女は振り返らなかった。振り返らずとも、その気配が誰のものか、分かっていた。昨日、少女の肩に羽織を掛けたあの男。冷たくも熱くもない、静かな問いの光を瞳に宿したあの男。

斉彬は、土間の入口に立ち尽くしたまま、灰の上の線を凝視していた。

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