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透明な僕のフレーム

第2話 第2話「Shortlistedの七文字」

第2話

第2話「Shortlistedの七文字」

映画祭のメールを開いてから、三十分が経っていた。

画面の文字はまだそこにある。"Shortlisted"の七文字が、モニターの青白い光の中で静かに光っている。何度見返しても消えない。スパムでも、夢でもない。僕は椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げた。心臓がまだ少しだけ速い。三十分前の衝撃が、鳩尾のあたりにぬるく残っている。自分の部屋の天井には、小学生のときに貼った蓄光シールの剥がし跡がうっすら残っている。あの頃は星が好きだった。今は光と影を切り貼りして、別の星を作っている。

左のモニターに目を移す。ブラウザのタブを切り替えると、見慣れたダッシュボードが開いた。

"yonder" ——それが僕のアカウント名だった。

フォロワー数、四万二千。最後に投稿した作品の再生回数が十一万を超えている。通知欄には英語、フランス語、韓国語、読めない文字が並んでいる。コメント欄をスクロールすると、"This changed how I see rain"とか、"あなたの色彩感覚は映画的というより詩的だ"とか、そういう言葉が連なっていた。どれも、教室では一度も言われたことのない種類の言葉だ。

DMの未読が十四件。映画祭関係者からの問い合わせが二件混ざっている。一件は今回のショートリストに関する事務連絡。もう一件は、別のフェスティバルのプログラマーからの招待だった。

"Would you be interested in screening your work at our festival in October? We'd love to feature yonder's latest piece."

丁寧な英文を読みながら、僕は返信の下書きを開いた。いつもと同じテンプレートを使う。感謝を述べ、作品の使用条件を確認し、スケジュールを聞く。そのどこにも、本名は書かない。住所も、年齢も、日本の高校生であることも。yonderという名前だけが、僕と世界をつなぐ唯一の糸だった。

プロフィール欄には何も書いていない。アイコンは自分で撮った電線の写真。位置情報はオフ。投稿する映像にも、特定につながる要素は徹底的に排除してある。学校の制服、近所の風景、自分の声——全部、使わない。被写体は旅先で撮った風景か、誰のものでもない抽象的な光と影だけ。

それでも、バレるかもしれないという恐怖は常にある。

SNSの検索窓に自分の高校の名前を入れて、yonderと紐づく投稿がないことを確認する。月に一度のルーティン。今月も、何も出てこない。息をつく。大丈夫。まだ、二つの世界は交わっていない。

スマホの通知が光った。動画投稿サイトのアプリ。三ヶ月前にアップした作品に、また新しいコメントがついている。

"yonderの作品を観ると、自分が普段見ている景色がまるで違うものに見える。目の解像度が上がるような感覚。"

画面をそっと伏せた。嬉しくないわけじゃない。でも、この言葉をくれた人は、僕が誰なのか知らない。教室で透明な顔をして座っている高校三年生だと知ったら、同じ言葉をくれるだろうか。

たぶん、くれる。作品は作品だから。

でも、僕のほうが耐えられない。

yonderとして評価される自分と、藤原遥斗として透明な自分。その落差を、誰かの目の前で晒すことが怖い。「え、あの地味な奴が?」という反応が怖いんじゃない。正確に言えば、その反応を受けた瞬間に、yonderまで汚れてしまうような気がするのだ。匿名だから純粋でいられた。作品だけで判断してもらえた。名前と顔がつけば、そこに「高校生のくせに」とか「見た目と違って」とか、作品と関係ない文脈がまとわりつく。

それが嫌だった。本当に、嫌だった。

だから僕は、二つの世界を完璧に分けてきた。学校では何も作らない。家では学校の痕跡を残さない。映像を撮るときは電車で三駅以上離れた場所まで行く。編集ソフトのプロジェクトファイルにはパスワードをかけ、ブラウザの履歴は毎晩消す。

その徹底ぶりを、自分でも少し異常だと思う。

でも今日、映像研の部室でパイプ椅子に座ったとき、ほんの一瞬だけ思ったのだ。あの埃だらけの部屋の、古いブラウン管モニターと色褪せたVHSテープの並ぶ棚を、カメラで撮ったらどう映るだろう、と。

夕方の斜光が窓から差し込んで、空気中の塵がゆっくり泳いでいた。あの光の粒子を逆光で捉えたら、きっと美しい。パイプ椅子の錆びた脚と、リノリウムの床と、窓の外のグラウンドの声。使われなくなった場所に残る時間の堆積。それは僕が好きな被写体そのものだった。

——撮りたい、と思った。

指先が無意識にスマホの形を探っていた。ポケットの中の冷たい長方形に触れて、我に返る。

でも、撮らない。あの場所で撮れば、学校と映像が結びつく。二つの世界の境界線に亀裂が入る。だから、あの衝動は、ないことにする。

モニターに向き直って、映画祭の事務連絡に返信を打った。必要事項だけの簡潔な文面。送信ボタンを押す前に、もう一度プロフィール欄を確認した。名前なし、場所なし、顔なし。完璧な匿名。完璧な、透明。

学校の僕は誰にも見えない。ネットの僕は誰にも見つからない。どちらも透明であることに変わりはなくて、ただ、片方だけが輝いている。

その歪さに、僕はもう慣れたつもりでいた。

翌日の放課後、部室に行くつもりはなかった。宮本先生には「一回顔を出す」と言っただけだし、河合も瀬尾も僕を必要としていない。名簿に名前があればいい。それだけの関係だ。

でも、教室を出たとき、足が東棟の方向に向いていた。理由はわからない。たぶん、昨日の夕日の光を確認したかっただけだ。あの部室の窓から差す光の角度を、もう一度見ておきたかった。撮らないけれど、見るだけなら許される。

廊下の蛍光灯は昨日と同じく一本切れていた。ドアを引くと、河合がパイプ椅子に座ってスマホをいじっていた。昨日と全く同じ姿勢。瀬尾は窓際で、昨日とは違う文庫本を開いている。

「あ、先輩。来たんすね」

河合が少し驚いた顔をした。心底意外、という目だ。

「ちょっと、忘れ物」

嘘だった。忘れ物なんてない。河合は「ふーん」と興味なさそうに視線をスマホに戻した。

僕は昨日と同じパイプ椅子を引き出して座った。同じ軋み音。同じ埃の匂い。でも窓から差す光は昨日より角度が浅くて、棚のVHSテープの背表紙に長い影を落としていた。四月の日没は日に日に遅くなるから、光の色も少しだけ変わる。昨日は橙に近かったものが、今日は金色寄りだった。

きれいだ、と思った。

瀬尾が文庫本の上から僕を見ていることに気づいた。目が合うと、彼女はすぐに視線を本に戻した。何か言いたそうだったけれど、何も言わなかった。その沈黙が、不思議と居心地悪くなかった。

「あ、そういえば」

河合がスマホから顔を上げて、思い出したように言った。

「文化祭の部活動審査、来月だって」

他人事のような口調だった。自分に関係あることとは微塵も思っていない声色。瀬尾が文庫本のページをめくる音だけが、短い沈黙を埋めた。

「審査って、何を出すんですか」

僕は聞くつもりのなかった質問を口にしていた。河合は肩をすくめた。

「さあ。活動実績とか作品とか。まあ俺ら何もやってないんで、出すもんないっすけど」

瀬尾がぱたん、と本を閉じた。窓の外を見ている。夕暮れのグラウンドに、野球部のノックの音が響いていた。金属バットがボールを弾く、硬い音。その合間に、誰かの掛け声がくぐもって聞こえてくる。

「出せなかったら、廃部だよね」

瀬尾が静かに言った。河合は「だろうね」と返して、またスマホに目を落とした。

廃部。その言葉が、埃の浮かぶ空気の中で、小さく沈んだ。

僕には関係ない。名前を貸しているだけの部活が潰れたところで、何も変わらない。変わらないはずだ。でも、窓から差し込む金色の光が、古いモニターの画面にぼんやり映り込んでいるのを見ていたら、少しだけ胸の奥が重くなった。

この光が消えるのは惜しい、と。

それが部活への情なのか、ただの光への執着なのか、自分でもわからないまま、僕は黙って窓の外を見ていた。グラウンドの向こうで、空の色がゆっくり藍に変わり始めていた。

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