第1話
第1話
波の音が、死者を起こした。
冷たい。それが、最初に戻ってきた感覚だった。全身を包む水の冷たさ。砂利が頬に食い込む痛み。塩の匂い。少女は咳き込み、海水を吐いた。肺が灼けるように軋み、喉の奥から錆びた味が込み上げる。
目を開けた。
灰色の空。見知らぬ空。あの世界の、魔力で染まった紫紺の天蓋ではない。ただの曇天。ただの、何の力も宿らぬ空だった。
波が引く。足首を濡らしていた水が去り、代わりに砂の感触が肌を撫でた。少女は身じろぎしようとして、全身に走る痛みに呻いた。背中。肩。腰。右の脇腹。鞭の痕がひとつ残らず悲鳴を上げている。首筋には焼印の皮膚が引き攣れ、呼吸のたびに張りつくように痛んだ。
——ここは、どこだ。
記憶は途切れ途切れだった。最後に覚えているのは、暗い部屋。石の床。鎖。そして主人の声。「もう使えぬ」。その一言のあとに、足元が崩れた。光も音もない虚無の中を落ちて、落ちて——気がつけば、この浜辺にいた。
少女はゆっくりと首を巡らせた。左手には黒々とした岩場が連なり、右手には砂浜が弓なりに続いている。背後は鬱蒼とした松林。波打ち際に打ち上げられた海藻と流木の間に、自分の身体が横たわっていた。
纏っているのは、元の世界で着せられていた麻の襤褸だけだった。破れ、塩水を吸い、身体に張りついている。素足。武器もなければ、食料もない。あるのは——痛みと、頭の中に詰め込まれた知識だけ。
少女は両手を砂につき、身を起こそうとした。腕が震える。何度も主人の館で倒れ、そのたびに蹴り起こされた。あのときは命令に従うために起き上がった。だが今は違う。命じる者は、もういない。
砂を掴んだ指が白くなるほど力が入った。歯を食いしばり、膝を立てる。視界が揺れた。飢えと渇きで身体が限界に近いことは、自分の知識が冷静に告げていた。脱水。低体温の初期症状。栄養失調による筋力の著しい低下。このまま動かなければ、今夜の冷え込みで死ぬ。
それでも、少女は立ち上がった。
膝が笑い、二度よろめいた。三度目に、どうにか両足で砂浜に立った。潮風が襤褸の裾を攫い、背中の傷痕を容赦なく冷やす。少女は腕で身体を抱いた。寒い。痛い。怖い。けれど——不思議と、胸の奥に灯るものがあった。
捨てられた。用済みの道具として、次元の狭間に放り出された。名前すら与えられなかった。十二の年から鎖に繋がれ、知識を搾り取られ、身体を酷使され、壊れかけたところで廃棄された。
——だが、死ななかった。
少女は顔を上げた。潮の香りが鼻腔を満たす。波の音が途切れることなく続いている。あの世界にはなかった音。あの世界にはなかった、塩辛い風。ここがどこであれ、あの鎖のある場所ではない。
それだけで、十分だった。少なくとも今は。
足を引きずるようにして砂浜を歩き始めた。まず水を探さねばならぬ。真水。次に食料。それから——この場所が何処なのかを知る手がかり。少女の視線が松林の奥へと向かう。松。針葉樹。潮風に耐える樹種。海岸線の植生としては合理的だが、元の世界にこの種の松はなかった。つまり、あの世界とは異なる場所。それは確かだった。
松林に踏み入ろうとしたとき、足元の砂に見慣れぬものを見つけた。足跡。人間の足跡だ。しかも草鞋の痕——少女の知識が即座にそれを分類した。編み草履。植物繊維を編んだ履物。技術水準としては——。
少女は眉を顰めた。頭の中の知識が、ある時代の、ある地域の特徴と照合を始めている。松林の樹種。砂浜の地質。空気の湿度と温度。そして草鞋の編み方。断片的な情報が、ひとつの像を結ぼうとしていた。
だが今は、それより先に水だ。
松林の中は薄暗く、地面は落ち葉と砂が混じり合っていた。枝の隙間から差し込む鈍い光が、湿った空気に筋を描いている。松脂の匂いが鼻腔の奥を刺し、それが潮の香りとは異なる、土と樹木の生きた匂いだと少女は気づいた。足裏に落ち葉の柔らかさと、その下に隠れた小石の硬さが交互に伝わる。少女は苔むした岩肌を見つけ、その表面に滲む水滴を指で拭った。舌先に乗せる。真水。苦みはない。冷たい雫が乾ききった舌を濡らし、喉を伝い落ちていく。その僅かな潤いが、身体の芯にまで染み渡るような錯覚を覚えた。少量だが、当座の渇きを紛らわせる程度にはなった。
岩陰に身を寄せ、膝を抱えた。身体の震えが止まらない。元の世界で鍛えられた——鍛えられたのではない、酷使された——身体は、もはや限界を超えていた。傷が膿みかけている箇所がある。右肩の鞭痕は特に深く、腕を上げるたびに裂けるような痛みが走る。
目を閉じると、暗闇の中に記憶が蘇った。
石造りの工房。炉の熱。金属の匂い。少女は鎖に繋がれたまま、主人の命ずるままに図面を引き、配合を教え、工程を管理させられた。知識は元からあったのではない。主人が——あの世界の魔術師が、何らかの術で少女の頭に叩き込んだものだ。冶金。火薬。築城。医術。膨大な知識を器として受け止めるための、使い捨ての容れ物。それが少女の役割だった。
知識を注がれるたびに、頭が割れるように痛んだ。何度も意識を失い、鼻から血を流し、それでも「まだ入る」と次の知識を押し込まれた。壊れた者もいた。少女の前に同じ役割を負わされていた子供たちは、三人とも廃人になって処分された。少女が四人目で——そして最後だった。
使い潰した。それだけのことだった。
少女は目を開けた。涙は出なかった。枯れたのか、それとも最初から泣き方を知らなかったのか。ただ、胸の奥で、冷たい炎のようなものが揺れていた。
——殺してやりたい。
それは初めて抱いた、自分自身の感情だった。命じられたのでも、注がれたのでもない。あの主人を。あの工房を。あの世界で鞭を振るい、鎖を繋ぎ、子供の頭に知識を詰め込んでは壊して捨てた者たちを。
だが、少女は首を横に振った。殺しに戻る力などない。そもそも、あの世界に戻る術がない。ならばせめて——。
せめて、この知識を、自分のために使う。道具としてではなく。誰かの命令のためでもなく。初めて、自分の意志で。
砂を握りしめた指を開き、少女は掌を見つめた。豆だらけの、傷だらけの手。けれど、この手で図面を引ける。炉を設計できる。鉄を、鋼を、火薬を——この頭の中にあるすべてを、形にできる。
捨てられたのではない。
——解き放たれたのだ。
自分にそう言い聞かせた。言い聞かせなければ、この場に蹲って動けなくなりそうだった。少女は岩肌に手をつき、再び立ち上がった。松林を抜け、人の居る場所を探す。この世界の言葉を覚え、この世界の理を知り、そして——。
そのとき、風向きが変わった。
潮の香りに混じって、獣の匂いが鼻を突いた。濡れた毛皮と腐肉の混じったような、酸い悪臭。少女は反射的に身を強張らせた。元の世界で覚えた、危険を嗅ぎ取る本能。松林の奥、砂浜との境目あたりから、低い唸り声が聞こえた。
一つではない。二つ。三つ。
少女は音の方角を見据えた。松の木々の隙間に、影が動いている。痩せた——犬だろうか。だが目が据わり、口元から涎を垂らし、こちらを値踏みするように歩を進めてくる。飢えた野犬の群れ。先頭の一匹は肋骨が浮き出るほど痩せ細り、左耳が半ば千切れていた。喉の奥から絞り出される唸り声は、飢えが恐怖を凌駕した獣だけが発する音だった。
弱った獲物を、嗅ぎつけたのだ。
少女は背後の岩に手をついた。武器はない。走る脚力もない。頭の中には城壁の設計図も大砲の鋳造法もあるのに、今この瞬間、一匹の野犬を退ける手立てすら持たぬ。
唸り声が近づく。四つ目の影が松林から現れた。包囲されつつある。
少女は歯を食いしばった。ここで死ぬのか。あの世界で死ねず、名もない浜辺で獣に喰い殺されるのか。
——嫌だ。
まだ、何も成していない。何も返していない。この知識を、この命を、自分のために使うと決めたばかりだ。
少女は岩陰から枯れ枝を一本拾い上げた。腕ほどの太さもない、折れかけの木の枝。こんなもので野犬の群れに敵うはずもない。それでも、握った。手が震えている。全身が震えている。それでも——。
先頭の一匹が、地を蹴った。
そのとき。
松林の向こうから、馬蹄の音が響いた。